50三話『ドラキュラ伯爵の牙は倫敦の夢を見る』

「忠嗣さん、それは凄いことだよ。かの九鬼周造くき・しゅうぞう博士の謦咳けいがいに接したとは……誰彼たれかれ構わず吹聴ふいちょうして、大いに自慢すべき体験だ」


 話を聞くや、垣澤耿之介かきざわ・こうのすけは瞠目し、心底憧れ、実に素直に羨ましがった。軽薄な小噺のついでに職場での体験を語った忠嗣が、その高揚した調子に圧倒され、尻込む程だった。


「高名な学者様とは露知らず、紅茶と甘味まで奢って貰ったし。あれ、誰が食事代を払ったんだろう」


 亢奮こうふんするのは銀髪の紳士だけで、金曜會のほかの面々は誰も知らなかった。遠縁のはずの須磨子も博士の名は聞き覚えがないという。


「珍しい苗字ですし、遡りますと同じ血族ではありましょうが、今や一族が集う機会もなく、噂に上ることも御座あませんわ」


 早くも會に溶け込み、見世の常得意であるかのように落ち着き払い、臆するところが寸分もない。


 初回も二回目もじ怖じし、挙動不審だった先輩司書とは対照的。それは性格に由来するものなのか、都会人の風格なのか。忠嗣は堂々たる様に感心し、後輩書記の度胸を認めた。

 

 髪型は勤務中とも前回とも異なり、童女の丁髷ちょんまげ風ではなく、後ろで束ね、蝶々を模した西洋風のした櫛を挿している。前髪を掻き上げ、剥き出しの額は同じだ。即ち、左眼を隠す意識はない。


 但し、表情は詳しく窺い知れなかった。今回はキネマの上映とあって、何時いつもの円卓はなく、椅子が二列、劇場のように並ぶ。女性二人が前列、忠嗣と與重郎は後方の列に腰掛けた。先日の奏樂堂を思い出す。


「そうでした。開演する前に、忠嗣さんが演題向けの資料を持っていらしているんです。耿之介さんに渡しておきましょう。僕は仲々、興味深いと思いました」


 禁書庫で発掘した安樂死に関する小冊子と、その概要を纏めた覚え書。今宵、忠嗣は面々より一歩早く書肆を訪れ、美少年と相談したのだ。


 頼りは英文の小冊子ひとつで、深掘り出来る話題か否か、若干の不安が生じ、事前に反応を確かめたところ、與重郎の印象は好く、大いなる関心を示した。


「ほほう、ユウサネイジアか。面白そうだね。私は門外漢とも言えるけど、刺戟的な問題であることに相違ない。次回か次々回に取り上げよう。この小冊子は借りて宜しいのかな」


 同様に惹き付けられたようだ。更に忠嗣が翻訳した原稿を差し出すと、耿之介は「それは助かる」と喜び、鞄に仕舞った。小冊子は勿論、図書館の蔵書だが、既に服務規程違反を重ねており、些細な問題ですらない。


 袖にされるとは想定していなかったが、望外の反応と言えよう。後輩を前して体裁を保った格好で、忠嗣は安堵した。何よりも與重郎が援護してくれたことが嬉しく、囲碁か将棋で痛快な一手が決まった気分である。


「それじゃあ、店内の照明を落とします」


 銀幕に光が差した。冒頭、出演者の名簿と共に、チャイコフスキヰの楽曲が流れる。無声ではなく、トーキーだ。今回の映畫えいがは亞米利加産の『魔人ドラキュラ』。本邦では昭和六年に封切られ、そこそこ話題となった作品である。


「純粋な娯楽映畫ごらくえいがだね。筋書きも複雑なところはなく、形而上学的な命題を含むものではなく、まあ、気楽に」


 映寫機を操る耿之介は、同じような科白セリフを幾度も吐いた。公開当時、忠嗣は學生で、帝都の繁華街で大看板を見掛けたが、切符を買うことはなかった。


 それでも主演男優ベラ・ルゴシの名前と顔は脳裡に刻まれていた。所謂いわゆるオールバックの髪型に眼光鋭い悪人面あくにんづらが異彩を放ち、正に魔人たる風格を兼ね備える。


 キネマの幕開けは欧州の何処かにある険しい峰。紳士が村人の制止を振り切って蜘蛛の巣城に至り、ドラキュラ伯爵の毒牙に掛かる。血を吸われた紳士は死せず、下僕となって働き、伯爵を倫敦ロンドンへと案内。魔人は正体を隠したまま英国貴族と交流を結ぶ。


「ここでも癲狂院てんきょういんが出てくるのかあ」


 隣りで與重郎が呟いた。冒頭で血を吸われた男は気がれて醫院に収容され、そこでヴァンパイアの疑惑が持ち上がる。だが、感染は例外的なようで、多くは吸血行為により死に至る模様だ。


