54七話『地獄棚の創設者は白濁液をごくりと呑む』
「おや、司書殿。こりゃ、珍しい。どういう風の吹き回しっすか」
「いやね、面倒なんでタクシイ乗ったら、早く着き過ぎてね。何処の路もすいすいと来て、あっと言う間に上野着。あ、これ、お土産でござんす」
閲覧券売場の
「こりゃ、うんめい。有り難とさん」
雨の日は出足が遅く、入館者は少ないものの、列の長さはそれなりで、皆、肩を濡らしながら傘を差し、順番を待つ。誰しも逸早く軒下に逃れたいところだが、権亮は摘み食いに躊躇しなかった。
行儀は悪かろうとも、十秒二十秒と遅れるものではない。
「はい、尋常閲覧券は一枚参銭になります。回数券は十枚で
元下足番の彼が思わぬ出世を遂げてから、幾週間も経つが、忠嗣が閲覧券売場に入ったのは、これが初めてだった。部屋は狭いながらも座布団は
「自動車で出勤とは景気が好い。重役さんですかね」
嫌味なところは少しもない。江戸っ子気質の中年親爺だ。以前、仄暗い地下に居た頃は絵に描いたような頑固な職人風情だったが、安手とは言え背広を纏うと見違える。今では客捌きに
「まあ、
近頃、
閲覧券売場を辞して地下に降りると、下足番の娘がモップ片手に突っ立っていた。足許には
「お早う御座います」
「ああ、お早うさん。昼に近いけど、お早うさん。用意万端だね」
そう言うと彼女は莞爾とした。
禁書庫は地下の
何故この部屋に、しかもソファアにどっしりと座っているのか。忠嗣は本能的に逃げ去ろうとしたが、時既に遅し。
「あ、
そのひと言で、常軌を逸した出勤時刻が把握済みと分かる。待ち構えて首根っこを
そして、禁書庫に充満するライスカレーの匂い。テヱブルの上に料理皿と飲み物がある。飯を頬張りながら、訓戒なり
「これは、お勤めご苦労様です。館長、カルピスがお好きなんですね」
テヱブルに置かれた白濁液は、カルピスに違いなかった。しかし、飲料水の種類を見抜いたところで窮地を脱せるはずもなく、次に紡ぎ出す言葉が思い浮かばない。
互いに見詰め合う主従。忠嗣の額に汗が滲み、溶けた氷がことりと鳴った。
「そう言えば、九鬼博士から御礼の書簡が届いたな」
氷の響きを合図に、館長が
「はあ、変わった雰囲気の博士でした。その節は、小職まで
「君の分は、給与から差っ引いとくから……いや、冗談だけど」
真顔で軽口を叩かれても下々は当惑するだけだ。思い返せば、忠嗣は館長と長く会話を交わした経験がなく、人柄も殆ど知らずに過ごして来た。同じ職場ではあるが、互いに個室の住人で顔を突き合わせる機会は乏しい。
関係性も
勿論、十数年や二十年先、松本館長が現職に留まっているはずもないが、それでも特殊な事情を汲み、眼に余る怠慢な仕事振りにも堪え、野放しにしていることは確かである。
「博士の書状には末尾に、地獄の門番に宜しくとあった。これ、巌谷君のことだよね」
「恐らく。この一室を地獄と仰られておりました。貶したのではなかったような」
「それは褒めたのだろう。地獄ではなく、地獄棚*だ」
閑人は正確に記憶していなかったが、そんな風に言われたような気もする。同時に博士は
「そう、あっちの言葉ではアンフェエルと呼ばれる。
米ハーバード大學の図書館では「地獄の穴」、ブルックリンの公共図書館では「宝物庫」と称されるという。当然ではあるが、館長も
「列強のどの国でも検閲があると聞きましたが、同じように発禁書籍を溜め込んでいるということですか」
「そうだね。
驚くことに、この禁書庫を設けたのが松本館長だった。旧幕時代の猥褻な絵図や御維新以降の発禁本。それらは嘗て大書庫の隅で埃を被っていたが、見直し、分類整理し、新たに特別な一室を用意したと明かす。
初耳である。即ち、この禁書庫は館長の肝煎りという次第だ。忠嗣は無用な蔵書が木造の安川書庫ではなく、防火扉も堅牢な地下の部屋にあることを不思議に思っていたが、唐突に謎が解けた。
但し、閑人が特別な書庫の大番頭に抜擢されたのではない。従来、禁書庫は無人で、専任を配置する必要はなかった。流刑になった文部省官吏の配属先がなく、取り敢えず閑職を
伝統的に帝國圖書館付の司書は半数が文部省官吏だが、勤務実態のない幽霊で、式典等に参列する以外、顔を出さない。忠嗣は例外中の例外だった。
「これは内密にして欲しいんだが……」
思わせ振りな口調に、閑人は背筋を伸ばした。直感は人事異動と告げている。門番の職を解かれ、霞ケ関復帰が内定したのではないか……ごくりと生唾ひとつ。
「近々、食堂の献立を一斉に値上げする。
無類のカルピス好きのようだ。当たり前だが、人事異動は文書による通知が決まりで、ライスカレーの皿を前に話す事柄ではない。館長は薄まった白濁液を飲み干すと、書類の束を抱えて禁書庫を後にした。
当面、異動はなさそうだ。残念でも無念でもない。ここには座り心地の好いソファアもあれば、出前も来る。忙しい図書館の上の階とは隔絶した静謐にして雅やかな居場所。地獄の異名を持つ真の楽園である。
<注釈>
*地獄棚=フランス国立図書館の一隅にある書架で、一八三○年代に設置され、猥褻及び異端の書籍が納められた。一九一三年に詩人アポリネールらが地獄棚の禁書目録を作成。ボードレール『惡の華』は一四○九番だった。
<参考図書>
澁澤龍彦『澁澤龍彦全集第七巻』(河出書房新社 平成五年刊)
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