第三章〜花柳街のダンスマカブル〜

19一話『花柳街の美少年は春の夢にも幻にも非ず』

 脚も腰も軽やかに、心も躍るかと思いきや、目的地が近付くにれて緊張感が忍び寄る。


 九段の富士見花柳街に看板を掲げたる書肆グラン=ギニョヲル。見世の中、薄暗闇の奥、あの美少年に再会する日を心待ちにしていたものの、どんな顔をすれば相応しいか、また、如何なる話題を提示すれば会話が弾むか、毎夜毎日、色々と考えあぐねた末、決まって白紙に舞い戻る。


「手土産は周到に整えたけれど、功を奏すか、かすりもせぬか運次第、先方の心次第ではあるな」


 國電から省線に乗り換え、いち谷驛やえきにて下車した。外濠の葉桜を一瞥して東に向かう。大正通り*を進むうち、巌谷忠嗣いわや・ただつぐの歩みは、早まったり遅まったりとリズムは変調著しく、気もそぞろ、過ぎる景色も眼に留まらぬ。


 手土産と称する隠し玉、切り札は鞄の底にあって、何やら重くも感じられた。当初は自信に充ち満ちて、授けた際のほころぶ貌を夢想に描いたものだが、よくよく考えてみれば、相手は年端も行かぬ少年で、小難しい外国語を速やかに解せると思えない。


 肝心な事柄は、会話の内容よりも前に身形みなりではないか、と忠嗣は捉え、至極丁寧に髭を剃り、痛い思いをして鼻毛を悉く抜き取った。髪型を整えるだけでは気が済まず、馴染みの床屋を外し、上野広小路の洒落た理髪店を詣でた。


「ほんの少しばかり、色男に近付いたような、そうでもないような」


 神社の杜を背景に、一口坂ひとくちざかの停留所が見えて来たところで、忠嗣は足を停め、商店の硝子窗がらすまどに映る己の容姿と向き合った。


 公僕に有り勝ちな酷く凡庸な髪型。理髪店が細工した七三分けは奇をてらう意匠でもなく、従来と変わり映えしないものだった。それでも妄想半分と諒解しつつ、揉み上げの附近に都会者の粋が潜んでいるかのように思えた。


 小皺も白髪もない齢二十七相応の野郎である。特段、醜いと揶揄された覚えがない一方、誰彼の俳優に似たるといった好評を博したこともなかった。れど、自らを貶め、見下す必要はない。


 あの絶世の美少年の前では、銀幕の主役も舞台の花形も霞んで見える。かれの隣では、およそ全ての男が醜く、それらは美しい葦毛の競走馬と放浪する驢馬ろばを比べるに等しい。


「ほほう、もうこの辺りは花柳街の端っこに当たるのか」


 湯桶を携えた浴衣姿の女二人組。浮かれた調子で話しながら料亭に入って行くさまが見えた。夕暮れ時をうに過ぎ、小料理屋か待合まちあいか、門扉を飾る提燈ちょうちんが淡く妖しく輝いて、眠らぬ夜の始まりを告げている。


 群青よりもくらそらの下に九段三業會舘ビルヂングが望めた。初めて見たのは七日ほど前のことであったが、何故か懐かしくも感じる。あの劇的な邂逅の日から一週間、忠嗣は再訪の機会を一日三秋いちじつさんしゅうの想いで待った。


 先だっての未払い賃もあり、早々に訪ねるべきだったが、出納手の欽治きんじが申すには、を直ちに払うことは粋ではないという。遅れても江戸っ子は文句を言わず、盂蘭盆か大晦日までに勘定すれば何ら支障はない。

せっかちな催促こそ悪手で、そうした商人は嫌われ、馴染みは離れ、店も傾く……


「商店が請求するのは当然の仕誼しぎだろうが、どうも江戸の流儀は不可思議で、何が粋で何が無粋なのか、境界線があやふやで、基準も分からぬ」


 常日頃つねひごろ、定刻を待たずに退勤する閑人が、股間を苛立たせながらも一週間我慢したことには理由があった。同じ曜日の同じ時刻なら、必ず例の美少年が見世番をしていると考察したのだ。


 通常、会計卓を占有する者は店主であるかれの父親に相違ない。見知らぬ親爺に残金を払う義理はなく、また、店内に陳列される古惚けた商品にも興味がない。逢いたいのは少年、観察したいのはその美しいかおだ。


