51四話『吸血鬼伝説を凌駕する血染めの伯爵夫人』

「確かに古い時代に源があって、吸血鬼は狼男と似た部分が多い。ヴァンパイアのほかに映畫えいがではノスフェラトゥとも言っていたけど、由来は不明だね。ドラキュラの原作ではにんにくも嫌う。焦がした時の強烈な匂いは、ナザール・ボンジュウと同じで、広く魔除けの効果があると信じられて来た」


蝙蝠こうもりに変化するのは何なのでしょうか。立襟たてえりの黒い外套も翼のようでしたわ」


 もう独りの女が訊ねた。席次は前回と同じく司会役の隣りで、不都合なことに先輩司書の真正面に位置する。


「実に良い質問だ」


 耿之介は相変わらず、依怙贔屓する。下心が透けて見えるが、それはめかけにしたいといった世間並みの嗜好から外れ、余りにも特殊だった。紳士が偏愛するのは彼女の偽眼いれめで、図らずも或る者は、ひと眼惚れと評した。


「大航海時代に新大陸で血吸い蝙蝠が発見されたんだ。頸筋くびすじとは限らないが、本当に人や獣の血を吸う。その珍種が従来の蝙蝠の禍々しいイメエジと結び付いた。恐怖の対象。鍵になるのは、吸血鬼の特徴である感染力だね」


 黒死病の発生源とされる溝鼠どぶねずみ同様、西洋では蝙蝠が疫病をもたらす悪魔のとりと見做され、忌み嫌われた。噛まれたり鉤爪かぎづめで引っ掻かれたりした者が高熱を発し、家族や隣人に伝染。ひとつの村を滅ぼす程の威力があった。


「僕は蝙蝠を見たことがあります。四ツ谷界隈だったかな、宵の口の地面も建物も群青色に染まる頃、燕のように低く、大きな蝶々か蛾みたいにはねせて飛ぶのです」


 美少年は希少な動物を目撃したかの如く、自慢気に話した。その発言に対して、女性陣は「見たことがない」と口を揃えて驚く。


 帝都では蝙蝠を滅多に見掛けないのか……忠嗣ただつぐは都会人が珍しそうに語ることに愕然とした。秩父では町外れでも頻繁に現れ、瓦斯燈ガスとうを掠めて舞う姿を度々目撃したものだ。


倫敦ロンドンとか西洋の大都会はどうなんだろうね。狼も彷徨うろついてないだろうし、蝙蝠も辺鄙な山里の象徴かな。そういった旧来の怪談の要素を詰め込むのが、娯楽映畫の技法で、鏡に姿が映らないのも古い伝承からの孫引きだね」


「魔除けの鏡と似た仕組みか。西洋では亡者や悪魔は鏡に映らない。一方、洋の東だと鏡は魔物の正体を暴く。歌舞伎で玉藻前たまものまえを九尾の狐だと見出すのが照魔鏡しょうまきょう。全く逆とは言えないな」


 少佐は歌舞伎や能、狂言に妙に詳しく、最近は足が鈍くなったものの、昔は暇を見付けては観劇したと明かす。


 どのような生業なのか、今以って不詳なのは、この中年男だけとなった。耿之介に負けず劣らずの博学で、記紀風土記から和歌集など古典文藝にも通じる。隅に置けぬインテリゲンチャであることは間違いない。


「映畫では登場人物が迷信や伝承と話していたけど、本邦では、その吸血鬼伝説みたいなものはないのかな」


 忠嗣が訊ねると、少佐は待ってましたとばかりに顔をほころばせ、雑学を越える分野の知識をひけらかす。それでも物腰低く、言葉も柔らかい為、嫌味なところは少しもない。


「あるよ。九州方面に伝わる磯女いそおんな。上半身裸の美女で下半身がかすんでいるんだ。マアメイドやロウレライとも重なっていて、漁師を誘惑し、そして生き血を吸う。あと飛緑魔ひのえんま。絵草紙に描かれた妖怪で、彼女も男をたぶらかして血を啜る。我が国では女が吸血鬼なんだよな」


