60二話『雷鳴を連れて座敷稚子は顕れり』

 眼が合った。眼は在った。


 忠嗣は後輩の偽眼いれめが奪われ、顔の左側にくろあな穿うがたれているのではあるまいか、と心配し、円卓の正面を恐る恐る見遣みやり、次いで安堵した。常と変わらない。


 硝子細工なのか、陶器なのか、書肆の薄燈うすあかりの中でそれは時折、強く煌めく。不思議な光で、妖しくもある。しかし、偽眼を簒奪して我が物にしようとは思わない。矢張り、垣澤耿之介かきざわ・こうのすけは変わり者で、世の常識から遠いところにおわす。


「女性が二人に増えた矢先に猥褻な演題は如何なものかとは思うけど、深層に於いては性別を凌駕しているし、下品なようでいて下品と決め付けられない」


 やや思わせ振りな口上で、何時もの歯切れの良さはなかった。銀髪紳士の指示で與重郎は奥の書架に赴き、下段の抽斗ひきだしから半ば非売品扱いの本を取り出す。


 傷んだ表紙を見て、忠嗣は失望を隠せなかった。ひと頃流行った猟奇雑誌の中でも羊頭狗肉の感が強い『變態・資料*』である。


「この雑誌の何処だっけかな、付箋が外れてしまったようです。女相撲なんですが、挿絵があったはず」


 女性陣の反応も微妙だ。女相撲は見世物として各地を巡回する。専門の一座が複数あるらしく、忠嗣の郷里に来たこともあったが、町の話題をさらった記憶はない。力士も醜女しこめで、迫力にも欠くとのもっぱらの評判だ。


 そして相撲と聞くと嫌な思い出が蘇る。平河町事案で所轄に連行される原因となったのが、赤坂日枝神社の奉納相撲だ。最前列で少年の褌姿を眺めていたところを寫眞に撮られ、容疑が深まった。


 爾来じらい、忠嗣は寫眞を掲載した報知新聞を今も恨み、上野驛のキヨスクで見掛けても決して手に取らない。


「與重郎君、先頭の頁だね。そうそう、それだ」


 元の絵が頼りないのか、安っぽい印刷で粗々しく、眼をらす必要があったが、土俵に立つ女力士は上半身裸、乳房も丸出しだった。櫻子はそれを見て笑い、須磨子は喰い入るようにみつめる。


「両国の力士と少しも変わらないな。女も裸で相撲を取ったのか」


 少佐も意外に思ったようだ。当代の女相撲は衣で胸を蔽い、褌の下にも肌着を付け、猥褻な要素は微塵もない。興行とは言え、運動競技の体裁を整えている。裸相撲の絵は、明治の劈頭へきとうか、旧幕時代のものだろうか。

 

「この絵に関しては不明だけれども、御江戸での女相撲の始まりは延享えんきょう年間というから二百年近く前だね。文明開化の声を聞いて着衣が義務付けられるまで、上半身は剥き出しだった」


 雑誌の絵は黄表紙からの抜粋と推定されるが、年代は詳しくは分からないという。井原西鶴いはら・さいかくの出世作にも女相撲の描写があり、上方から江戸の市井に伝わったと考えられるようだ。


直垂ひたたれ装束の立派な行司さんも居りますが、土俵の上、中と言うのでしょうか、そもそも女人禁制にょにんきんぜいの決まりがあるのでは御座あませんか」


 軽くくびを傾げつつ、須磨子が尋ねた。今を時めく横綱や大関の名は知らずとも、女相撲には関心があるようだ。女しか愛せないという高尚な趣味の持ち主である。忠嗣は先日の勇気ある告白を思い出し、合点した。


「禁制は國技館の命名者でもある板垣退助翁の相撲改革が由来だね。比較的最近とも言えるが、相撲の原初が女性力士で、奉納の儀式を逆手に取った女相撲も存在するんだ」


 相撲という言葉は先ず日本書紀の雄略天皇の巻に現れる。往来で采女うねめが召し物を脱ぎ、褌一丁で相見あいまみえたと記された。他方、東北では天の怒りを招く為に女相撲を催したという。敢えて禁を破る非常に変わった雨乞いの儀式だ。


「おや、そんな話を聞いてたら本当に雨が降ってきたようですね。しかも結構強い。颱風たいふうは未だ遠くにあるはずですが」


 書肆奥の小窗こまどが開いていた。與重郎は慌てて駆け寄り、閉めるついでに外の様子を窺った。


「今度の颱風は鈍行で、十七時の観測では眼が神津島こうずしまの南にあった。帝都最接近は明日正午以降で、房総沖に逸れる可能性も高い。但し、前線が刺戟されて離れた場所で大雨が降ることもある。多分、この雨はそれだな」


 少佐の解説は中央気象台よりも緻密だった。その筋の専門業者かと忠嗣は疑うが、俄か雨は烈しく、帰宅の途次が心配になる程だ。風も荒々しい。


「私も颱風は明日が備えの本番と聞いている。天の怒りではなく、通り雨と願いたい」


 司会役は空模様を懸念しつつ、話を雑誌の挿絵に戻した。


 乳房を晒す女力士の取り組み。御維新の後、往来は元より境内の勧進相撲でも露出は固く禁じられた。しかし、それは競り合う土佐闘犬に衣裳を着せるような愚行だと申す。


「旧幕時代も今も女力士は人間ではない。怪物なんだよ」


「今も……しかし、美人の誉高い女力士が居て、歌劇団の麗人を凌ぐ人気とも聞くけどな」


 少佐が疑問を挟み込んだ。山形の興行社に、若緑わかみどりなる四股名の容姿端麗にして技も巧みな女力士が籍を置き、活躍が新聞でも報じられていると話す。性格も明るい美人で怪物とは縁遠く、運動選手よりも役者に近い。