 再び、湯桶を抱えた女が独り傍を過ぎる。稽古か調律か、軒の奥からはことの音が届く。


 ここは紛うことなき花柳街。古風な衣裳と為来しきたりを纏い、散り行く桜花も何のその、乙女桃色悩ましく、紳士もせる風流の、香り揺蕩たゆたこいの丘。三階威容を誇りたるビルの暗がり蔭の間に、同じ看板門構え、変わらぬさま書肆しょしは建つ。


「断り書きの札もなし。時刻もいつにして客の居そうな気配もなし」


 深呼吸ひとつに咳払いふたつ、隣家のほうに向かって痰をひとつ。富士見花柳街の一遇、書肆グラン=ギニョヲルの黒檀こくたんの扉は、高が一枚の木戸にあらず、れは夢の世界への入り口、戀の華咲く麗しき庭園へと続く運命の門だ。 


「御免下さいまし」


「いらっしゃいませ。ああ、これは上野図書館の巌谷いわやさん」


 美しい。艶麗えんれい婉然えんぜんとして、印象派画家の描きたる絶佳のよう。見惚れ、魅入られ、身を焦がす。果たしての世の者なのか、と疑わしくも思える美少年、杜若與重郎かきつばた・よじゅうろうまた変わらぬ姿で、そこに居た。


「先日の不足の払いが残っていて、その、職務が忙しく、いや、実を言うとして多忙でもないんだけど、未払い金が滞っては大変申し訳なく……」


 動顛どうてん激しく、言葉が滑らかに出て来ない。忠嗣は店番が渠だったと安堵したのも束の間、自分の苗字を覚えていてくれたことに感銘を受け、心悶え、身を捩らせた。


「そうですか。しかし、結構な額に上ったので負けると言いませんでしたっけ。違ったかな。いずれにしても小銭分は気になさらずに」


 與重郎は翅蟲はむしを払うかのように手を振り、口許くちもとを弛める。召し物は、着熟きこなしも堂に入った書生服。上着の小袖を左手で軽く摘み、小さく手を振る。その様は実に可憐で、みやびやかだった。


「端た金だからこそ重要とも言えましょう。幾らだっけかな」


 自慢の海鷂魚革エイがわの財布。今回は厚みのあるところを見せびらかしつつ、紙幣を抜き取って卓上に添えた。與重郎は直ちに引き取らず、思案顔で俯く。照明の加減で陰翳いんえいが際立ち、塑像のように彫り深く、鼻梁も尖鋭なる容貌が一層、素敵に見えた。


 両膝を少し折り曲げ、その表情をやや下方から覗き見ようとした時、忠嗣は会計卓の上に、奇妙な道具があることに気付いた。端ではなく、机の中央、渠の目の前だ。来店して此の方、與重郎の美しさに眼を奪われ、紙幣を置いても尚、異物を感知し得なかったのである。


「ああ、こちら気になりますよね。蔵から出して間もない売り物のひとつです」


 古道具の類いで玩具とも見受けたが、どうにも物騒な代物だ。天辺てっぺん近くに刃がきらりと光る。背丈は十露盤そろばんを縦にした程で、一体何に用いる道具なのか。


 厨房の調理器具にも、指物師さしものしが用いる工具にも見える。下位置には木枠の中に丸い穴。形状に見覚えは僅かにもなく、およそ見当が付かない。


「巌谷さん、僕と指切りをしましょう。ここで見た物を決して口外しないという秘密の約束です。僕と指切り拳万げんまんしましょう」


 そう言って、與重郎は右手の小指を突き出した。会話の流れも不明で、忠嗣は刹那取り乱したが、千載一遇の機会と心得て滾った。與重郎の肉體にくたいに触れることが出来るのだ。


 小指と小指を絡めるのは何か性的な意味を秘めた仕草やも、などと邪な妄想を膨らませ、いきつ小指をそっと差し出した。


<注釈>

*大正通り=現在の靖国通り。関東大震災の復興事業として整備された幹線道路で両国から新宿まで東西を貫く。府民からは靖国通りと呼ばれ、東京五輪前に都が愛称として正式採用。「大正通り」は名実ともに消え去った。

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