「それは素晴らしい着眼点かも知れないね」


 耿之介は懐中から葉巻入れを取り出し、おもむろ燐寸マッチを擦った。前にも見られた仕草だ。忠嗣はその光景に接して合点する。滅多にたしなまない葉巻は、長い演説の始まりを予告する合図だ。


「手数だけど與重郎よじゅうろう君、さっき指定した売り物を持って来て貰えるかな。そうそう、例の小さくて重たい人形」


 今回は事前に打ち合わせがあったようだ。司会役に指示された美少年は、銀幕の裏に回り込み、徳利とっくり大の品物を携えて円卓に戻って来た。錆び付いているのか、全体的にくろみ、人形には見えない。


 紫烟しえんくゆらせ、銀髪の紳士は頭部と思しき箇所を撫でた。キネマ上映会とあって、時間もだいぶ経過しているが、ここからが本番といった雰囲気である。


「映畫では冒頭から繰り返し、ひとつの地名が連呼される。ルーマニア国の辺鄙な山間らしい」


「伯爵の居城があった場所ですね。何度も出て来ました。トランシルヴァニアでしたっけ」


「おお、與重郎君、記憶力が良いね。御父さん似で賢いなあ。ドラキュラ伯爵が五百年を過ごした地方だ」


 こちらは贔屓ではなく、率直な感想のようだった。店主に対する気遣いはあるものの、実際、美少年は西洋の樂器や外国の地名人名に詳しく、正確に覚えて暗誦する。


「迷信とか伝説という割には、妙に具体的だと思いましたわ。そのトランシルなんとか」


 須磨子は五文字以上の外来語に弱いらしい。ごく一般的な大和撫子とも言える。


「原作本でもモデルは実在の人物で、十五世紀ワラキア公国の君主、ヴラド参世さんせい。先代が龍騎士団に列せられていたことに因み、ドラクル公と呼ばれたんだ。別名が串刺し公で、おぞましい処刑を記録した木版画も残っているけど、吸血行為とは生涯無縁だったようだね」


 映畫では伯爵だったが、より格上の君主である。ドラキュラは、ドラクルの息子を意味するという。敵兵を串刺しの刑に処するとは残忍極まりないが、誤解や曲解が多く、史実的にも暴君と断定するに足る材料は乏しい模様だ。


「創作が多いとちゅうことねんね」


「うん、ドラキュラっていう名前は抜群なんだけど、名を拝借しただけで、実在する吸血鬼は別に居る。それがエルゼベエト・バアトリ*。美貌の伯爵夫人で、世界史上、最も血を愛した貴婦人と言えるね」


 屍体愛好家の本性が露出する。極上の料理を前にしたかの如き満面のみは、眠れる美女の頸筋くびすじに牙を寄せるドラキュラ伯爵に似ていた。

 

 バアトリ家は、かのハプスブルク家と深い繋がりを持つ名門で、祖先は代々トランシルヴァニア公国の領主を務めた。古い貴族の家柄に相応しく、エルゼベエトには幼い頃からの許嫁いいなづけり、十五歳で地方の伯爵と結婚する。


「十六世紀中葉。オスマン軍との攻防が激しく、軍人だった旦那は城に居ることが稀だったらしい。一説では、エルゼベエトは夫と同衾どうきんした経験がなく、生涯、處女しょじょを貫いたとも。所謂いわゆる、同性の愛。同時に男を蔑んでいたようだね」


 男色と比肩する女性同士の色戀である。忠嗣は俄然、興味が湧き耳をそばだてだが、同時に秘密を知る櫻子が余計な口を挟む虞れもあって、細心の注意を払った。何か言いたげな気配で、その隣の須磨子も少し昂ぶった面持ちだ。



<注釈>

*エルゼベエト・バアトリ=十六〜十七世紀に実在したハンガリー王国の貴婦人。英語風にエリザベート・バートリと紹介されることが多い。

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