56九話『誘導尋問に嵌った忠嗣の“無惨絵”』

 最後の浮世絵師と謳われる月岡芳年つきおか・よしとしは、旧幕時代の天保年間に生を受け、明治二十五年に没した。歌川国芳うたがわ・くによし門下の由緒正しき絵師であるが、幕末の動乱期を経て畫風がふうは大きく様変わりし、血塗れ芳年とも渾名された。


「どれも凄惨な場面ばかり。徹底していて畏れ入るな」


 猟奇雑誌で耐性を得たしもの忠嗣も怯む。血染めの武者に胸を貫く刀、ぐんして転がる屍体。それらは未だ生易しいほうで、つぶさに観ると切り落とされた腕や首の断面が詳細に描き込まれている。実物を見る機会がないにせよ、写実的と評すべきだ。


無惨絵むざんえのみを描いていた訳ではないようですが、この畫集がしゅうはそうした傾向の作品を選抜したとのことです」


 美術館の学藝員さながら、須磨子は寫眞機の隣りで解説を施すが、その文句が誰かの受け売りと直ちに分かる。訊けば案の定、垣澤耿之介かきざわ・こうのすけの依頼で芳年の作品群を撮影する次第になったと明かした。


「白と黒の寫眞じゃ血糊も灰色で、複製にはならんけど、ええんやろか」


「その点は最初から諦めている風ですわ。人物の配置や構図が素晴らしいのだとか。例えば次に撮影するこちらの絵なんか、血は一滴もないようです」


 後輩書記は別の錦絵を手に取って話す。上半身裸で天井から吊るされる妊婦。その下では悪鬼羅刹の如き老婆が出刃包丁を研ぐ。芳年の最高傑作と讃えられる『奥州安達がはらひとつの家の図』。間もなく起こる血の惨劇を明確に予告する場面だ。


 この作品が明治十八年に官吏の眼に留まり、えなく発禁処分を受けたという。鬼と化した老婆は、我が娘と知らずに胎内の孫と共になぶり殺す。人形浄瑠璃の因果咄いんがばなしを題材にした浮世絵との由だが、時の政府は裸婦を軒並み問題視したようである。


 それが巡り巡って帝國圖書館の禁書庫へとやって来た。忠嗣は暇に飽かせて浮世絵を眺めることがあったが、芳年の名は知らず、この様なおぞましくも数奇者すきものよだれを垂らす畫集が所蔵されているとは想像だにしなかった。


「何で部屋の主より詳しいのか。耿之介さんは良くここにあるって知ってたなあ」


「いえ、地下とは存ぜず、図書館の何処かにあるはずだと仰られて、わたくしが調べましたの。まあ、予想通り、禁書を羅列した簿冊を遡りましたら、直ぐにも著者名が出て参りましたわ」


 武勇伝のように後輩は語った。仕事の手際良さに忠嗣は感心するが、他方、いつ何処でその様な依頼を彼女が受けたのか、不明瞭な部分も多い。


 金曜會の席上ではない。だとすれば、須磨子は耿之介と密かに別の場所で接触しているのではないか……閑人の頭には、再び情婦だのめかけだのといった行儀の宜しくない単語が浮かぶ。 


「撮ったで。ほな、忠嗣はん、次の頁、早う捲っておくれやす」


「お、これはうっかり。じゃ次行きます、って紙芝居屋になった気分だな。そして桃太郎は猿と亀を連れて、いざ鬼ヶ島へ……うげっ、気持ち悪いな」


 胴体を真っ二つにされた男*。真っ赤に染まる腹から腸がみ出す。


 野放途のほうずに伸びたつるか、群れなす蚯蚓みみずのように複雑に絡まるが、男は屍体ではなく、尚も生きて敵を睨み、自らの腸を引き千切って投げ付けんとしている。無惨や猟奇という形容を凌ぐ凄まじい狂気がほとばしる。

 

 焦点を合わせる櫻子も、踊る蚯蚓みみずはらわたには腰が引けたようで、若干、顔をしかめた。案外と素直で、心持ちが表情に現れ易い性質たちだ。


 この御河童頭の寫眞家は、禁書庫を訪ねた経緯からも、銀髪紳士と新参の女との関わりについて、何か知っているに違いない。炯眼の持ち主である。けれども口は堅く、忠嗣が知る限り、獲得した秘密をおいれと喋ることはない。


