47十話『逞しき愛の証拠を寫眞家は盗撮した』
演奏会が幕を閉じた後、東京音樂學校の施設を見学する時間はなかった。夕暮れには尚、間があるものの、與重郎には書肆の店番という大役が待っている。
忠嗣は界隈で評判の鍋料屋に連れ込む気満々で、密かに下調べも済ませていた。
「どうせ暇な見世ですし、多少、開店が遅れたところで何の支障もないです」
美少年はそう語るが、國電と市電を乗り継いで帰るのも味気ない。帝國圖書館も音樂學校も、位置的には上野駅よりも鶯谷駅のほうが近いが、驛頭に到るまでには大きな墓所があって、如何にも情緒に欠く。
谷中で圓タクを拾い、九段方面へと向かった。一旦、書肆に行って、現地で解散する次第だ。官舎のある平河町も櫻子の寫眞館もそこから歩ける距離。運賃の支払いは成人男性の預かるところだが、勿論、下心も潜んでいた。三人でタクシイの後部座席に納まれば、自ずから身体が密着する。
「忠嗣さん、本日は誘って頂きまして実に有り難かったです。たいへん勉強になりました。僕の知っているヸオロンとは全く違った。到底、手が届かない感じです」
演奏を耳にして素直に感激したのではなく、感服し、衝撃を受けたといった様子でもあった。登壇したヴァイオリン奏者は一流の本職で、學生風情の演奏と比較することが間違っている。忠嗣は重ねて擁護したが、美少年は直ちに承服しかねるような応答だった。
「うちは楽器の上手い下手も知らなんだけど、寫眞撮れたから満足やわ。それはそうと、この前の新しい女の人。あちらさんも同じ図書館で働いてはるんやろ」
西洋音楽への拘りも楽器類への興味もなく、余韻に浸る気などさらさらないのか、唐突に櫻子は話題を切り替え、質問を投げ掛けた。同じ女性として、前回の金曜會で同席した
しかし、突拍子もない問い掛けとは言えまい。あの夜、二人の関係性が何も問われなかったことが、寧ろ不自然だったのだ。
「まあ、直接の部下じゃないが、後輩で、いや、図書館の就労では先輩に当たるのかな。職場では一週間に一度、顔を合わす程度で、何処ぞの令嬢とか、青山だっけかな、家柄とか、男爵家は違ったんだっけかな、全然知らない」
先輩男子が御年二十七歳、後輩女子が二十三歳前後と年齢の離れ方も相応で、密かに交際していると疑われても仕方がない。実際に職場では許嫁が云々といった風説が流れている。忠嗣は久し振りに、その妙な噂の発信源が須磨子自身であることを思い出し、ぎくりとした。
「へえ、青山にお住まいなんですか」
「青山ちゅうとこは、ようけ知らんけど、これまた
二人揃って青山という地名に拘泥した。一方で、男女関係を訝る節はない。田舎者で垢抜けない忠嗣と御抱え運転手を従える女性では、端から釣り合いが取れないという由か。
車窓から不忍池が見渡せた。タクシイは湯島から南下し、神田川は万世橋を渡るようだ。
それが良い。美少年を傍らに、腿の辺りが微妙に触れ合って亢奮し、風景に眼を配るどころではない。忠嗣は再び親切心を偽装して、寫眞家の大きな鞄を奪い去って、膝の上に置いた。
車が激しく揺れたら間髪を入れず、体勢を崩して寄り掛かる所存であったが、直線が続き、些細な曲り角では揺れもしない。
「僕は須磨子さんを金曜會に誘うつもりなど皆目なかったのですが、耿之介さんは何時になく、強引でした。ひと目惚れと申して差し支えないでしょう」
これもやや脈絡なく、與重郎が静かに話し始めた。あの冷静沈着な銀髪紳士が心乱れて心騒がせたようである。性格はともあれ、後輩女子は群れの中で目立つ美人で、時折、煽情的な仕草で野郎を惑わす。
三文小説に頻出する魔性の女。現実には如何なるものか知らぬが、忠嗣はそんな印象を覚えた。耿之介が恐妻家であっても、誘惑に抗えず、屈することも充分に有り得る。但し、與重郎は須磨子が肢体を捩らせて挑発したなどとは、ひと言も申していない。
「與重郎君、
御河童頭が喰い付き、思わせ振りな物言いをした。上方訛りの設定を忘れている。美少年は意味が分からなかったようで、刹那、貌を顰めたが、それも束の間、直様、真顔に改めて
「二回目に来店した際、あの
耿之介は色めき立ち、