 伯爵が狙いを付けた一家では、第一の犠牲者が生まれる。うら若き女が血を吸い尽くされて絶命。その際も猥褻な場面はなく、刺戟は控え目。展開は犯人探しに重きを置く探偵小説風だ。


 前列の女性二人組は、驚きもふるえもせず、時折、私語を交わす。銀幕に映る西洋女の身形や装具が気になるようで、指を差して小さく笑うこともあった。


 娯楽作であり、多少眼を離しても置き去りにされることはない。既に劇場で鑑賞済みだという少佐は中盤を前に舟を漕ぐ。

 

「因縁や怨念が絡んだ東洋の怪談とは雰囲気が随分と異なるよね。伯爵は血を欲するだけで深い動機はなく、襲われる側も偶々邸宅が隣り合わせになったという次第だし」


 ドラキュラ伯爵は隣家に忍び込み、眠れる女性を襲う。喉笛にみ付く場面はなく、次は醫院での検死だ。魔の手は別の女にも向かい、同様に血を吸われるが、矢張り、伯爵の牙が再接近したところで暗転する。


「どれもかじり付く決定的な瞬間はないんだな。娯楽なのに思わせ振り」


「自己検閲ってやつだね。海外での上映を前提にしている為、際どい場面は全て割愛される。殺しの場面も匂わせる程度だしね」


 本邦のエログロ全盛期と比べれば、怪奇色も淡く、猟奇傾向は皆無。娯楽作であり、つつがなく公開されることを主眼に置く。伯爵の正体判明も早く、大勢が集う場所で鏡に姿が写らないことが判明。くしてヴァンパイア疑惑を提唱した科学者との対決が始まる。


 吸血行為で即死し幽鬼と化す者、命を保って下僕になる者の二種類があり、ブロンドの主演女優は後者。伯爵に魅せられ、墓所のような地下に誘われる。それを追う科学者と婚約者の男。最大の危機が迫る中、朝が訪れた。


「日の出と共に眠ってしまうのか。門限みたいだな」


 忠嗣の想像と異なり、吸血鬼は難敵に非ず、あっさり心臓に杭を打たれて絶命した。弱点が多過ぎだ。徒手空拳の初老の男でも太刀打ち出来る。派手な立ち回りもなく、女を救い出して大団円。感染が広がることもなかった。


「背筋も凍る恐怖映畫とは違いますね。最後まで血は一滴も出て来ない」


「娯楽とは勧善懲悪じゃなければ駄目なんだ。悪人は最後に成敗されて復活する見込みは微塵もない。この直線的な構造こそが王道。加えて、分かり易く弱点を晒し、力無き者が協力し合って追い詰め、最後に打ちつ。それが観客にカタルシスをもたらすのさ」  


 少佐は起きていた。途中は居眠りをしていたものの、終幕前にはすっかり覚醒し、何かを思い出したかのように持論を語った。


 情状酌量の余地なき悪鬼羅刹あっきらせつだが、能力は絶大ではなく、もろさが目立つ。吸血鬼は日の出前に眠りに付き、全ての活動を停止。全くの無防備で、十字架の頸飾くびかざりを酷く嫌う場面も象徴的に描かれていた。


「宗教的な要素も見え隠れします。伯爵が不死であることも強調されていましたが、ドラキュラは自分の死に場所を求めて倫敦に転居したという訳ではないのでしょうか」


 ドラキュラ伯爵が不死の身を嘆くような科白セリフもあった。美少年の疑問は極めて妥当で、忠嗣も同様の感想を得たが、耿之介はきっぱりと否定した。


「不死の肉体をさいなむといった心根は全くない。少佐が指摘した通り、悪は何処までも悪を貫いて破れ去る。宗派も大筋とは無関係で、十字架はあっちでは悪魔祓いの宝具だね」


「吸血鬼って言いはったら、基督教以前の古い伝説ちゃいますのん」 


 円卓を整える間、珈琲の準備に勤しむ御河童頭が問い掛けた。永池櫻子ながいけ・さくらこの怪しい上方訛りは癖になったのか、度を超えて、のべつ幕なしの様相。何処までが洒落なのか解せぬ。


 当初、忠嗣は面喰らったものの、近頃は慣れた。しかし、珍妙な方言擬きを耳にした瞬間、先日の演奏会後のひと幕がキネマの一場面のように瞼の裡に浮かんだ。


 彼女は想像を超す嗅覚を備え、閑人の高尚な趣味を見抜いていた。それをしちに脅すような真似はしないにしても、夢々警戒は怠れない。

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