21三話『刎ねられし乙女の生首は刑吏を睨んだ』

 書肆グラン=ギニョヲルには、忠嗣が足を踏み入れていない領域が存在した。入り口近くには四畳半ほどの広い空間があり、ほぼ正面に與重郎がおわす会計卓、向かって右側に人体解剖模型や骸顱しゃれこうべが並ぶ。


 初訪問時に雑誌類を纏め買いした本棚は、主に卓の左方向に位置するが、その奥にも尚、商品の置かれる箇所があったのだ。


 対を成す棚の裏手、洋燈ランプの明かりかすか、テヱブルと二脚の椅子が見えた。第三の男は、小さな燈を頼りに読書していた模様で、革張りの書物を小脇に抱える。


「これは面白そうな、何処かで聴いたような御噺おはなしかな。巷間では残忍な斷頭臺だんとうだいと思われるギロチン。それが女性の名前を冠したものだとは、実に意外で興味をそそられるよね。與重郎よじゅうろう君も仲々、説法上手になってきたようだね」


 初老の紳士だった。胡麻塩ではなく、完璧な白髪。ベエジュ地に赤と黒を配した格子模様の背広は、見るからに高級そうで、渋い色のネクタイに真珠を飾った金色こんじきのピンが輝く。如何いかにも都会風の伊達男である。


耿之介こうのすけさんに聴かれているとは。僕もうっかり忘れていて恥ずかしい限りです」 

 

 店主たる父親かとも思ったが、與重郎よじゅうろうの口振りはそれが不正解だと告げている。明らかに外行きの服装で、家人に非ず、客だ。しかも常得意じょうとくいと見受けられる。


「本当に首をねられて痛みを感じないのか、どうか。当時、ギロチンが御目見えした頃、変わった話がパリジャンの間で流れたんだよね」


 一風変わった人物である。初対面にも拘らず、挨拶も自己紹介もなしに親しに話し掛け、唐突に捲し立てる。


「十八世紀も残すところ後僅かの頃、暗殺の天使という二つ名を持つ美女が斷頭臺に連行されたんだ。急進派の首魁をナイフで刺し殺したシャルロット・コルデエ、享年二十四とされる。しかも噂では未通女おぼこだとか」


「その話は初めて聞きますね。王党派の跳ね上がりではないのですか」


「違うね。同じ革命勢力だったんだよ。幾つかの絵画に残る姿は結構な美人で、天使という表現も決して的外れとは言えない」


 與重郎と親しい間柄にあることが窺えた。革表紙の本を片手に、卓上の模造品を撫でながら、教諭のような立ち居振る舞いで自信たっぷりに話す。忠嗣は、処刑された革命の闘士よりも、物語る男のほうが気になって仕方がない。


「刎ねられたシャルロットの首は転がって上を向き、刑の執行人と眼が遭った。彼女の表情は泰然として尚も美しさを保っていたとか。執行人は憎たらしく感じ、頬を平手打ちしたんだ。すると生首は怒りから赤く染まったというから驚くよね」


「では、まだ意識も感情も残っていたということでしょうか」 


 黙って聞いていた忠嗣は、そこで漸く会話に踏み込んだ。年齢にも隔たりがあり、学生が講義で教授に質問する感覚に近い。


「意識は明確にあった、と私は考えるね。これは少し怪異譚めいた味付けがなされているけど、人間の脳の活動は、そうも簡単に終わらないのではないか、と思うんだよね」


 先の説明によれば、ギロチンの設計思想は即死である。苦しむ間などなく、刃がうなじに触れた瞬間、意識はぷっつりと途絶える。刎ねられた首が刑吏を睨むことなどあるのだろうか……忠嗣は斬罪仕置の絵を脳裡に想い描いた。


「ならば、江戸の打首でも同じように、転がる首が浅右衛門に怒りや怨みの眼を差し向けることがあったのでしょうか」


「恐らく、なかったはずです。本邦の打首は、歌舞伎や小説とは違い、刀を一度振り下ろして切断に至ることはないんだ。骨は太く硬く、浅右衛門は何度も叩き、やっと首が胴体から分離される。流血は激しく、儀式が終わる前に咎人は失血して意識を喪失するだろうね」


 紳士は饒舌に語り、與重郎は興味深げに拝聴する。実に生々しく酷たらしい話であるが、美少年は冒険譚を見聞みききするかの如く、眼を輝かせていた。


「ギロチンはその点が少々異なって、一瞬であるが故に、死ぬ為の充分な時間もないと」


「死を認識できぬ程の速さなんだよ。まあ、しかし、実際のところは生首に聞いてみないと分かりません。転がっているので、うんともすんとも、うなずくのも首を横に振ることも出来ないよね」


 そう言って銀髪紳士は軽快に笑った。話す内容は凄惨極まりないが、落語のような締め方である。忠嗣は虚を衝かれ、釣られて愛想笑いをするのが精一杯だった。


「申し遅れました。私は垣澤耿之介かきざわ・こうのすけという者です」


 身形みなりに等しく、礼儀正しそうな紳士だった。忠嗣もそれを受けて名乗ったが、直ちに年齢や職業を問われることはなかった。初対面の、一見の客に過ぎず、常連客が取り立てて関心を寄せぬのも道理だ。


「耿之介さんは、この書肆が開店した時から御贔屓にして貰っている方なんです。僕が生まれた頃になりますか」


「何とも古臭くて懐かしい話を。大正の末だよ。忙しいからと言って、私が與重郎くんの御湿おしめを取り替えたこともあったけかな」


 襁褓むつきを当てたということは、即ち、かれの局部を垣間見たのである。忠嗣は素直に羨ましく思い、紳士に嫉妬した。嬰児の竿とあれば途轍もなく愛らしいに違いない。小指よりも小さな性器。それ自身が後年の役割を知らぬところが良い。


 逆もまた眞也しんなり、と新参の客は夢想する。小指が男性器に似ているのではないか……


 だとすれば、任侠や獄道、博徒の指詰め儀式には去勢の意味合いが潜むことになる。卓上に据えられたギロチン風の小道具を今一度眺め直すと、穴ぼこに挿入するという手順が重要にも思える。


「あ、そう言えば、遊女の指切りで面白い逸話があったじゃないですか。ほら、川柳か都々逸どどいつの」


 小型ギロティイヌの穴を凝視していることに気付いたのか、與重郎は木枠を撫でながら、常連客に呼び掛けた。刎ねる首から、遊女の誓文せいもんに話が舞い戻ったようである。

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