60二話『雷鳴を連れて座敷稚子は顕れり』
眼が合った。眼は在った。
忠嗣は後輩の
硝子細工なのか、陶器なのか、書肆の
「女性が二人に増えた矢先に猥褻な演題は如何なものかとは思うけど、深層に於いては性別を凌駕しているし、下品なようでいて下品と決め付けられない」
やや思わせ振りな口上で、何時もの歯切れの良さはなかった。銀髪紳士の指示で與重郎は奥の書架に赴き、下段の
傷んだ表紙を見て、忠嗣は失望を隠せなかった。ひと頃流行った猟奇雑誌の中でも羊頭狗肉の感が強い『變態・資料*』である。
「この雑誌の何処だっけかな、付箋が外れてしまったようです。女相撲なんですが、挿絵があったはず」
女性陣の反応も微妙だ。女相撲は見世物として各地を巡回する。専門の一座が複数あるらしく、忠嗣の郷里に来たこともあったが、町の話題を
そして相撲と聞くと嫌な思い出が蘇る。平河町事案で所轄に連行される原因となったのが、赤坂日枝神社の奉納相撲だ。最前列で少年の褌姿を眺めていたところを寫眞に撮られ、容疑が深まった。
「與重郎君、先頭の頁だね。そうそう、それだ」
元の絵が頼りないのか、安っぽい印刷で粗々しく、眼を
「両国の力士と少しも変わらないな。女も裸で相撲を取ったのか」
少佐も意外に思ったようだ。当代の女相撲は衣で胸を蔽い、褌の下にも肌着を付け、猥褻な要素は微塵もない。興行とは言え、運動競技の体裁を整えている。裸相撲の絵は、明治の
「この絵に関しては不明だけれども、御江戸での女相撲の始まりは
雑誌の絵は黄表紙からの抜粋と推定されるが、年代は詳しくは分からないという。
「
軽く
「禁制は國技館の命名者でもある板垣退助翁の相撲改革が由来だね。比較的最近とも言えるが、相撲の原初が女性力士で、奉納の儀式を逆手に取った女相撲も存在するんだ」
相撲という言葉は先ず日本書紀の雄略天皇の巻に現れる。往来で
「おや、そんな話を聞いてたら本当に雨が降ってきたようですね。しかも結構強い。
書肆奥の
「今度の颱風は鈍行で、十七時の観測では眼が
少佐の解説は中央気象台よりも緻密だった。その筋の専門業者かと忠嗣は疑うが、俄か雨は烈しく、帰宅の途次が心配になる程だ。風も荒々しい。
「私も颱風は明日が備えの本番と聞いている。天の怒りではなく、通り雨と願いたい」
司会役は空模様を懸念しつつ、話を雑誌の挿絵に戻した。
乳房を晒す女力士の取り組み。御維新の後、往来は元より境内の勧進相撲でも露出は固く禁じられた。しかし、それは競り合う土佐闘犬に衣裳を着せるような愚行だと申す。
「旧幕時代も今も女力士は人間ではない。怪物なんだよ」
「今も……しかし、美人の誉高い女力士が居て、歌劇団の麗人を凌ぐ人気とも聞くけどな」
少佐が疑問を挟み込んだ。山形の興行社に、
女性陣、特に須磨子は美人力士の逸話に興味を抱いたようだが、耿之介は風変わりな見世物だと切り捨てた。気色ばむことはないものの、決して持論を曲げず、妙な方向から主題に肉付けを施す。それが銀髪紳士の熟練した話術のようだ。
「大相撲で引退した横綱やらが、断髪式をするよね。体力も気力も落ち、負け越して千秋楽が過ぎた後に角界引退を表明。でも直ぐに
少年相撲にしか
「三箇月ぐらいは普通で、遅い時は引退を決めてから半年後に漸く断髪式が執り行われることもある。儀式は簡素で準備が煩雑なこともないけれど、一定の間を空ける。それは力士が怪物から人間に戻る為に必要な時間なんだ」
怪力乱神とは言わないまでも、力士は腕力に於いて人間を超えた存在であらねばならない。化け物、或いは怪獣。その決闘を神々は喜び、尊ぶ。
人同士の
「人間ではないと言ったら語弊があるので、超越者と表現すべきか。力士は土俵上で怪物を演じるのではなく、選ばれし怪童だけが土俵に上がれる。そして彼らは引退し、長い時間を
持論は常に極論だ。相撲は、
「もう随分と前になるけど、書肆で観た
言葉は掻き消された。
「風も荒れ放題だ。颱風の前触れにしちゃ、苛烈過ぎる。こりゃ、國電のダイヤグラムも乱れて、停まるかも知れない」
少佐と櫻子が息を合わせたかのように腰を上げる。書肆入り口の堅牢な扉も揺れ、小窗の向こうには瀑布があった。
「土砂降りや。こりゃ、あかんかも」
「櫻子さん、そう心配なさらずに、帰りも
再び紫電一閃、二秒と待たずに雷鳴が轟く。直上で天穹が裂けたかの如く、書肆が揺れた。錯覚ではない。カツプの珈琲に
與重郎は会計卓裏の配電盤に駆け寄り、幾つかの照明を点けた。光を以って光を制するという按配だ。
「花柳街の端、大正通りまで行かないところにタクシイの営業所がある。最悪、そこから呼び出す。今日は予報を信用しないで中止にすれば良かったかも知れないなあ。でも運賃は私が
銀髪の紳士は責任を痛感している風だった。以前に二度三度と大雪で金曜會を取り止めたことがあったものの、颱風や豪雨に阻まれた経験はないという。再び光った。秩父育ちの忠嗣にとって稲妻は慣れたものだが、地震に似た家屋の振動は頂けない。
一同、どうしたものかと途方に暮れ、会話も減る。
若い女、見たことのない娘。長い髪に鮮やかな
「御兄様、御兄様」
そう言って與重郎に飛び付き、細い、白い腕を絡めた。忠嗣の真横、肩を掠めて、
<注釈>
*『變態・資料』=実在したエログロ雑誌。大正末から昭和三年まで発行され、通巻二十一号に及んだ。
*座敷稚子=柳田國男が用いる独特の表記。
<参考図書>
柳田國男『新訂 妖怪談義』(角川ソフィア文庫 平成二十五年刊)
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