百鳴邸の主

四號伊織


 木々が色づき花開く三月、まだ日は高い。唐は長安の風はぬるく、行き交う人々も暖かくなった風を受けたか、皆どこかほがらかに見える。

 後に太宗と諡される皇帝の世。まだ戦乱を知る者は生きているものの、これからは戦もなくより満ちて栄えていくだろうという期待に満ちた、活力と活気のある声が街路に満ちていた。

 そんな長安でも最大の街路、皇城中央の朱雀門からのびる朱雀大街を全力で馬を駆る男がいる。その勢いに周囲の者たちが慌ててとびのき、「すまぬ!」と詫びる声を聞きながら思い思いにかの者の後ろ姿を見送った。

 声からして若い馬上の者は、武官の正装姿。朝廷から退出ばかりであろう。帯剣した若者はひたすら大路を南へと進む。

 長安という都は北の中央に皇城を配し、この朱雀街路から碁盤の目状に街路がのびている。その街路の内側にあたる長方形の区画を坊という。坊は大きなものなら東西六百五十歩、南北五百五十歩はある一つの村里のようなもの。その周囲は坊墻、高い土塀で仕切られ、坊の東西あるいは東西南北にある坊門からしか入ることはできない。

 若者が駆る馬は朱雀大街東側、北から六つ目の坊の西坊門をくぐった。門の上には「蘭陵坊」と坊名の入った額がある。

 東西にのびる蘭陵坊の街路を行くことしばし。とある屋敷の門の前、若者はようやく馬を止めた。二十代らしき若者は額に汗をにじませ、下働きの男に馬を託した。

 この若者、姓を関、名を若、字を長慶という。武門の者らしい長身に、朗らかな顔立ち。誰とでも良き酒を酌み交わせそうな雰囲気のある若者だ。二重になった木の扉を越えた若者を老いた母と猫三匹が迎える。

「おかえりなさい、阿若」

 若者は足元で鳴く黒猫を慣れた手つきで抱きあげ、母に尋ねた。

「母上、流卿は」

「魏三郎どのなら先ほどからお待ちですよ」

「わかりました」

 衣を変えもせず、関若は猫を抱きつつ中庭の見える部屋へと急ぐ。廊下を行けば猫たちがついてきて、庭に目をやれば樹下で丸くなっている猫が関若を見て鳴いた。

「すまん、流卿!」

 部屋に入るなり関若は友の字を呼んだ。中庭に面した客用の間には、関若と同年代の男がいる。庭を見ていた男がゆっくり関若のほうをむく。

 衣服は粗末とまではいかないものの、ごくありきたりの綿。それから首に布。風貌も見るに耐えぬというものではなく、そこそこの家の育ちだというのは間違いない。

 ただ、見目よき若者というには影がある。ありすぎた。

 もう少し華やかさか何かしらの明るいものがあれば、美丈夫といえたかもしれないが、そう呼ぶには目つきが鋭すぎ、何よりまとう陰気が強すぎた。昔はもう少しましではなかったかと関若は思うのだが。