 女性陣、特に須磨子は美人力士の逸話に興味を抱いたようだが、耿之介は風変わりな見世物だと切り捨てた。気色ばむことはないものの、決して持論を曲げず、妙な方向から主題に肉付けを施す。それが銀髪紳士の熟練した話術のようだ。


「大相撲で引退した横綱やらが、断髪式をするよね。体力も気力も落ち、負け越して千秋楽が過ぎた後に角界引退を表明。でも直ぐにまげることはない。長い髪のまま暫く過ごす。これ、不思議だよね」


 少年相撲にしかそそられない忠嗣には、別段、奇異には思えない。そもそも断髪式について詳しく知らず、新聞の運動欄でも読んだ覚えがなかった。


「三箇月ぐらいは普通で、遅い時は引退を決めてから半年後に漸く断髪式が執り行われることもある。儀式は簡素で準備が煩雑なこともないけれど、一定の間を空ける。それは力士が怪物から人間に戻る為に必要な時間なんだ」


 怪力乱神とは言わないまでも、力士は腕力に於いて人間を超えた存在であらねばならない。化け物、或いは怪獣。その決闘を神々は喜び、尊ぶ。


 人同士のいさかいは愛でずとも、怪物のたたかいは面白く愉しく、観賞に値する。奉献、奉納、神前に供える意図は、昔も今も変わりがない。


「人間ではないと言ったら語弊があるので、超越者と表現すべきか。力士は土俵上で怪物を演じるのではなく、選ばれし怪童だけが土俵に上がれる。そして彼らは引退し、長い時間をけみして再び人間となり、人の世に還るんだ」


 持論は常に極論だ。相撲は、羅馬ローマコロッセオの決闘士や猛獣狩りとは明確に異なるという。娯楽でも見世物でもなく、神への供物。女相撲の裸婦も人ならざる者であり、聖性を備えていると訴える。


「もう随分と前になるけど、書肆で観た映畫えいが、これも獨逸ドイツ表現派で『巨人ゴヲレム』という傑作があって……」


 言葉は掻き消された。霹靂へきれきである。閃光とほぼ同時、町内の一隅に落ちたかと思える程に凄まじい音だ。耿之介は女相撲を皮切りにして怪物について講釈を垂れる予定だったと見受けるが、雷撃ははなしの流れを截斷せつだんした。無敵の泥人形も豪雨に遭遇すれば、ひと溜まりもない。


「風も荒れ放題だ。颱風の前触れにしちゃ、苛烈過ぎる。こりゃ、國電のダイヤグラムも乱れて、停まるかも知れない」


 少佐と櫻子が息を合わせたかのように腰を上げる。書肆入り口の堅牢な扉も揺れ、小窗の向こうには瀑布があった。


「土砂降りや。こりゃ、あかんかも」


「櫻子さん、そう心配なさらずに、帰りも村雨號むらさめごうで送らせて頂きますわ」


 再び紫電一閃、二秒と待たずに雷鳴が轟く。直上で天穹が裂けたかの如く、書肆が揺れた。錯覚ではない。カツプの珈琲にさざなみが生じている。


 與重郎は会計卓裏の配電盤に駆け寄り、幾つかの照明を点けた。光を以って光を制するという按配だ。


「花柳街の端、大正通りまで行かないところにタクシイの営業所がある。最悪、そこから呼び出す。今日は予報を信用しないで中止にすれば良かったかも知れないなあ。でも運賃は私がおごるから気兼ねせず、少々様子を見よう」


 銀髪の紳士は責任を痛感している風だった。以前に二度三度と大雪で金曜會を取り止めたことがあったものの、颱風や豪雨に阻まれた経験はないという。再び光った。秩父育ちの忠嗣にとって稲妻は慣れたものだが、地震に似た家屋の振動は頂けない。


 一同、どうしたものかと途方に暮れ、会話も減る。雷鼓らいこと静寂。それが幾度か繰り返された時、書肆の奥からあしおとが響き、飛び出して来た者が居た。下働きの佐清すけきよではない。 

 

 若い女、見たことのない娘。長い髪に鮮やかな浅葱色あさぎいろの浴衣。幼さの残る貌は白皙はくせきで、生気を欠く。忠嗣の眼には古風な童女、奥羽おうう民譚にある座敷稚子ざしきわらし*のようにも映った。


「御兄様、御兄様」


 そう言って與重郎に飛び付き、細い、白い腕を絡めた。忠嗣の真横、肩を掠めて、稚子わらしが躍る。予想だにしない、信じ難い光景。紫電に彩られた幻などではなく、現実に隣りに居て、繰り広げられる。



<注釈>

*『變態・資料』=実在したエログロ雑誌。大正末から昭和三年まで発行され、通巻二十一号に及んだ。

*座敷稚子=柳田國男が用いる独特の表記。


<参考図書>

柳田國男『新訂 妖怪談義』(角川ソフィア文庫 平成二十五年刊)

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