52五話『美肌の秘訣は生娘の鮮血だと盲信した』

「欧州のひがし方面、オスマン土耳古トルコの北や黒海こっかいの周りは結構な混乱期だな。でも、ルネッサンスの波が覆い始めた頃でもある」


 少佐は烟草タバコくゆらせつつ、地理の解説をする。彼は歴史も得意だが、取り分け古今東西の古戦場に関して詳しく、恰も精密な地図が頭の中に拡がっているかの如く、縷々るる語ることもあった。


「それがエルゼベエトの嫁ぎ先は山奥だった。カルパティア山麓のチェイテ城。映畫えいがの冒頭に出てきた蜘蛛の巣だらけの古城に近いのかも知れない。そこは取り残され、村人は古来の魔法を信じ、因習に捉われていた」


 深い森の奥の辺鄙な地方は、暗い中世の香りに包まれ、もやの向こうには狼も群れを成す。伯爵夫人は若くして城に幽閉されたのだ。


 留守がちな夫に、意地悪なしゅうとめ。普通の娘でも気が滅入って鬱々となる暮らしだが、彼女の家系は永年ながねんに渡る近親婚で遺伝的な痼疾こしつに悩まされ、エルゼベエトの激しい癇性かんしょうもその一種と考えられた。


「都から遠く離れた古城で、伯爵夫人は美の虜になった。元から美人だったが、自分を磨くことに執心した。香油や薬草を煎じた軟膏を全身に塗り、艶やかな髪や白い肌を保つ。その偏執的なナルシズムが全ての元兇とも言える」


 或る日、侍女の落ち度に癇癪かんしゃくを起こしたエルゼベエトは、怒り狂って仕置をした。流血を厭わない酷い懲罰。伯爵夫人も返り血を浴びる。


 落ち着いた後、血を拭うと、その箇所だけ肌が白くなっているように思えた。錯覚に過ぎないが、彼女は血が肌理きめを細やかにすると信じた。盲信したのである。


側仕そばづかえは女性ばかりなのですか」


「そう。男は独りも寄せ付けない。若い侍女が好みだった」 


 須磨子の問いに、耿之介は意味深な笑顔で返す。忠嗣の隣りで、與重郎は眉根を寄せ、深刻な表情で推移を見戍みまもる。血の効能に触れたところで話の大凡おおよその筋は見えて来た。


「果てしなき血への嗜慾しよくが始まった。エルゼベエトは侍女を次々に殺めて血を全身に塗りたくり、古城の地下にあった食糧貯蔵庫は陰惨な処刑室へと変わった」


「次々に、って辺鄙な田舎ですよね。手に掛けてしまったら代わりが居なくなるんじゃないのかなあ」


 惨状に相応しくない素朴な疑問である。忠嗣も茶々を入れずに拝聴していたが、美少年と同じ感想を抱いた。大都会に出現した切り裂き魔ではなく、特定の狭い地域。毒牙に掛かる女性の数にはおのずと限りがある。


「城に送り出した娘が還って来ない。村人も不思議がるだろう。でも、そこは中世の貧しい田舎だ。親は綺麗な服を貰うと喜んで娘を差し出しだそうだ。そしてエルゼベエトの充実な下僕である侏儒しゅじゅの男が女衒ぜげんのような働きをして遠くの村々から百姓娘を掻き集めたとも伝わる」


 城下の村に暮らす牧師は相次ぐ失踪劇に不審を募らせた。しかし、相手は領主たる伯爵家で追及することは叶わず、歳月が無為に過ぎる。旦那も姑も鬼籍に入り、のこされた伯爵夫人の暴虐は更に激化した。


「求めたのは女だけだった。それも生娘の鮮血しか効果が得られないと信じたようだ」


 映畫のドラキュラ伯爵が礼儀正しく見える。ひと口ばかり血を吸うのと血溜まりに身を浸すのとでは規模が著しく異なる。大虐殺ではないか。一同が話に聴き入り、固唾を呑んで静まった時、不意に書肆入り口の扉が鳴った。


 濡れた傘を手にした黒衣の来訪者。開け放たれた扉の隙間から雨音が漏れ入る。不審人物ではない。前に見掛けた九鬼くき家の運転手である。


「御嬢様、予定の時刻を過ぎております。御帰宅の支度を」


「あのう、ちょっと待ってくれないかしら。今、丁度お話が佳境に差し掛かっておりますの。今回に限っては譲れないと申せましょうか……お願い。そうだわ、見附みつけの信号機が雨で故障したとか、そんな理由に致しましょう」 

 

 見附とは赤坂か四ツ谷か。帰宅の道順は兎も角、やや強く突っ撥ね、また誰かに懇願する後輩書記の姿を初めて目撃し、忠嗣は意外に思った。淑やかな令嬢ではなく、我がままな箱入り娘といった風情である。


「そう申されましても約束は約束で変わり御座いません」


「まあまあ、間もなく終わりますので、先ず傘を置いて、あちらにお座り下さい」


 耿之介が割って入り、した。與重郎も機敏に動き、書肆の奥、映写機の脇に置かれた腰掛けへと誘導する。


 運転手は躊躇いつつも、強く促され、大人しく座った。人前で御息女と言い争いになるのを恐れた為か、或いは須磨子の性格を斟酌して素直に引き下がったのか。


 もう独りの和装の女は、何処からか余分なカツプを取り出して珈琲を淹れ、運転手の接待に加わる。三者三様の手際で、団結しているようにも見えた。忠嗣と少佐は蚊帳の外で、ぼんやりと眺めていただけである。


わか、何事ですか」


 今度は書肆の奥から聞き慣れぬ声が響いた。大男の佐清すけきよである。映寫機の片付けを傍らで待っていた模様だ。忠嗣は初めて彼の声色に触れ、印象を刷新した。


 前回は濡れた髪を振り乱し、風体も所作も異様であったが、声を聴くと実に普通で、頭の切れる老舗問屋の番頭といった趣きも備える。


「ああ、佐清、まだ片付けは要らないんだ。下で控えていておくれ。必要になったら僕が呼びに行くから」


 與重郎の言葉で、忠嗣は重要な職務を思い出した。銀幕代わりの白い幕を取り外す際に肩車をするのだ。美少年の股間に頭を挿し込む。想像しただけで勃起する。


 不埒な考えが浮かぶ中、視線は泳ぎ、何故か佐清の下半身に向かった。


 在るべきものが、そこにはないのだ。スボンの奥に去勢という残酷な事実が隠されている。去り行く後ろ姿を見詰め、暫し想いを馳せていると、円卓の隅から咳払いが聴こえた。耿之介が発したものである。


「それじゃ話の続き、宜しいかな。三十分前後延長という次第で。運転手さん、雨の降り出しは路面が滑りやすいので、こういう時こそ急いではなりません。危ないです。で、ええと、何処まで語ったんだっけかな」


 水を挿された恰好で、講談師は調子を崩した模様だが、さらりと延長を予告した。須磨子の運転手が乗り込んで来たとなれば、柱時計に眼をらずとも二十一時を過ぎたと知れる。外は夜雨が降りしきっているようだ。

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