「布衣(無官)のおれよりお前のほうが忙しいんだ。気にするな」

 そう言って微笑すると、いくらか男の陰気が和らいだ。

 この男は魏遼、字を流卿、洛陽の生まれで、関若とは十代に同じ師についていたころからのつきあいである。

 魏遼の前に座り、関若は猫を膝の上におろす。黒猫はするりと丸くなった。

 関若は一つ、気になったことを問うてみる。

「どうしたんだ、その首」

 魏遼の首には細い布が巻かれている。そうそう負傷するような場所ではなく、軽々に喧嘩を買うような気性の友でもない。

「掻きすぎて血が出たから薬を塗っただけだ」

 喉のあたりを掻くのは魏遼の昔からの癖だった。爪を立てれば血が出ることもあるだろう。

「汗がしみるくらいでたいしたものじゃない。……しかし相変わらずの猫屋敷だな」

「いい家だろう?」

「それは人によると思うが」 

 関若は十代続く武門の長子として生まれた。代々相応に功を重ね、当人もその才と器量で将来を期待されているのだが、近辺では別のことで名が通っている。

 関家が蘭陵坊に居を構えて四代。その当主たち皆が動物を、特に猫をこよなく愛する者たちだった。近くで飢えた猫がいると聞けばそれを飼い、雨に濡れた猫を憐れんでは連れ帰って面倒を見、理由あって手放さねばならない猫がいると耳にすれば迷いなく引き取り、その結果、関家は人よりも猫が圧倒的に多い猫の屋敷となってしまった。現当主の関若も「猫を飢えさせぬために」と出世を考えるくらいだから、関家から猫が減ることはないだろう。

 それゆえに、近隣より呼ばれる名が〈百鳴邸〉。

 常に猫がおり、あまたの猫が鳴くゆえということだが、関若からすればどの猫も無闇に鳴きはしない、愛らしい猫たちばかりだ。稀に調度に爪を立てられることがないでもないが、猫の数からすれば驚かれるほどに悪戯は少ない。

「……それで、いったいどうしたんだ。わざわざおれを呼ぶなど」

「どうも落ち着かないことがあってな。こういうことを相談するなら流卿だろうと」

 ほんの少し、友の顔が険しくなる。母が二人分の茶を置いて去っていった。

 この友は無官の割に妙に諸事に通じていて、仲間うちで何か不可思議なことがあれば、皆まず流卿に話す。そういった立ち位置をあまり好んでいないのか、魏遼は毎度眉間に皺を作るのだが、それでも彼が友の話に耳を傾けないことはない。

「……まあ、話くらいは聞いてやろう」

「すまん」

 苦笑の出来損ないのような顔をする友にむけて、関若は話しはじめた。

 膝の上で丸くなっている黒猫、太白について。



 ※      ※



 〈百鳴邸〉は人の客と同じくらい猫が訪れる。同じ蘭陵坊の猫ならたいていは関若の顔見知りだが、その日関家にやってきたのは見覚えのない黒猫だった。真っ黒の体に白い絹で作られた首輪をしており、右足の先端だけ白い部分がある。

 主を待ちかねたように鳴く猫を、関若はいつものようにもてなした。黒猫は他の猫たちと戯れ、喧嘩もせず、何か言いたげに関若のもとにすりよってくる。

 首輪といい人懐こさといい、間違いなくどこかの家、それもあるていど裕福な家の猫であるはずだが、関若には心当たりがない。迷い猫なら主を探さねばと思った矢先、黒猫はふっと姿を消した。どこか他へ行ったか、元の家へと戻ったか――とりあえず無事であればよいのだがと関若と母が話をしていたのが昨年の秋のこと。

 やってきた猫が姿を消すのは珍しくない。念のため近隣にそれらしき黒猫を見なかったか声をかけてみたが、やはり誰も心当たりはないという。

 それからしばし後、関若が母の生日を祝う品を探して市まで出向き、いつもよりだいぶ帰りが遅くなった晩秋の日である。

 門にあの黒猫がいた。絹の首輪をつけた黒猫は関若を見上げて鳴き、帰宅した関若から離れようとしない。そしてやはり二日ほどで黒猫は姿をくらまし、三日後にまたやってきた。同じように門で関若を待って。

 変わらぬ毛艶からして間違いなく飼い主がいるはずとみこみ、関若は一つの案を考え、黒猫に託した。

 猫の首輪に文を結びつけたのである。「この猫に禁忌はあるか。名は如何」と、署名を添えて。

 とある夜、猫は〈百鳴邸〉から消えた。四日後戻ってきた猫には、関若が書いたものとは違う文が結びつけられていたのである。 

「……それでまあ、名は太白とわかったわけだが。それから三日前、この文が来てな」

 関若は懐中から折りたたまれた文を取りだす。筆跡に詳しい者に話を聞こうと、これだけは持ち出していたのだ。

 関若から受け取った文を広げた魏遼が渋い顔になる。

「女の字、それにいい紙だな。使い回していない」

 中には一行。〈太白をお願い致します〉とあるだけだ。

「ああ。書に詳しい者もそう言っていた」

「お前が猫を押しつけられるようなことなど、珍しくないだろうが」

 魏遼の言うとおり、〈百鳴邸〉のことを聞き、飼えなくなった猫を託しに来る者は少なくない。それで引き取った猫は二十を超え、知り合いのところへとつなげた猫も同じくらいいる。

