50三話『ドラキュラ伯爵の牙は倫敦の夢を見る』
「忠嗣さん、それは凄いことだよ。かの
話を聞くや、
「高名な学者様とは露知らず、紅茶と甘味まで奢って貰ったし。あれ、誰が食事代を払ったんだろう」
「珍しい苗字ですし、遡りますと同じ血族ではありましょうが、今や一族が集う機会もなく、噂に上ることも御座あませんわ」
早くも會に溶け込み、見世の常得意であるかのように落ち着き払い、臆するところが寸分もない。
初回も二回目も
髪型は勤務中とも前回とも異なり、童女の
但し、表情は詳しく窺い知れなかった。今回はキネマの上映とあって、
「そうでした。開演する前に、忠嗣さんが演題向けの資料を持っていらしているんです。耿之介さんに渡しておきましょう。僕は仲々、興味深いと思いました」
禁書庫で発掘した安樂死に関する小冊子と、その概要を纏めた覚え書。今宵、忠嗣は面々より一歩早く書肆を訪れ、美少年と相談したのだ。
頼りは英文の小冊子ひとつで、深掘り出来る話題か否か、若干の不安が生じ、事前に反応を確かめたところ、與重郎の印象は好く、大いなる関心を示した。
「ほほう、ユウサネイジアか。面白そうだね。私は門外漢とも言えるけど、刺戟的な問題であることに相違ない。次回か次々回に取り上げよう。この小冊子は借りて宜しいのかな」
同様に惹き付けられたようだ。更に忠嗣が翻訳した原稿を差し出すと、耿之介は「それは助かる」と喜び、鞄に仕舞った。小冊子は勿論、図書館の蔵書だが、既に服務規程違反を重ねており、些細な問題ですらない。
袖にされるとは想定していなかったが、望外の反応と言えよう。後輩を前して体裁を保った格好で、忠嗣は安堵した。何よりも與重郎が援護してくれたことが嬉しく、囲碁か将棋で痛快な一手が決まった気分である。
「それじゃあ、店内の照明を落とします」
銀幕に光が差した。冒頭、出演者の名簿と共に、チャイコフスキヰの楽曲が流れる。無声ではなく、トーキーだ。今回の
「純粋な
映寫機を操る耿之介は、同じような
それでも主演男優ベラ・ルゴシの名前と顔は脳裡に刻まれていた。
キネマの幕開けは欧州の何処かにある険しい峰。紳士が村人の制止を振り切って蜘蛛の巣城に至り、ドラキュラ伯爵の毒牙に掛かる。血を吸われた紳士は死せず、下僕となって働き、伯爵を
「ここでも
隣りで與重郎が呟いた。冒頭で血を吸われた男は気が
伯爵が狙いを付けた一家では、第一の犠牲者が生まれる。うら若き女が血を吸い尽くされて絶命。その際も猥褻な場面はなく、刺戟は控え目。展開は犯人探しに重きを置く探偵小説風だ。
前列の女性二人組は、驚きも
娯楽作であり、多少眼を離しても置き去りにされることはない。既に劇場で鑑賞済みだという少佐は中盤を前に舟を漕ぐ。
「因縁や怨念が絡んだ東洋の怪談とは雰囲気が随分と異なるよね。伯爵は血を欲するだけで深い動機はなく、襲われる側も偶々邸宅が隣り合わせになったという次第だし」
ドラキュラ伯爵は隣家に忍び込み、眠れる女性を襲う。喉笛に
「どれも
「自己検閲ってやつだね。海外での上映を前提にしている為、際どい場面は全て割愛される。殺しの場面も匂わせる程度だしね」
本邦のエログロ全盛期と比べれば、怪奇色も淡く、猟奇傾向は皆無。娯楽作であり、
吸血行為で即死し幽鬼と化す者、命を保って下僕になる者の二種類があり、ブロンドの主演女優は後者。伯爵に魅せられ、墓所のような地下に誘われる。それを追う科学者と婚約者の男。最大の危機が迫る中、朝が訪れた。
「日の出と共に眠ってしまうのか。門限みたいだな」
忠嗣の想像と異なり、吸血鬼は難敵に非ず、あっさり心臓に杭を打たれて絶命した。弱点が多過ぎだ。徒手空拳の初老の男でも太刀打ち出来る。派手な立ち回りもなく、女を救い出して大団円。感染が広がることもなかった。
「背筋も凍る恐怖映畫とは違いますね。最後まで血は一滴も出て来ない」
「娯楽とは勧善懲悪じゃなければ駄目なんだ。悪人は最後に成敗されて復活する見込みは微塵もない。この直線的な構造こそが王道。加えて、分かり易く弱点を晒し、力無き者が協力し合って追い詰め、最後に打ち
少佐は起きていた。途中は居眠りをしていたものの、終幕前にはすっかり覚醒し、何かを思い出したかのように持論を語った。
情状酌量の余地なき
「宗教的な要素も見え隠れします。伯爵が不死であることも強調されていましたが、ドラキュラは自分の死に場所を求めて倫敦に転居したという訳ではないのでしょうか」
ドラキュラ伯爵が不死の身を嘆くような
「不死の肉体を
「吸血鬼って言いはったら、基督教以前の古い伝説ちゃいますのん」
円卓を整える間、珈琲の準備に勤しむ御河童頭が問い掛けた。
当初、忠嗣は面喰らったものの、近頃は慣れた。しかし、珍妙な方言擬きを耳にした瞬間、先日の演奏会後のひと幕がキネマの一場面のように瞼の裡に浮かんだ。
彼女は想像を超す嗅覚を備え、閑人の高尚な趣味を見抜いていた。それを
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます