第六章〜嘆きの古城で伯爵夫人は斧を研ぐ〜

48一話『失われた禁書を求めて粋な博士がやって来た』

 先日、宿直室で繙いた洋書の訳出がようよう終わった。倫敦ロンドンに拠点を構えるイグジットなる集団の小冊子で、頁数も僅か。安樂死の必要性を徒らに叫ぶ、政治的に偏向した主張であるが、専門用語も少なく、和訳は容易な部類であった。


「ここから何を導き出すか、その辺の難しい問題は先送りにして、取り敢えず、失笑を買う事態にはならないはず」


 巌谷忠嗣いわや・ただつぐは、自信を深めた。次回の金曜會にて提起する所存である。


 但し、英国イグジット集団の幹部で、主要な執筆者と思しきアーサー・ケスラアなる人物に関しては手掛かりが遂に発見できなかった。相談掛そうだんがかりの新入り書記に丸投げしたところ、彼も粘りに粘ったが同姓同名の英国人すら見出せなかったと零す。


 和訳文の原稿を揃え、抄訳と箇条書きの概要を纏めたところで、禁書庫の扉を叩く音が響いた。何時までも慣れず、心臓が縮み上がる。しかし、恐れる相手、九鬼須磨子くき・すまこではない。彼女は無言で扉を開け、押し入るのが常だ。


 馴染みの火夫かふか巡視だろうと、暢気に構えて扉を開けると、松本館長が立っていた。最悪にして災厄とも言える人物である。帝國圖書館の総帥が、この地下の一室を訪れるなど過去に一度とてなかった。


「ああ、巌谷君、ちょっと宜しいかな。忙しいとは言わせないけれども」


 思い切り扉を開放した為、禁書庫の中は丸見えだった。電燈も珍しく全てともったままだ。館長の眼は奥のソファアに釘付けとなったが、それでも叱責を加えるような面持ちに非ず、少々困った風である。


「御客様を案内して欲しいんだよ。そう、この部屋。とても大切な書籍が紛れ込んでしまった模様で、巌谷君には探すのを率先して貰いたい」


 意外にも頼み事だった。館長が申す御客様は、背後に控える中年男に相違ない。


「こちら京都帝國大學の九鬼周造くき・しゅうぞう*教授。あ、博士とお呼びして頂戴ね。じゃ、巌谷君、頼んだから」


 雑務に追われているのか、何やら別の理由があるのか、館長はそう申して客人を押し付けるや、逃げる感じで去って行った。代わって、背後の男が閑人の前に立ち、静かな歩調で禁書庫に足を踏み入れる。


「ちょいと世話になるね。あま、無ければ無いで潔く諦めるから、君、司書なんだっけか、そう肩肘張らず、気儘きままに手伝ってね」


 物腰の低い、和装の紳士だった。上品な白茶色の薩摩絣さつまがすりを粋に羽織り、繻珍しゅちんの角帯を結ぶ。からんからんと音の鳴る足許を見れば、きゃらこの白足袋に厚木歯の日和下駄。言葉遣いは丁寧なれど、明治の偉人伝から抜け出て来たかのような趣きを備える。


「何であれ、お申し付け下さい」


 思わず閑人は背筋をぴんと伸ばし、最高度の礼節を以って迎えた。博士と紹介されたこととは無関係。見慣れぬ舶来の銀縁眼鏡が光るものの、紳士は細面の優男で、物語の中の公家を連想させる雅な風貌だった。


「洋書は纏めて何処かの書架に溜め込んでいるのかな」


「いいえ、部門別に分類されています。学術書であっても、専攻分野が別なら別で、著者別の仕切りも御座いません」


「ああ、文學だよ、文學。古典じゃなくて、最近の」


 文學は語学と同じ第三門。総数は少ないものの、新たな禁書が日々生まれる部門だ。忠嗣がそちらの書架に誘うと、紳士は懐中より革製の小さな包みを取り出し、名刺を差し出した。肩書きは、京都帝大哲学科の教授とある。そして、苗字は看過できない二文字だった。

  

