55八話『後輩書記の居残り命令に先輩は忍従する』

 昨夕から降り続いた長雨が恰も真夜中のであったかの如く、土も瓦も、風までもがかわき切り、東京音樂學校と帝國圖書館をわかつ土手の芝には木漏れが点となってこぼれる。


 その風景は、梅雨の終わりを予感させた。忠嗣は三階の窓辺で、頬杖を付きながら暫し眺め、時折吹き寄せる風に身を挺する。優雅な午後、煩わしいことは何ひとつない。


「また油を売っておられるのですか」


 欽治きんじの声だった。手には全集の一巻らしき圓本。書庫から閲覧室に運ぶ最中である。


「お、欽ちゃん。手伝おうか」


「軽い本です。これ式、自分で持てますよ」

  

 しりを叩く隙もなく、足早に去って行った。晴れた日は閲覧者も多く、従って出納手の作業量も増える。今しがた三階奥の書庫に遊びに行ったところ、少年団は誰しも蔵書探しに大童おおわらわ。助太刀を申し入れたが、札番号も判らぬ素人は邪魔者でしかなかった。


「サボタアジュする場所が少なくなったのが悩みと言えば悩みだな」


 椅子が硬くなって以来、宿直室を詣でることはあっても、長居はしない方針に変わった。巡視長の地獄耳は相変わらずで、噂話も詰まらなくはないが、抑々そもそも、閑人の関心が淡くなったのである。


 図書館関係者が何処で何をしようが、所詮は他人事で、失敗談も成功譚も心に響くことなく、味気ない新聞記事を読んでいるかのようだった。逆に、書肆グラン=ギニョヲルの面々については夢想も空想も妙に捗り、妄想は果てしなく膨らむ。


 興味の九割方が杜若與重郎かきつばた・よじゅうろうで、詳しく知りたいと望む事柄は特異な趣味趣向から身の上、暮らし振りと多岐に及ぶ。脳髄を侵蝕され、精神まで支配されているようにも感じる。最早、すっかり色に馴染み、重要不可欠な生活の一部と化す。


 読書の傾向も様変わりした。腐っても文官高等試験を突破した秀才だが、西洋史に大きな弱点があり、地理を含めて基礎知識が乏しかった。先日の金曜會で話題の核になった「鉄の處女しょじょ」を知らなかったのは、忠嗣ただ独りで、忸怩じくじたる思いに包まれたものだ。


「そういや相談掛そうだんがかりにハンガリア史の文献を発注しておいたんだな。食堂の出前は十五分と待たされないが、あっちはどうだろう」


 二階の目録室は、快い外気とは無縁の場所だった。曜日も時間帯も関係なく混雑し、目当てが見付からずに苛立つ者が多い為か、負の感情が寄り集まってくすぶり、空気が重く、粘度があるように感ぜられた。長く留まれば、心を病みそうだ。


「おーい、濱口君」


 屈み込む数多の閲覧希望者を掻き分け、漸く奥に達すると、新入り書記の指定席に九鬼須磨子くき・すまこが座っていた。迂闊だった。失態である。前にも似たようなことがあったように記憶するが、下手を打った。

  

「本日は濱口の当直では御座あませんの。残念でしたわね」


 職場で彼女と接するのは久々だった。二日前に廊下で見掛けたが、その際は後ろ姿で、前髪を垂らした風貌は新鮮でもある。更に、縁の太い鼈甲べっこうの眼鏡。片方の眼を隠す仕様だ。


 花柳街の書肆内限定で見せる変な丁髷ちょんまげの何処か誇らし気な装いとは打って変わって、如何いかにも堅物の書記らしく、それなりの威厳を兼ね備える。


「ああ、そうなんだ。非番の日もあるんだ」


 否、髪型も眼鏡も地味だが、召し物は常備の事務服に非ず、薄手の黄色いワンピイスで丈が短く、膝小僧も剥き出し。靴も舶来品に在りがちな先が尖った代物で、色は鮮やかな橙色と派手を極める。


 女性の服装は忠嗣の不得手な分野であるが、銀座界隈を闊歩するモダンガアル風、将又はたまた、カフェヱの不良娘を真似た出立いでたちと見受ける。


 矢張り酔狂な淫乱女なのではないか、と先輩司書は訝るが、順序立てて考えれば、仕事着に彼女の趣味が入り込む余地はない。相談掛の職務に合わせ、上役の司書、しくは館長が指定している疑いが濃い。 


 男性の閲覧者が多い図書館に於いて、やや淫らな印象をも醸し出す女性館員の服装は、サアヸス向上の一貫として打ち出している可能性もある。もしそれが真相であるなら、常道にもとり、誤った方向に進んでいるようだ。


