58十一話『しろがねの尖端を偽眼に向けて己の愛を語る』
地獄耳の巡視長から
物知りの
取り立てて実害はなく、蒸し返すのも野暮。すっかり忘却の彼方に消え失せていたというのが実情だ。それが一転、小洒落た西洋料理店の席上で当人が認め、陳謝するに至ったのである。
「今も情況は変わりませんが、当時は非常に焦っておりましたの。噂が広まり、殿方との交際中と受け取られたなら、別の方向に話が進むだろうと……浅い智慧でした」
と或る家と婚姻に向けた下準備が進んでいたと明かす。花婿候補は大手通運会社の御曹司で、帝國圖書館の館員と縁戚関係にあった。須磨子は言葉を濁したが、忠嗣は古株の司書だと察知した。彼女の直接の上司に当たる。管内で噂が広まれば、苦もなく耳に届くという算段だ。
「どんな男か知らんけども、須磨子はんが受け容れられる相手やなかったんやね」
通運事業は鉄道や海運を担う
「成る程、職種を天秤に掛けて悩ませようとした訳か。先行きの不透明な民間に比べれば、小職のような高等官は破産も
忠嗣は自分が当て馬となった経緯に納得した。
「いいえ、職業柄は特に関係はありません。妙な噂を立てても、巌谷司書であれば、勘違いして喰い付いて来ないと踏んだからです。決め手は貴方が生粋の男色家で、衆道を歩む御仁と確信した故だと申し上げましょう」
気負ったのか、大きな声で張り上げた。ほかの客が近くに居る中、特殊な単語を叫ばないで欲しいものである。忠嗣は
「何も大声で言わなくても。それって、御河童……じゃないや、櫻子さんに秘密を聴いたってことだよね」
「けったいなこと言わんといてくれはりますやろか。うちは何も喋っとらんで。逆に教えて貰うた恰好や」
濡れ衣だった。暴露が行われなかったと仮定すれば、矢張り過去の不始末、少年誘拐犯に間違われた平河町事案について聞き及んでいたという次第か。
しかし、小僧の立ち小便を覗き見していたことは
「出納手の
「そこまでした覚えはなく……」
撫でることは度々あっても、指を挿入するなど一度とてない。これぞ濡れ衣、冤罪。忠嗣は少々声を荒げ、向かいの席の客が振り向いた。御河童頭は酔いが回ったのか、笑いが止まらぬ様子だ。上機嫌で何よりである。
「では訂正して撤回致しましょう。それでも本当に女性に興味がないのか、
以前、禁書庫で二人きりになった際、須磨子が臀を突き出して
忠嗣は下手な芝居だったと合点する。勿論、それで勃起するような不具合は起こり得なかった。
発情する
一方、何処ぞ御曹司との縁結びとは話の筋が直結しない。
忠嗣がその不明瞭な部分を問うと、須磨子は姿勢を正し、驚くべき発言をした。
「わたくしったら、女性しか愛せないんですの。婚姻なんて一生涯、有り得ないことですわ」
眼を見張って仰天するところではなく、感嘆し、敬意を表すべきである。彼女は堂々と、包み隠さず明言した。忠嗣は先程、自らの高尚な趣味について言い
隣の櫻子はその事実を既に知っていたのか、特段の反応を示さず、ただ微笑む。酔って耳が遠くなっているだけかも知れない。奥の席に控える運転手の松風は、会話が聴こえるはずもないのに、優しそうな顔付きで三人を眺め、うんうんと頷く。
「誰とも
後輩の勇気ある告白に際し、忠嗣は驚き、脱帽もしたが、次の瞬間には冷め、全く別の事柄を思い浮かべ、安堵感に包まれた。その実、須磨子の同性の愛に関しては他人事である。
女性しか愛せないのであれば、新参の女に
「地下の書架で、或る雑誌を見掛けたのが動機と言えば、動機で御座あます」
禁書庫の社会部門には蔵書録にない奇妙な雑誌が並ぶ。忠嗣が富士見花柳街を最初に訪れた夜、書肆で纏め買いしたものだ。その中に、惚れ惚れする裸婦像があったと須磨子は話す。
妖精のような可憐な少女で、今までに見た藝術作品とは全く違った、鮮烈な印象を得たらしい。
「小職は全然、記憶ないな。『
「いいえ、忘れもしません。『エロ』とかいう殿方向けの雑誌ですわ」
少し小声で申した。確かに、その雑誌名を口にすることは女性にとって恥ずかしい。忠嗣が面白がって根掘り葉掘り訊くと、なんと須磨子は裸婦像の頁を切り取り、自宅に持ち帰って秘蔵していると白状した。
他人の雑誌を勝手に裁断するとは如何なる了簡か。
「あれや、見世に来たんは、包茎さんを買う為やなかったやんやね」
酔っ払いは必要以上に大きな声で申す。包茎さんではなく、
「奮起して書肆を訪れてはみたものの、『エロ』の古い
この告白にも忠嗣は開いた口が塞がらなかった。六腑五臓君は筆頭格の高額な商品であって、古書一冊や駄菓子ひと
「ほんで、二度目に来はった時、耿之介はんと
酩酊女も書肆訪問の
再び見世を訪ねた理由は不明なれど、美少年が彼女の獲物ではないと心得て、忠嗣は今一度、胸を撫で下ろす。泥棒猫でも、発情せし牝犬でもなかった。同性の者を愛して止まない高尚な趣味の、少々世間知らずの御嬢様だ。
加えて、耿之介との
けれども、親密な関係にあることは事実。今日も銀髪紳士の命を受け、居残り仕事に取り組んだ。どうにも腑に落ちず、忠嗣はそれとなく
「耿之介さんとは、その、会ったばかりと言うのに度を越えて近しいというか、何か裏があるような、ないような……」
「あの方が欲しているのは、わたくしの
余りにも直截的な表現に忠嗣は固まった。身体だけの関係という意味にしか受け取れない。既に思考能力が鈍っているのか、聴こえぬ振りをしているのか、隣の櫻子は眉ひとつ動かさず、料理皿の肉片と格闘する。
「ほんの冗談で御座あます。正確には肉體の一部。後々、この左の眼を差し上げることが既に決まっておりますの」
須磨子は手にする
<注釈>
*『エロ』=猟奇社が昭和五年に発行した実在した雑誌。創刊号が発禁となり、短命に終わる。
*肉叉=西洋料理で用いるフォークの和名。
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