第七章〜霹靂の夜に哀しき童唄が聴こえる〜
59一話『宵風のヸオロンの節永き啜り泣』
からんころんと桶は鳴り、雫がひとつ滴り落つる。頂き
ここは色里、
「男湯の間取りは四分の一くらいで良いんじゃないかな。こんな比率の狂った銭湯も世に珍しい」
花柳街の片隅に建つふじの湯を遂に訪れた。革靴に背広姿で風呂屋に来る客こそ相当に物珍しいようで、番台に座る年増は忠嗣に仰天し、三度四度と眼を
同じ時刻を狙って暖簾を潜った。以前、忠嗣はこの銭湯の前で妙に色っぽい二人組と擦れ違い、胸をときめかせたのである。湯浴みを終えたばかりの少年の頸から湯気が立ち昇っているようにも見え、少なからず亢奮した。
それは妄想の産物だったとしても、仄かな石鹸の匂いは幻想に非ず、今尚、鼻孔の奥に仕舞われて消えぬ。
「親爺の萎びた臀ひとつ。まあ、
御目当ての少年二人組は影もなかった。そればかりか、ほかの客も少なく、湯上がりの客が下足箱の前に独り、洗い場に独り居るだけ。正反対に、仕切りの向こう側は混在を極めているらしく、女共の喋り声が渦を巻く。この時間、男女の比率は二対十五から二十といったところか。
「少々早めに湯浴みしたと捉えれば無駄足でもないか」
忠嗣の住む官舎には贅沢にも各室に内風呂があった。これは職務が夜半に及ぶことも多い官吏への配慮で、終業間近の銭湯に慌てて駆け込むような煩わしさとは縁がない。正に
小銭を払うだけで色々と鑑賞、堪能できる。
しかし、男性特有の生理現象が起きて始末に困ること再三。湯船で勃起して治らず、
その失態が巡り巡って、平河町事案に繋がったのだから、運がないとも言えるし、逆に幸運と捉え直すことも出来る。上野に流刑されなくば、富士見花柳街を漫歩して
股間に真水を注いで銭湯を出る。湯上がりの餅肌、石鹸の匂いが背広に釣り合わず、不審感を招きかねないが、横丁を抜ける風に当てて髪を乾かし、意気揚々、急ぎ足で書肆グラン=ギニョヲルに向かった。
この日は夕映もなく、夜の
宵闇に連なる
書肆の
忠嗣は、與重郎の独奏と確信し、音色に心打たれつつ、邪魔にならぬようそっと扉を開いた。
「あ、忠嗣さん、今晩は」
円卓の脇に美少年は立ち、訪問者に向かって軽く手を振った。掌を見せる
なれば演奏している者は誰か。
「こいつは悪かねえ代物だ。ま、買わねえけどな」
男は来客を瞥見し、弓を弦から離した。折角の演奏を中断させてしまったようだ。忠嗣はその侏儒を何処かで見掛けた覚えがあったが、上手く思い出せない。
「こちらは最近、度々いらっしゃる
「まあ、音樂家には違えねえな。今の曲はG線上のアリアっつうんだ」
書肆の
忠嗣は妙に感じた。以前、その位置にヴァイオリンがあった記憶はない。
「僕の使っていたヸオロンです。東京音樂學校への進學は諦めました。到底、叶いっこない。気晴らしに弾くこともないでしょうし、売り物にすると決めたんです。柏原さんが言うには由緒正しく、程度も良いと」
「値段はもっと高くても構わないぞ。ひと桁増やせとは言わないが、倍の値札を付けときな。伊太利亞のクレモナにゃ劣るが、
「はあ、柏原さんは何でも知っていらっしゃるのですね」
眼玉が飛び出る程の高値である。間違いなく書肆グラン=ギニョヲルに於ける最高級品。鍵盤の黄ばんだ手風琴の横に並べる代物ではなく、管理や保安上の問題も多少気に懸かるが、それにも
「この前の演奏会で引け目を感じたとか。そうだったら、小職は余計なことをしてしまったかも知れない」
奏樂堂からの帰路、タクシイの中で美少年は瞳に微かな憂いを宿し、思い詰めているようにも見える瞬間があった。惜しみない拍手を捧げる一方で、渠は本職の演奏に衝撃を受け、己の未熟さに気付いたのではないか。
「演奏会は素晴らしかったです。何物にも変え難い体験で、
「兄ちゃんが下手だとか言ってるんじゃねえぞ。音樂學校のヴァイオリン弾きなんざ、年に数人も門を潜れず、地方の
随分と率直な物言いで、技量が足らぬと指摘しているに等しいが、それは忠嗣が薄々感じていたことでもあった。東京音樂學校は秀才ではなく、天才が集まる学び舎だ。生半可な覚悟では臨めない。侏儒の言葉は決定的に正しかった。
「そいじゃ、売るもの売ったし、ここらで俺は
買い物客ではなく、何かを質入れしたようだ。古書店は質屋に似たところが多分にあり、特に書肆グラン=ギニョヲルには取り扱い不明の謎めいた質草が流れ込む。人体解剖模型や古い天球儀、
「何だ、こりゃ。でけえ斧だな。あの時、こんなのがあったらなあ」
帰り際、侏儒の音樂家が素っ頓狂な声を上げた。書肆の入り口、
柄は長く、刃も鋭く、
「売り物なのかな」
「いいえ、それは違います」
忠嗣が手に取ろうと身を屈めた際、扉が開き、耿之介が侏儒と入れ違いでやって来た。店の柱時計は十九時半に近いところを指している。本日は特に準備作業もない、と言いつつ耿之介は奥の書架に直行。その数分後、通りに自動車が停まった。令嬢の愛車、
「ちいと早う来過ぎたかと思うたら、そうでもないわ」
女二人組が後部座席から降りて来た。定刻より早い終業と関わりがあるのか、須磨子は村雨號で参上し、そこに櫻子も相乗りしていた。愉快そうに喋りながら、並んで円卓に着く。先日の晩餐を経て、より親密になった模様である。
賑やかな店内を見渡し、果たして何回目の金曜會か、と忠嗣は来し方を振り返った。四人だった會員は自らも含め、六人にまで増えた。春風遠く、鯉幟は畳まれ、牡丹も紫陽花も盛りを過ぎた。恐らく颱風が過ぎれば、一気に季節は移る。
ネクタイを窮屈に締めた
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