23五話『禁書庫に快眠惰眠の逸品が参上す』

「成る程、キネマの女優にも見えなくもないつらだな。しかし、西洋人の女はどれも同じ顔立ちで、所詮は絵だし、実物がどうだったか、知れたものじゃない」


 捜索に少々手間取ったが、目的の女性が描かれた絵画を掘り当てることが出来た。書肆グラン=ギニョヲルで側聞そくぶんした暗殺の天使である。その名はシャルロットまで覚えていたが、下半分を微妙に間違えて苦労した。


 過激分子を謀殺した場面を切り取った絵画だ。ベッドに横たわる上半身裸の男。胸には一本のナイフが突き立てられている。かたわらには、下手人たる天使が怯えた顔で立ち尽くす。能書きを読むと、ナポレオン参世のお抱え画家が筆を取った模様だ。


「この女、シャルロット・コルデエって有名なのかな」


「さあ、どうでしょうか。少なくとも私は存じませんでした」


 書庫から掘り起こしたのは、相談掛そうだんがかりを務める新人書記の濱口はまぐちだった。


 日がな一日、目録室に陣取り、図書検索のほか色々と閲覧者の手伝いをする。雑務に非ず、豊富な知識が問われる職務と聞いたが、彼は実に頭脳明晰にして足の運びも機敏。忠嗣は迷わず躊躇わず、子分に仕立て上げることにした。


「それなりの知識人じゃないと知らないのか。佛蘭西フランス革命は兎も角、斷頭臺だんとうだいは一般教養の範囲でもなかろうし。まあ、良いや。これ、御駄賃……じゃないや、御土産の真珠麿マシュマロね」


 甘味で手懐てなずけるのが、常日頃の忠嗣の手口。出しなに自宅近くの高級菓子店で買って来たものである。出勤時刻にパン屋も床屋も暖簾を掲げているのが面白い。


「はあ、これは有り難う御座います。いつも頂いてばかりで申し訳ありません。家族が喜びます」


「いや、この場で摘んで食べれば良い。だいたい間食のお菓子ってやつは職務中に食べるのが美味いんだよ。ちょっとした後ろめたさが菓子を甘くする」


 試しに、とばかりに忠嗣は手渡した袋から一個掻っ攫って口に放り込んだ。舌の上で氷のように溶ける感触が真珠麿の真骨頂と言える。


 出入りの激しい目録室とあって入館者の眼が気になるが、それが快い。既に禁書庫は暢気な日常の場と化し、背徳感も罪悪感も失って久しいのだ。

 

「この畫集がしゅうは役に立ちそうにないから、要らないかな。あ、いや、仕事で使うんだった。暫くの間、借り受けることにしよう」


 突き返そうとして改めた。暗殺天使の立ち姿は普通過ぎて詰まらない。狙っていた絵は、転がる生首、それもめ付ける姿だ。書肆に持ち寄って自慢する心算つもりだったが、そう都合良く蔵書に含まれるものではない。

 

「この前、お渡しした洋書、戯曲か何か、あちらは戻っていないようですが」


「今、鋭意翻訳中で、暫く日数が掛かるかな。もし閲覧希望者が居たら、諦めて下さいとでも言っておいて。当面、小職が仕事に用いるから」


 大嘘である。巴里グラン=ギニョヲル劇場の座付き作家が著した貴重な書は、美少年の手に渡った。地下の禁書庫ではなく、無断で館外に持ち出し、してや九段富士見の花柳街に置いて来たなどと言える訳もない。


 帝國圖書館は貸し出し禁止を謳うものの、原則には常に例外があり、一部の研究者に限って許可されると聞く。その際には司書級の裁可を経なければならぬようだ。しかし、不幸にも閲覧希望が重なって無断の持ち出しが明るみに出ることは、確率的に零に等しい。


「それならば記録しておきます。紛失や盗難と勘違いされては困りますので」


「いちいち細かいねえ」


「蔵書の管理が一番の仕事ですから」


 生真面目な新人である。融通が利かない性質たちにも見受けるが、職務に忠実で何よりだ。戯曲の原書を掘り当てたのも、この濱口書記だった。ラルウス百科事典に記された作家名を頼りに、書籍の森の奥深くに潜り込み、輝ける一冊を発見した。独自の嗅覚か、偶然か、それは奇蹟にも近かった。


