57十話『もののふの魂は帝都の霊園に眠れり』
「何も恥ずかしいことあらへんで。在りの
気遣いの言葉で、鼓舞しようとの意図があることは理解できるが、いい加減、繰り返さないで欲しい……車内は男色関連の話で持ち切りの様相。忠嗣は後部座席の隅っこで、心理的にも物理的にも肩身の狭い思いをした。
帝國圖書館の玄関先に着けていた車は、書肆前の通りで見慣れたものだった。緋と黑の二色に塗り分けられたる外国産の自動車で、シトロヱンという代物らしい。その運転手も既に顔馴染みである。
「もしや、毎日の通勤でも送り迎えの車を使っているのかな」
「
山手の御嬢様とあっても送迎の車は認められていないようで、普段は
入念な根回しに感服するも、若い女性らしからぬ計らいで、若干の猜疑心も募る。
「あ、ここら辺でええわ。ほんのちょっとやさかい待っててな」
後部座席の真ん中に座る櫻子が停車を求めた。左右正面に加えて真後ろにも墓石が並び、卒塔婆が立つ。何の冗談か、谷中霊園*の只中である。
「
「畏まりました。御嬢様」
驛舎は國電の日暮里だろうか。訊けば特段の理由はなく、夜の
何枚か撮り終えると、今度は
「ここも上野戦争で大勢の犠牲者が出た箇所ですわ。今の恩賜公園、当時の寛永寺の境内から
本日の撮影作業の一環だったのか、それとも個人的な興味か。須磨子が説くところによれば、芳年は弟子を伴って上野戦争の現場に駆け付けたという。手には紙と筆。境内に散らばる亡骸を描き続け、自らの技法に取り込んだ。
即ち、あの無惨絵に描かれた下半身を喪失せし男の悍ましい血の
忠嗣は思い返して身を
「では、松風、出して頂戴」
車が再び走り出すと、女性たちの話題は男色に舞い戻った。霊園巡りで都合良く途切れたと思いきや、関心が離れないようである。忠嗣は狭い空間の中、虐められているようにも感じたが、さりとて、小馬鹿にして嗤う風ではない。
二人の会話は一般論を軸に、特定の個人を名指するものではない。それでも、断片を組み合わせれば、図書館司書が男色家だと分かる。当然、女たちの声は、前方の座席で操縦する者にも支障なく届き、今まで隠し通した高尚な趣味が知れ渡った。
松風と呼ばれる運転手は中年の真面目そうな男で、仕事柄も安易に他人に秘密を明かすことはないだろうが、これにて完全な部外者とも言えなくなった。少なからぬ警戒が必要で、忠嗣は早急に賄賂を渡して手懐けるべしと心得る。
そうした思惑もあって、忠嗣が若干踏み込んで前方に質問を投げると、驚くことに、一族お抱えの運転手ではなく須磨子専属の使用人だという。更に、シトロヱンも彼女の所有物。これには櫻子も大きな声を上げた。
「まるで華族じゃない。この車一台で、寫眞機が幾つ買えるんだろう」
驚きの余り、素に戻っている。
ここも芸者遊びで知られるが、
「
料亭の駐車場で、須磨子は運転手にそう呼び掛けた。村雨とは何者か。四人のほかに誰か同乗していたのか、と忠嗣は一瞬慌てたが、それは自動車の愛称で、正しくは村雨號と称するという。実に紛らわしい。
入った店は和風の外観とは異なり、西洋料理専門だった。ステンドグラスに洒落た
「御嬢様、小生はあちらの席に参ります。御用命がありましたら、
運転手の松風は独り離れ、店の片隅に畏まる二人掛けのテヱブルに退いた。主人と使用人は食事の際、同席してはならぬという流儀があるのか。須磨子は軽く頷くだけで、呼び止めはしなかった。
大きな水車小屋が描かれた油絵に、貴婦人の肖像画。壁に品書きの札はない。三人は
給仕の身振りも仰々しく、忠嗣はこそばゆくも感じたが、女二人は慣れた雰囲気で僅かにも動じない。慌てず騒がず狼狽えず。それが都会人の気っ風だ。
「注文は既に整えております。飲み物に前菜、肉料理と順番に出て参りますので、気遣いなく」
「そうなんだ。定食屋に毛が生えたようなものか。もっと堅苦しいところだと勘違いしてた」
令嬢が推奨する料理店を舐めていた。
未成年が含まれる為、金曜會では酒を酌み交わすことがなく、珈琲か紅茶が定番で、
一方、もう独りの女は盃の縁に唇を触れる程度だった。外での飲酒は原則的に許されていないと明かす。町娘と違って、令嬢は門限など様々な禁止事項に取り巻かれているようだ。
「最初に、わたくしは巌谷司書に謝らなれけばなりませんの」
須磨子は唐突に切り出した。表情は入店した際とは打って変わって
周囲の空気が俄かに変わり、寒気を引き寄せる。口腔に湿気を与えんと脇に寄せた盃に手を伸ばし、先輩司書は再度、咳き込んだ。
<注釈>
*谷中霊園=明治政府が整備した公共の墓所。昭和十年に谷中墓地から現在の名称に改められた。
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