「そうだが、ついこの間までそんなそぶりもなかったのが気になるんだ」

「……他の手紙はあるか」

「あるぞ。今取ってくる」

 すっと関若は黒猫を床におろし、己の寝室へと小走りでむかう。壁の棚に置いていた木箱を持って客間へ戻ると、黒猫は魏遼の膝にのっていた。なんとも稀なことだ。この友人はあまり猫には好かれないのだが。

「太白が持ってきた文はこれで全部だ」

 卓の上に箱を置き、関若は蓋を開ける。中には先ほどの文と同じように折りたたまれた紙が十ほど。

 黒猫を膝にのせたまま、魏遼は文を読む。だんだんと彼の目つきが厳しいものになっていた。

 妙なものだ。中の手紙は太白の餌の好みや撫でてよい場所、ひげの焦げについてなど、猫を飼う者にとっては重要でも他にはさして重くもなんともない事柄ばかりである。それほど厳しくなるようなものではないはず。

「……なあ、長慶」

「なんだ」

「お前、最初に送った手紙で名乗ったと言っていたな」

「ああ」

 魏遼の指が止まる。

「それがどうかしたか」

「お前の名を知ったのに、相手は名乗り返していない。それが気になる」

「何か名乗れぬ事情でもあったんじゃないか? 嘘をつかれるよりはずっといい」

 これは関若の本心でもあった。


〈昨日爪を切りましたが、短くなった爪を気にしすぎるようです〉

〈虫に刺されてかきすぎたらしく薬を塗りました〉


 太白に関することはいつもそんな細やかで率直な文ばかりで、虚言を弄するような人物には思えない。

 魏遼はずっと卓に広げた文を見つめている。いつの間にか部屋に何匹も猫が入ってきていた。

「猫が嫌になって手放す、という感じはしないが」

「だろう? 理由があってのものと思うが、もし力になれるのならなんとかしたいのだ」

「猫のためにか」

「猫と人のためにだ」

 関若は即答する。

 おそらくは、この手紙の主が太白を手放すのは本意ではない。手紙の主は太白を愛しており、太白もまた主を大事に思っている。そのはずだ。けれどもこれは猫と暮らす者だからわかるというか、そう考えるしかないというような勘に似たもの。猫と縁の薄い友に言葉で根拠を語るのは難しい。

「『力になる』と言っても、相手の名も住まいもわからんだろう。今わかっていることといえば相手は女だろうということと、首輪や紙からしてかなり豊かな家の者だろうというくらいだ」