「それじゃ、小職は用事もないので……」


「あ、巌谷司書。御迷惑と存じ上げますが、本日は地下室に居残って頂きます。定刻に退館せず、少々、手間を取って貰います」


 突然の通告である。しかも部下に当たる女性から命令口調で申し付けられた。居残り仕事など本来、あってはならぬ。霞ケ関では帰宅が夜半に遅れることも稀ではないが、ここは楽園。地獄の門番もすみやかに帰りたい。


「急に言われても、実は小職にも門限というものがあってね」


 やんわり拒絶しようとするや、須磨子は口許を抑え、一笑した。金曜會で見せたような自然な笑顔。良からぬ思惑を裏に秘め、人を罠に陥れるような雰囲気は微塵もない。


 取って喰われることはなさそうだが、居残り命令の理由は不明のままで、彼女は決して口を割らなかった。


 そして十七時を過ぎた。普段なら帰宅の途次にあって、市電に揺られている頃合いである。有無を言わさぬ須磨子の命令に素直に従い、居残ったものの、一方で忠嗣にはこれを機会に尋ねたいことが幾つかあった。


 書肆グラン=ギニョヲルを訪れた動機や、耿之介との間柄、許嫁が云々……もっとも一等気懸りなことは美少年との距離感だ。かれを寝取られるおそれは尚も排除できず、危うさが漂う。


 同時に、面と向かって詰問きつもんする度胸などないことを閑人は理解している。それとなく聴き出す話術も持ち合わせていない。


「まいど」


 扉を叩くことなく禁書庫に乱入して来たのは、永池櫻子ながいけ・さくらこだった。


 担いだ大きな背嚢はいのうには寫眞機等が詰まっているに違いない。その後ろに須磨子が寄り添う。独りではなく、二人組であったことに、忠嗣は正直、安堵した。会話に窮して寒気を覚える必要はない。


「あれ、二人一緒とは。寫眞家さんが参ったってことは、まあ、用件も推して知るべしか」


「わたくしが作業以外で居残りしろなどとお願いするはずがありせません」


 須磨子は入るなりそう言って、扉脇の電燈スイッチに手を掛け、消燈した。廊下から差し込む仄かな光を背景に、幽鬼のような姿が浮かぶ。


 忠嗣はすわと慄き、悲鳴を呑み込んだが、それも束の間、再び全てのあかりともされた。部屋の明るさを確認しただけのようだ。


「成る程、地下と言うても充分やな。こない明るければ撮影に支障はないやろ」


 御河童頭おかっぱあたまは禁書庫内を見廻し、徘徊した。定番の和装で、リノリウムの床に草履が粘着するのか、ぺたぺたと妙な音が鳴る。撮影器材の設置場所を吟味しているようだ。


「もしや、再び小職が道具替わりになるのかな」


 前に婦人閲覧室で延々と胡座をかかされ、重い新聞の製本を持たされた想い出が蘇る。


「櫻子さん、どんな按配に致しましょうか。わたくしの案は奥のソファアを反転させて、台座にするというものです」


「そう言うてはったな。ほな、忠嗣はん、そこの長椅子をくるりと回して、こっちに向けてくれはりますやろか」


 役回りが判明した。力仕事である。高等文官を人夫扱いするとは見上げた根性だが、忠嗣にはてらいも矜持きょうじもなく、命じられるまま従った。木仏きぼとけさながらに据えられるよりも増しだ。


 しかし、ソファアは重く、四つの脚が床に張り付いて容易に動かない。必死の形相で裏返すと、光線の当たり具合が微妙なのか、寫眞家は更に細かく位置を指示した。坑夫にも勝る重労働。何処ぞの御令嬢は当然の如く、手伝う素振りも見せず、書架の蔵書を眺める。


「これですね。きちんと整理しておりますので、苦もなく探し出せましたわ」

  

 須磨子は大判の畫集を抜き出して櫻子に提示した。ちらりと忠嗣が覗くと、それは浮世絵のようだった。


 影印本を造る為の撮影作業に相違ないが、して貴重なものとは思えぬ。手の甲で額の汗を拭いつつ、やや接近して再度、覗き込む。


「うわ、何だ。地獄絵図じゃないか」

 

 途轍もなくあかい浮世絵だった。月代さかやきも鮮やかな侍が坊主頭の男を踏み付け、顔面の皮膚を素手で剥いでいる。血塗れのおもてに、真っ白な眼球がふたつ。力なく垂れたくれないの両腕は坊主が既に息絶えていることを物語る。


無惨絵むざんえと申しますの。こちらは、ええと鮟鱇あんこう切り、いえ、皮剥ぎと称されるとか」


 須磨子は印象派の風景画を寸評するかの如く、澄ました表情で言った。喩えグロテスク趣味があったとしても、就業時刻を過ぎてまで寫眞家を呼んで撮影するとは思えない。屍体愛好家の顔が瞼のうらにちら付く。


 二人が誰の命を帯びて禁書庫を訪れたのか、忠嗣は直ちに察知した。

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