 過日、奏樂堂からの帰路、櫻子は忠嗣の秘めたる戀心を看破した。與重郎に寄せる熱い想い。それを肉慾にくよくとも評した。


 金曜會の面々に明かすのではないか、と閑人は戦々兢々せんせんきょうきょう、身構えて賄賂を贈る算段もしたが、杞憂だった。見た目とは異なり、軽率軽薄な女に非ず。


「上手く撮れてるんやろか。ちと心配になって来もうたわ。はい、動いた。助手の方、しっかり抑えてえな」


 撮影作業に傾注すると急に親方風を吹かせて厳しくなるのが玉に瑕である。奏樂堂でも接待掛せったいがかりを半ば威嚇し、調度品やら舞台装置やらを撮り続けていたものだ。


 往時を振り返りつつ、忠嗣はふと思い当たった。炯眼でも秀でた洞察力でもない。あの時は劇場の座席で、猛々しくも軽やかに勃起している様を盗み見られたのである。生娘であれ精通していない丁稚であれ、下半身の不自然な隆起は分かる。


「撮影するのは血塗れの錦絵にしきえだけやねんけど、この芳年って絵師は美少年の絵も仰山残してはるんやて。耿之介さんが言うとったわ」


「ほほう、それは是非とも拝んでみたい。ここに畫集はあるのかな」


 美少年という単語に口と身体が機敏に反応してしまった。


 忠嗣が失態に気付き、恐る恐る女性陣の様子を窺うと、須磨子も櫻子も実に意味あり気に北叟笑んでいた。誘い水に呼び水。美少年を肩車しても、女の口車に乗ってはならぬ、と自ら戒めるが、覆水が盆に返ることはない。


「これも耿之介さんから伺ったのですが、芳年画伯は最盛期にお弟子さんを二百人も抱えられていたとか。勿論、野郎ばかりで、中には美童びどうの誉高い高弟も居たようです。さて、これは良い趣味でしょうか、それとも悪い趣味でしょうか」


 須磨子は単刀直入に訊いた。青天の霹靂へきれきに足許からとりつ。


 不適な笑みを見て、忠嗣は二人が秘密を共有していると悟った。櫻子は口が堅い女でもなかった。女同士、ここに到る道中もそれ以前も、紳士の秘め事を俎板またいたに載せて駄弁ったに相違ない。


 しかし、御河童頭の密告とは決め付けられない。同じ職場の後輩書記は、上役経由で例の平河町事案を聞いている可能性が高いのだ。情報通の巡視長によれば、上級職の館員は押し並べて知っているとの由である。


 沈黙は束の間だったが、永く永く感じられた。将棋に喩えれば王手を掛けられ、斜め後ろにも逃げ場はなく、投了だ。誤魔化したところで何の意味もない、と先輩司書は開き直るも、先行きが全く見通せない。


「高尚な趣味と答えておきましょう。名誉あるおとこの、名誉ある遊戯。隠し立てするのも無粋にして、野暮というもの」


 芝居掛かった口調と科白せりふこそ野暮だった。これまで忠嗣は人前で男色の心意気を滔々と語ったことなどない。先頃、花柳街の大筋で御河童頭に図星を指された際も言葉を濁した。


 してや今、聞き耳を立てているのは女性二人。どう対応すれば良いのか判りようもない。


「まあ、そない気張らんでも、ええんやで」

 

「ここは潔く、勇ましく明言するのが筋でしょう」


 女二人、真逆のことを申す。返答に窮し、畫集を抑える腕を俄かにふるわすと、須磨子は莞爾として鼈甲べっこう眼鏡を外して胸元に挿し、徐に髪を纏め上げて護謨紐ゴムひもで結んだ。


 金曜會の席で見慣れた姿。思惑は知れずとも、変身を演じたようである。それこそ芝居めく。


「そろそろ片付けと参りましょう。居残り仕事も程々にしないといけませんわ。手間賃代わりと言っては不充分でもありましょうが、これから御二方を晩餐に招待しますわ。既に玄関先に車が届いているでしょう」


 決定事項で、有無を言わさぬ風だった。青山の邸宅に連れ込まれるのではなく、向かう先は附近の料亭らしい。禁書庫の閑人は畫集を閉じて書架に納め、寫眞家は三つの脚を閉じて袋に収めた。


 嫌な予感はしないものの、本日の居残り作業は計画が練り込まれているように思えてならない。自動車も食事処も手配済みとは周到。忠嗣は訝りつつ襟を正し、そしてネクタイを弛めた。



<注釈>

*胴体を真っ二つにされた男=芳年が明治元年に描いた『魁題百撰相 冷泉判官隆豊』。江戸川乱歩がエッセイ『残虐への郷愁』で絶賛した。


<参考図書>

『芸術新潮一九九四年九月号:特集 血まみれ芳年、参上』(新潮社刊)

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