「偶々居合わせた耿之介さんが忽ち意気込んで、日頃とは違う様子になったのを僕は知りました。全身に電撃が走ったような、と表現したら大袈裟でしょうか。震えて、釘付けです。顔の一点。須磨子さんの
美少年は全てを悟ったかのような、誇らし気な表情を造ったが、忠嗣には一向に理解の及ばぬ事柄だった。彼女の左眼は身体的な欠陥とも言える部位で、それを凝視するなど通常は憚られる。礼節の欠如、失礼極まりない。
「
「はあ、それ光景が浮かんで来るわ。耿之介さんなら言いそうや」
常識では計り知れない。偽眼は偽眼であって、宝石とも貴石とも異なる。忠嗣は唖然とするばかりだった。非常識だ。喩えば、脚を失った傷痍軍人に対して、その男の義足を褒めることがあるだろうか。
「普通、言わないでしょ。うちの後輩、今は九鬼書記と呼んでおくけど、そんなことを面と向かって言われたら、彼女も怒り出すでしょ」
「忠嗣さん、會員同士はファアストネエムで呼び合うのが、規則よ。それは置くとして、まあ、普通は嫌がるわよね」
「僕も戦々恐々としました。初回は黒眼鏡姿でしたし、座頭や検校じゃなく、相手は女性でしょ。ところが須磨子さんは嫌がるどころか、頬をぽっと
常道から逸脱するのは、銀髪の紳士だけではなかった。賛辞を贈られた須磨子も等しく、世の常識から懸け離れている。その場で反感を抱かず、受け入れたことは、彼女が誘いに乗り、実際に金曜會に参加した事実を以って証明される。
「光を失った片眼が先天的なものか、或いは後天的か存ぜぬが、日頃、前髪を垂らして隠しているんだ。余り見られたくはなく、褒められたことなど
花柳街に咲く奇妙な書肆、グラン=ギニョヲルの奥行きと包容力の高さを痛感した。優しさや配慮とは真逆なれど、慈しみ深い。次いで忠嗣は、銀髪紳士が屍体愛好家であることを思い出した。偽眼は、その趣向の延長線上にあるのか。
「この前、金曜會で眼玉の数珠、ナザール・ボンジュウについて話したじゃない。あれ、耿之介さん、気に入ってなかったんじゃないかしら」
「ああ、櫻子さんもそう感じ取りましたか。商品なので
耿之介の風変わりな趣味に関する雑談が続いた。
タクシイは九段下から登坂して高燈籠を過ぎ、富士見花柳街へ滑り込む。書肆で珈琲を一杯呑み、忠嗣はそのまま居座ろうと考えたが、看板の下で客が開店を待っていた。
鮮烈な印象をもたらす異邦人である。燃え盛るような紅い髪に碧い瞳で、上背よりも長い脚が際立つ。欧州の紳士だろうか、倫敦サヸルロウ通りで仕立てたと言われても信ずるような上質の背広を着ている。
「済みません。お待たせしてしまったでしょうか。今日、いらっしゃるとは思ってもいなかったので、直ぐに開けます」
馴染みの客のようだった。外国人も常連とは帝都の一隅に店を構えるだけのことはある。
「ミーは一向に構いません。買い物ではなく、売り物を持って来たですね。御覧に入れようと思ったのでした」
発音も妙で辿々しいが、日本語を操る。男の足許には見慣れぬ形状に風変わりな柄の大きな鞄があった。本邦在住の行商人だろうか。書肆が取り扱う古今東西の珍品、
「あ、申し訳ありません……まあ、直ぐに金曜日が巡って来ますし。そうそう、改めまして忠嗣さん、本日は素敵な演奏会に招いて頂き、感謝すること
嬉しい別れの挨拶である。若干の心残りはあるものの、渠を無事に家に送り届けたことを
そして、九段三業会舘ビルヂングの手前で二手に別れる際、彼女は思わぬことを口にした。
「あれね、忠嗣さんは與重郎君に惚れているんでしょ。可愛がるっていう程度じゃない。肉慾よ。獰猛な肉食獣の匂いがする」
図星だった。これが女の勘の鋭さか、若しくは第六感的な
「い、
「悟るも何も、見てりゃ分かるんにゃ。あげなところで勃起してはったら、そりゃ誰でも分かりますわ。微妙に写ってはる証拠の寫眞も撮ったで。まあ、
脅し口調ではなく、明るく
忠嗣は絶句し、去り行く櫻子の後ろ姿を眺めた。背中が小さくなって消えるまで見送りつつ、心の中で警告した。
「勃起などという単語を若い女性が往来で口走ってはいけない」
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