 あの原書がなければ、箸にも棒にも掛からない一見いちげんの客で終わり、かの杜若與重郎かきつばた・よじゅうろうと絆を深めることはなかったに相違ない。僥倖であり、相談掛は功労者と言える。彼が一心不乱に探す中、忠嗣は宿直室で油を売っていたことは内緒にしておく。


「あ、巡視長にも土産を買って来たんだっけ。それが小職の一番重要な仕事と言えなくもない」


 貢ぎ物の菓子折を取りに地下へ降りた際、食堂前で書記の九鬼須磨子くき・すまこと鉢合わせした。携えた大判の本を見られた可能性が高い。思わず隠したので、余計に怪しく、悪目立ちしたこと請け合いである。


 偽眼いれめは少しも怖くないが、視える右眼はおっかない。因みに、畫集にある暗殺の天使は、何処となく人相が須磨子に似ていた。


 寝込みを襲われ、刃物で串刺しにされる光景がふと頭に浮かんだが、後輩書記の場合は、操る言葉が鋭利だ。正確に言えば過去形で、鋭く、棘があった。何の因果か酔狂か、近頃は禁書庫内に限り、媚態づくしで妙な雰囲気を醸し出す。


「あれま、別の部屋に誤って入ったかと」


 二日振りくらいに訪れた一階の宿直室は、違和感が甚だしかった。それもそのはず、部屋の中央に大きな平机が陣取り、名物の優雅なソファアは隅に折り重なって積み上げられている。


「どうしてまた急に模様替えなんか。これ、会議室にあるような机と椅子で素っ気ない。と言うか、具体的に寝られないじゃないですか」


「あ、巌谷君。どうもこうもないんだよ。おや、それ貰えるのかな。何時いつも有り難う。気を遣わせちゃうねえ」


 巡視長は菓子折を受け取ると、薄くなった頭部を掻きながら申し訳なさそうに椅子を勧めた。無骨な印象は否めない。堅い木製で座り心地が好いはずもなく、柔らかなソファアとは天と地ほどの差があった。


「ウォールームみたいな雰囲気に変えろって、そんなお達しなんだよ」


 初耳の英語だった。戦う部屋とは一体、何なのか。


 巡視長によれば、それは作戦室や司令室を意味する軍事用語で、この宿直室を参謀本部の会議室風に変更するよう申し付けられたという。御触れを出したのが誰とは明かさなかったが、松本館長に違いない。


「それって、あの夜盗侵入事件と関係があるんですか」


「御明察。と言うか、まあ、学童でも判るよなあ。あの日、特高の偉い人が来た際、偶々、巡視の独りがソファアで寝てたんだ。早番だから問題ないんだけど、規律が緩んでるとか後で言われてね。それで模様替え」


 当館の警備陣に落ち度はないとの結論が出たと聞いていたが、相応の始末が必要だったようだ。確かに宿直室に応接間風の調度品は不似合いである。これを作戦室を模した雰囲気に変え、壁には館内と敷地の詳細な図面を貼り付けるという。


「何とも残念な仕置きです。これから小職はどこで休息すれば良いのでしょうか」


「そう言われても困り果てるけれど……そうだ、巌谷君、あのソファアとっこい大理石のテヱブル、持って行っても構わないよ。地下の君の部屋なら置く余裕あるでしょうし」


 望外の提案である。備品の変更や廃棄に関して、文部省では色々と口煩く、忠嗣は勝手にインク壺を捨てただけで戒告処分を受けたが、図書館は霞ケ関と規則が異なるようだ。一式は既に廃棄該当の書類が通り、今や粗大塵そだいごみの扱いらしい。


「決裁が済んでいるのなら、話が早い。どうしようかな、独りじゃ運べないんで、暇そうな出納手すいとうしゅでも呼んで来ようかしら」


「出納手は一番忙しいでしょう。うちの若い衆が後で地下に持って行くから、場所だけ開けといてよ」


 なんと労せずして寝具が手に入った。巡視が運ぶのであれば、見咎みとがめる者は居ない。日数にして僅か三日、美少年と昵懇じっこんになり、秘密倶樂部に招かれ、更に職場の寝心地まで変わる。


 忠嗣は俄かに運が向いてきたと実感し、北叟笑ほくそえむ。こういう時は、たいてい足許あしもとすくわれるものだが、それも巧みに逃れられるような気がしてならない。


 舞い降りたる幸運。こいの季節の華々しい到来。しかと掴み、離してなるものぞ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る