「あれ、同じ漢字なんだ。当館にも同名の女性書記が務めておりますが、ご縁戚でありましょうか」


「館長さんも同じことを言ってたなあ。まあ、珍しい苗字だからねえ。僕は知らないけど、十中八九、いや十割方、遠縁の誰かさんでしょう」


 軽やかに応答する。忠嗣が、文部省と図書館の名刺二種類を謹呈すると、九鬼博士は驚きつつも丁寧に見比べ、大事そうに革の包みに納めた。所作も粋な紳士である。


「この書庫の室長とか、そんな役職は存在しないのかな」


「奥まったところにあるわば秘密の部署ですから、公にするのは少々問題かとも」


「秘密の部屋っていう扱いか。それはそれで面白い」


 話好きの博士だった。年廻りは五十代だろうか。霞ケ関の勅任官ですら敬服する大教授でありながら、物腰も物言いも柔らかく、温厚そうな人柄だった。松本館長が萎縮していた理由が全く解せない。


「それでは踏み台を使って小職が抜き出しますので、書籍の題名をご教示願えませんか」


「そこそこ厚い本だろうけど、題名は短く、ラ・ノゼ。著者はジャン。最近、ここに搬入されたのは確実。新旧の分類はしていないのかな。背表紙が剥げた古書じゃなくって、新刊同様だと思うな」


 忠嗣は教えて貰った佛蘭西フランス語の綴りを頼りに新しめの洋書をさがね、書架の上段を右左みぎひだりと反復した。


 博士によると、京都帝大に届くはずの贈呈本が、誤って神戸港の税関に引っ掛かり、遥々、帝國圖書館に転送されたという。通常の手続きとは大幅に異なり、二重三重の手違いが連鎖した模様だ。  


「あれ、港湾施設の通関って検閲事業と関係してるんでしたっけ」


「小説は例外的だよね。ほら裸婦像とか、今だと素っ裸の寫眞とか、そういうのが眼の仇にされる。藝術作品もお構いなしさ。まあ、仕分けする担当官に区別が付く訳もないから、軒並み摘発されちゃうのさ」


 早春に本の著者から感想を求める一葉のエアメエルが届き、博士は輸送途中で行方不明となった事実を知るに及んだ。その後、京都帝大の門弟らが捜索に当たり、陸軍参謀本部経由で上野の図書館に移送された経緯が判明したという。内務省ではなく、何故そこに軍部が関与するのか。


「海外での接収文書に区分けされるらしいんだ。それも手違いのひとつなんだけど、内務省じゃなくて幸いだったかも知れない。廃棄処分にせず、資料扱いで保存するとか。忠実まめだね」   


 初耳だった。禁書庫の閑人ひまじんは、陸軍省と文部省は縁がないものと理解していたが、意外なところで繋がりがある。それは兎も角、目当ての洋書は見当たらない。題名に「La」が冠される洋書が多すぎるのだ。


「ジャンって、どなた様なのでしょうか。さぞ、ご高名な文豪と想像しますが」


「僕が巴里に留学していた時の先生なんだよ。年寄りの文士じゃなく、当時、ジャンは学生。佛蘭西語の家庭教師で、まさか評判の小説家になるなんて、思ってもいなかったなあ」


 博士は往時を懐かしむような面持ちで語る。帝大の教授ともなると留学も普通で、渡航先が何箇国にも及ぶ場合があるらしい。忠嗣は、ジャンという名前から、金髪碧眼の美少年を妄想した。


「お待たせ致しました」


 再び禁書庫の扉が開いた。食堂の女給である。館長が気を利かせて発注したに違いない。盆には紅茶の急須にカツプがふたつ、ショオトケエキに灰皿まで載っている。忠嗣はソファアのテヱブルに置くように指示し、はたと気付き、動顛どうてんした。館長は出前の機能を熟知していたのである。


「お、奥の席に置いといて」


 声が震えた。最早、秘密でも何でもない。客人用とは別に用意されたカツプには警告の意味が込められているようにも思えるが、ここで狼狽えても詮方なく、開き直るより他になかった。


 女給が去り、博士に座るよう促す。そして、書架に再度眼を配った時、目的の洋書が見付かった。辞書並に分厚く、存在感も際立つが、これまで隠れん坊をしていたかのよう。小さな文字で、ラ・ノゼ*と読める。


 著者は、ジャン=ポール・サルトルと申すようだ。



<注釈>

*九鬼周造=明治二十一年生まれの実在する哲学者。獨逸の最先端哲学に造詣深く、現象学を本邦に紹介すると共に、和の心、和の美学も論じた。実存哲学の訳語を考案したことでも知られる。


*ラ・ノゼ=邦題は『嘔吐』。若きサルトルが九鬼周造の仏語教師を務めたことは実話。

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