「それではなんとかならないか」

「お前、この長安に何人の女がいると思っている」

「流卿ならなんとかできそうだが」

「人間できることとできないことがある」

 何に応じたのか、魏遼の膝から猫が鳴いた。魏遼がため息をつく。

「……この蘭陵坊以外で、猫の足で一日ほどの距離の坊だとしてもかなりになるぞ」

「ここ以外?」

「蘭陵坊で〈百鳴邸〉とその主を知らないという奴はいないだろう。わざわざ手紙なぞつけずとも直接来ればいい。当人が無理でも代理という手もある」

 再度太白が鳴いた。だが悲しいかな、人間二人には猫の言葉はわからない。

「いつもなら三日ほど留まれば帰っていくのに、今日で五日目になる。太白なりに何か察したのかもしれない」

「居心地がいいからかもしれんぞ」

「それなら嬉しいが、それはそれとして、な」

 当の猫は魏遼の膝の上で丸くなり、彼が腰から帯びている玉佩に前足をのばしている。機嫌はよさそうだ。

「珍しいな、流卿が猫になつかれるのは」

「百いて一いるかどうかだな」

 この家の猫たちも魏遼のことは見知っているはずなのだが、「主の連れか」と一度軽く目をむけるくらいで、たいていは近づきもしない。

「なあ流卿」

「一応、聞くだけは聞いてやろう」

「太白を連れて、飼い主を探すのは無理か」

「……」

 黙る魏遼を見上げ太白が鳴く。心なしか、部屋のあちこちにいる猫たちも物言いたげに魏遼を見ているようだ。

 出仕している関若より布衣の魏遼のほうが何かと動きやすいのは間違いない。それとは別に、この男は失せ物や尋ね人を見つけだすのが得意だった。ちょっとした「気になること」を解決するのも上手い。当人は世の中すべてを疎んじているような雰囲気を醸しだしているくせに、どうしても人を放っておけない、気のいいところがある。

「もちろんただとは言わない。金は出せないが、汪河人の新作、山水画一本でどうだ」

 ぴくりとむかいの男の口元が動いた。

 汪河人は最近人気が出てきた画家だ。士大夫や高官よりも特に市井での人気が高く、詩画を好む魏遼のお気に入りでもある。

「……買ったのか」

「いや、後輩に汪河人の従弟がいてな」

 汪某は若く力はあるがどうも要領がよくなく、小さなしくじりが多い。重要な場では何故かそういう失策はなく、気性も穏やかなこともあり何かにつけて関若が引きたてていたところ、この後輩は関若に懐いた。

 同じように汪某をかまう絵に長けた親族がいるというので話を聞いたところ、汪河人だとわかったのである。汪某は喜んで関若と汪河人を引きあわせ、三人は意気投合し大いに飲んだ。

「……あの詩、『高楼にて関兄を送る』の〝関兄〟はお前のことだったか」

「その詩は知らんが、他に関という知り合いがいなければそうだろうな。で、どうする」

「――さすがに範囲が広い。四日だ」

 渋面で魏遼は言い、その膝の上で太白が背伸びするのが見えた。

「一番の手がかりだ。太白は借りていくぞ」

「ああ。籠と餌をつける。あと……砂はこちらから送ったほうがいいな」

「砂?」

「猫用の、盆に入れた砂だ。あちこちに粗相されてもかなわんだろう?」

 このあたりは猫に縁遠い者ならすっと出てこないのも無理はない。家中の者に届けさせたほうがいいだろう。

「四日で足りるか?」

「それ以上かかるようならこちらから知らせる」

 広げた文を一つ一つ丁寧に折りたたみながら、魏遼は面白くなさそうに答えた。

 しかし関若は知っている。

 本心から不愉快ならば最初からこの男は耳を貸しもしないし、そんなことはほぼない。

 そしてこの男が「四日」と言ったら、それを越えることはまずないのだ。



 ※      ※



 魏遼にも仕官のあてがなかったわけではない。それを蹴り、さらにはここに留まらないかと言う道観(道教の院)からの申し出も断り、魏遼は生地洛陽を離れ長安に来た。以来、妻子も持たずに一人、特に何をするでもなく日々をすごしている。この都は娯楽には事欠かない。時を潰すやり方は色々とありすぎるほどにあった。

 日は西に傾きつつある。関家を辞し、蘭陵坊を出た魏遼の腕の中、太白が大人しく抱かれていた。太白の首輪には逃げられないように紐が結ばれている。紐の端は魏遼の左手首に結びつけられていた。

