22四話『司書の切り札に銀髪紳士は身悶える』

「指を切るのは昔の洒落よ、今じゃ指環ゆびわ比翼紋ひよくもん……そうそう、これは都々逸どどいつだね。南州翁の没年。明治も初頭を過ぎた頃と言えるかな」


 西南の役前後の時代に流行ったという。比翼紋とは許嫁いいなづけの家紋を重ね合わせた紋様で、婚礼に合わせ、それを描き込んだ調度品が用意された。起源は旧幕時代に遡る。


「都々逸は諒解しました。比翼連理も存じていますが、どうも話の流れが見えませぬ」


「簡単だよ。情夫に贈る切り落とした小指が、結婚指環に取って代わったってことさ。指環が誓文や契約と同じ意味をすんだ。私も嵌めているけど、これは擬似的な指、切り落とした指に他ならない」


 紳士は左手の薬指にある指環を示し、にやりと笑った。指環を取り交わす習慣は西洋伝来だが、背後には実に日本的な情の深さが見え隠れすると説く。指環を嵌めた既婚者は、内在的には誰もが指を詰めている……そう断言してはばからない。


「まあ私の場合は家内が恐いので、この指環を無くしたら、命を落としたも同然で、生きて行かれなんだけどね」


 再度、呵呵かかと笑う。妻帯者の上に恐妻家のようだ。既婚者なれば、男色とは縁が遠く、美少年を見世の奥に引き込んで粗相を働くことはない。充分に胡乱な男ではあるが、忠嗣は警戒を解いた。


「あ、失念していました。改めて僕からも紹介しておかなくては。こちら、巌谷忠嗣いわや・ただつぐさんは上野の図書館に御勤めで、稀覯本の『新編古今獄門考』*を購入された方ですよ」


「そうだったんだ。この前に来た時、書架に見当たらず、誰が引き取ったのかと考えていたんだよね。奪ったのは貴方でしたか」 


 耿之介こうのすけと呼ばれる紳士は、少しばかり態度を改めた。語りながらも外方そっぽを向いていた感じが、斜めに向き直った風である。真正面ではない。因みに『獄門考』は凌遅處死りょうちしょしの妖美な寫眞が掲載されていた学術書だ。


「勤務地は上野図書館ですか。恩賜動物園は時折、足を運ぶんですが……あれ、もしや帝國圖書館ていこくとしょかんのことですか」


「ええ、そうです。彼の地で司書なんぞをしている者です」


 ちらちらと窺う與重郎を前に、文部省の高等官吏であることを告げたかったが、話の腰を折るのも野暮。また司書という肩書きも書肆に於いては悪くない。銀髪の紳士は間違いなく、無学の徒とは対照的な人物。知識人にとって図書館は憧憬の場所だ。


「上野の文庫には一回行ったきりですな。順番待ちも長く、下足番に叱られたりして。図書館は好きなんですが、この近所に通うばかりです」


 初回の訪問時、與重郎も同じようなことを言っていた。花柳街の近くに学者や研究者が贔屓にする図書館があるとは思えぬが、何処かの隅に小さな文庫が存在するようだ。

  

 そして、勤務先の話が出たのを機に、忠嗣は鞄の底に隠し玉を忍ばせていることを思い出した。麗しの美少年に捧げる手土産。潤いある会話の一助になれば、と考えて探し出し、携えて来た切り札である。


「実は本日、この書肆に最も相応しいと言えなくもない書物を小職は持ち寄ったのです。洋書で翻訳もままならぬ次第ですが、こちら御笑覧下さいませ」


 そう呟き、卓上の模造ギロチン横に一冊の洋書を置いた。美少年は怪訝な面持ち取り上げて表紙を眺める。次いで慎重に頁を捲り、恐らく目次の箇所に触れた時、ひと息、小さく感嘆し、その可憐な瞳を輝かせた。


 少年が佛蘭西語を解するとは思えなかったが、の並びを見て悟ったに違いない。目次には「グラン=ギニョヲル」と記されている。忠嗣が隠し持っていた本は、巴里パリの同劇場で座付き作家を務めていた人物の著作である。


うちに公演のポスタアがあるので、この文字列には見覚えがありました。元祖とも言える恐怖劇場の戯曲ですね。作者はアンドレ・ド・ロード……ロルドかな」


「ロルド卿だ。ド・ロルド卿だよ、與重郎くん。これは貴重な書物だ。本邦に存在したとは。いや、実に驚きだね。うん、驚愕に値する」


 烈しく亢奮したのは、美少年ではなく、紳士のほうだった。さも当然のように著者を知っていて、感心し感服し、やがて與重郎の手元から本を奪うや、これも丁寧に頁を捲り、更に気持ちを昂らせて叫ぶように言った。


「リステリックにロブセシオンもある。其々それぞれ、ヒステリイに強迫観念と訳せるのだがね、有名な演目さ。グラン=ギニョヲル座の名作中の名作。これ、貴方、巌谷さんだっけか、少しの間、この書肆に置かせて貰えないかな」


 忠嗣が圧倒される程の勢いに意気込みだった。自分の所有物ではなく、図書館の蔵書だ。勝手に貸し出す訳には行かないが、無碍むげに断ることも出来ぬ有り様。しかも、既に無断で持ち出したものでる。


 これ以上の規則違反を重ねると、今度は自分が夜盗と同様の立場に置かれかねないが、今更、見せびらかしただけとは言えぬ情況。忠嗣は、やや引き攣った笑いと共に、諒承した。


「いきなり借り受けるのも気が引ける。どうだろう、與重郎くん、こちらの巌谷さんをのメンバアに加えても宜かろうと思うのだが、どうかな」


「異論があるはずありません。勿論のこと歓迎致します」


 金曜會とは何ぞや。會員というからには何かの集まりか会合か、将又はたまた、秘密の倶樂部のようなものなのか……当人の同意もないところで話が進み、忠嗣は呆気に取られたまま、その場で固まった。


「巌谷さん……じゃないや、今後は忠嗣さんとお呼びさせて頂きます。手前共は心から、貴方を歓迎します。では、では、指切り拳万をしましょう。ここで見聞きした事柄を決して外では口にしないと」


 與重郎は席を離れ、書生服の袖を色っぽく手繰上たくしあげ、ぬっと小指を差し出した。鉤状かぎじょうに折れ曲がっていて、それは男児の竿にも似ていた。絡めると俄かに硬直した。心滾り、血が煮え立ち、ほとばしる寸前。


 おおきく膨らんだ下半身を横隣の紳士に見られたおそれもあるが、一向に構わない。謎めいた會に加入すれば、これから幾度も與重郎に逢えるのだ。図書館の蔵書など呉れてやっても構わない。



<注釈>

*『新編古今獄門考』=架空の書籍。アンドレ・ド・ロルドの戯曲集も実在しないものを想定する。

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