49二話『魔界より来たる魔羅文學こそノオベル賞級』

「好い座り心地だ。じゃあ、ここで少し休憩して行くかな。上の閲覧室は混雑しているんだよね」


「左様です。しかし、博士のような方であれば、一階の貴賓室を用意できます。天井の鏝絵こてえや寄木細工の床板が評判で、こんなあなぐらよりも相応しいかと」


 別に追い立てる意図はなかったが、忠嗣は九鬼周造くき・しゅうぞう博士に特別な部屋を勧めた。華族や高位軍人、政界の重鎮といった御歴々の為に設けられた荘厳な個室で、宿直室の隣りにある。


「そんな面倒な。構わないよ。本を読むには快適な椅子と充分な照明があればほかは要らないのさ。折角、茶請けも出して貰ったし」


 紅茶をひと口呑み、ケエキをつつき、博士はそう申した。禁書庫のソファアは、大正の末頃から貴賓室に据えられていたものだという。天鵞絨ビロードの張りが傷んで御役御免になったところで巡視長が奪い取り、巡り巡って地下にやって来た。


 博士は熱心に洋書の頁を捲り、銀縁眼鏡のよろいを度々摩る。忠嗣は既に職責も使命も果たしたが、余分なカツプと洋菓子を出された以上、文机に戻る道理もなく、向かいに坐した。


 その段になって、以前、女性二人がソファアに踏ん反り返り、会話していた光景が脳裡に甦った。あの時、爵位云々の話題も出て、後輩の女性書記に睨まれたものだ。


「貴賓室は余所よそにして、博士は男爵様じゃないのですか。小職の大先輩と言ったら失礼にも程がありますが、文部省の立役者で、九鬼男爵という方がったと聞くに及んでいます」


 岡倉天心おかくら・てんしん翁と二人三脚で、文化藝術の近代化と復興を図り、後に貴族院議員に列せられた立志伝中りっしでんちゅうの人物。何処かの博物館の総長だか、館長だかを任されたとも聞いた。


「ああ、それは僕の親父だね。文部省に勤めていた時代もあったなあ」


「矢張り、博士も男爵様じゃないですか」


「違うよ。何せ僕は四男坊だから爵位とは無関係。この通り、平民さ」


 御公家様の末裔と紹介された素直に信じてしまうような面立ちで、纏う薩摩絣も甚だ上質だが、貴族社会とは無縁の教授職だとへりくだる。また、勤め先は京都帝國大學と申すも、話す言葉も京訛りはなく、改めて見れば、粋な江戸っ子の遊び人といった風情もあった。


 閑人は爵位に関する知識が乏しく、正に他人事だった。それでも、男爵の四男が爵位を継承できないことは解った。遠縁の九鬼須磨子が、如何に山手の邸宅に住まう令嬢であっても、決して男爵家の一族などではない。

 

「おっと、見付かった。このパラグラフが特別版って寸法か。いやあ、しかし、厄介なエクリチュールだな。軽く翻訳してみようか」

 

 特別版が意味するものは何か。忠嗣は機転を利かせ、文机の抽斗ひきだしに隠したコンサイス佛和辞書を持ち寄ったが、相手は巴里留学の経験もある専門家だ。それでも博士は無碍むげにしなかった。


「有り難う。良い辞書を持ってるね。学生にお薦めのものだよ、これ」


 手際良く和訳できない箇所があるのか。博士は眉間に皺を寄せ、幾度となく眼鏡の細い縁を摩った。和文の句読点に相当する区切りのない、特異な文章だという。それでも辞書を繙くことなく、日本語に置き換え、ゆっくりと読み上げ始めた。


──いまこそ私は……私は勃起する。リュシエンヌの腹のなかの赤毛の大魔羅。魔羅は存在する。それは這う。私の魔羅は立っている。私は魔羅のように街路に突っ立っている。私は存在する。なぜか。ただ一本の垂直な魔羅。突っぱる。突き通す。赤毛の魔羅。天に向かってそそり立つ*


「うーん、こんなもんかなあ」


「いえいえ、博士、こんなもんかぁじゃありません。何ですか、それ。エログロの三文小説ですか」


 率直で、嘘偽りのない感想である。忠嗣は繰り返される単語に衝撃を受け、混乱した。下品で拙く、取り留めのない駄文。そんな文章が綴られた本を探し求め、博士は京都から上京したのだ。全く意味が解せず、閑人は困惑した。


「いやね、これ三文小説じゃなくて、高尚な文學作品なんだよ。去年、佛蘭西フランスの老舗出版社から刊行されて、今も話題を独占している」


 冗談のひとつだと信じたかった。作者のジャンは、どれくらい魔羅が好きなのか。本邦であれば、評判になるどころか、つぶてを投げ付けられる。


「ゴンクール賞ってのがあるんだよ。日本で言うと菊池君のところの芥川賞。いや、西洋の文學界に与える影響を考えると、それよりも凄いかな。惜しくも次点だったけど、高い評価は揺るがないね」


 どれだけ魔羅好きの文學界なのか……忠嗣には魔界に思えた。尚も洒落か軽口か皮肉の一種だと信じたいが、博士は至って真面目で、官吏を欺き、頓知を投げ掛けているようには見えなかった。


「博士は今、魔羅という仏教用語を使われましたが、その、原文のほうでは隠語等も使わずに書かれているのでしょうか」


「勿論、そこが核心だからね。このパラグラフだけで、十回以上使っているね。まあ、それだから検閲を通り抜けられないようなんだけど」


 昨年出版されて評判になった書籍には、魔羅の羅列はないと説明する。著者から贈呈され、誤って帝國圖書館に送致された本、即ち今手にする一冊は私家本だという。正規版ではない異本。博士はヴァリアントという表現も用いた。


「佛蘭西にも検閲ってあるんですか」


「列強各国、普通にあるね。政治思想にしろ、猥褻関連にしろ何処も同じさ。その為の私家本。ジャンは一部の表現を削って大手からの出版に漕ぎ着けたって訳だ」


 禁書庫の閑人は再び驚嘆する。卑猥な裸婦像について西洋は開けっ広げで、先進的な印象が強かった。しかし、検閲対象は多岐に及び、文學上の表現も等しく、違反すれば忽ち頒布はんぷ禁止の処分が下るという。


「ジャンは禁書扱いになるのを見越して、重要な部分を抹消したんだね。自己検閲ってやつ。この特別版と老舗から出版されたもの、どちらが本物贋物とは言えないけど、わざわざ送って来たこっちが、ジャンが本当に書きたかったものだろうね」


 そう言って博士は手許の分厚い私家本を優しく撫でた。一節の和訳を朗読して貰った限り、忠嗣は到底、同書が真っ当な文學とは思えなかった。けれども、作者のジャンを良く知るは手放しで絶賛する。


「時代が変わって、この私家本も出版されることもあろう。そうしたら、君、かのノオベル文學賞をジャンは獲っちゃうかもね。今世紀の十傑に入るような、そんな文豪になる予感がするんだよ」


 夢見心地といった雰囲気で博士は瞳を蕩けさせ、独り言のように小声で呟いた。忠嗣は額面通りに受け取れなかったものの、謎の佛蘭西人ジャン=ポール・サルトルの小説に興味を覚えた。魔羅文學である。しかし、残念ながら和訳本はなく、今後翻訳される見通しもない模様だ。   


 紅茶を呑み干すと、九鬼博士は絣の袖から風呂敷二枚を取り出し、ジャンの小説を二重に包んだ。そうした仕草も粋な紳士である。


 忠嗣は玄関先まで見送りすると申し出たが、丁重に断られた。そして、扉の前まで歩んだところで博士は急に振り返り、禁書庫を眺め廻し、こう語った。


「巴里の国立図書館にも同じような場所があるんだよ。あっちは部屋じゃなくって複数の書架だけど、渾名が小粋で、その名も地獄棚じごくだな。禁書ばかりがずらりと並んでいて、即ち、素晴らしい本が揃っているってことさ。君は定めし、地獄の門番ってとこか。誇るべきだ。ここにあるのは宝の山だ」      



<注釈>

*いまこそ私は=以下の文章は、サルトルの代表作『嘔吐』の自己検閲部分を澁澤龍彦が仮訳したもの。底本は一九八一年に出版された仏プレイヤード叢書で、本作に登場する私家本は架空。


<参考図書>

澁澤龍彦『マルジナリア』(福武文庫 昭和六十二年刊)

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