 猫のための品は関家の者がこちらの家に届けてくれるというので、魏遼が手にしているのは猫だけだ。自分の住む坊まで帰ることを思えば荷は軽いにこしたことはない。

 都の中にはいくつもの坊があるが、夜になると坊の外へ出ることはできなくなる。これを犯夜の禁という。つまり探すなら日中ということになるのだが。

 ――さて、どうしたものか。

 蘭陵坊を出はしたものの、その近辺であろうとしか今はわからない。方角すら定かではないのだ。猫を抱いて立ち止まり、四方を見回していると、腕の中の猫が鳴き、右腕を押した。前足二本を揃えて人の腕を押しながら何度も鳴いている。

「……こっちに行けと?」

 どれだけあてになるか怪しいが、魏遼は猫の押しに従うことにした。どうせあてがないのなら、まず猫に従うのも悪くないだろう。

 歩きながら魏遼は探し方を考える。このあたり、長安南部中央付近で人脈のある人物というと、商家に何人か顔見知りがいた。まずそのあたりに話をして、猫を飼っている女性の噂を流せば、三日もあればそれぞれの坊中に話は広まるだろう――。

 猫が鳴いた。鳴いて、腕を押してくる。今度は左腕だ。

「こっちか?」

 魏遼の声に太白は一声鳴いて前足をおさめた。

 それから延々と一人と一匹は歩いた。角のたびに黒猫はこちらだと腕を押して鳴くのである。

 どこまで歩くのか、さすがに怪しくなってきた。最後に見た坊名からするに、かなり北まで歩いてきている。このまま進めば、自分の住居がある崇仁坊まで行く道筋だ。

 突然、角ではないというのに猫が鳴きだした。

 しかし、困ったことに、魏遼の右側にあるのは坊墻、自分の背丈よりもずっと高い土の壁だ。

 坊墻を越える、あるいは故なく壊すことは時を問わず罪となる。――人ならば。

「方向はわかったから、別のところから入るぞ」

 声をかけると腕の中の猫は一声鳴いて小さくなった。わかったとでもいうように。

 太白が示したのは、蘭陵坊の北東からさらに北に行った親仁坊だった。あまり詳しくはない坊だが、歩けないことはない。坊墻を伝うように歩き、西門から中に入る。

 猫を抱き、魏遼は坊の中の大通りを歩く。坊門同士を結ぶ街路が自然と人通りが多くなるというのはどこの坊でも同じだ。ここは市にも、皇城――官人たちの職場からも近いためか立派な邸宅が多い。

 さっき太白が示したあたりを狙い、魏遼は進んでいく。太白が鳴いたのは坊の中央よりもやや南側だった。あとは東西が絞れればかなり楽になる。

 いきなり太白が鳴きだした。猫の素人の自分でもわかるぐらい、先刻とは明らかに様子が違う。

 魏遼は太白が見つめる方向に目をやる。いかにもという大きな門だ。建物も古めかしく三代は住んでいることが想像できた。

「……ここか?」

 見れば、鳴きながら太白は魏遼の腕を前へ前へと押してくる。早くしろとばかりに。

 被り物も服も綿。こういう家には場違いだと追いだされかねないなりもかまわず、魏遼は門をくぐった。すぐさま家中の者らしき女がやってきた。顔をしかめた女――きっと物乞いか何か、厄介事を持ちこんでくると思われたに違いない――の手を引き、魏遼は門の裏側の壁際に立つ。

「一つお訊ねしたい」

「……」

 四十すぎらしい女は、猫連れの男をいぶかしげに見る。

「この猫の主を探しておりまして。御心当たりはございませんか」

 言いながら、魏遼は抱きかかえた猫の右足を引っぱりだす。一本だけ先が白い、夜空の太白星のような足を。

「三娘さまの太白じゃないか。しばらく出かけたと聞いていたけれど――」

 名も合っている。ということはここが太白の主の住まいということか。

 ――利口な猫だ。

「その、三娘さまにお伝えしたいことがありまして。直接御目にかかれませんか」

 魏遼の声を聞いた女はさっと顔つきを変え、無言で手招きして邸内に入っていった。女の手招きを信じ、魏遼も中に入る。女が立っているのは中といっても建物のごく入口そば、入口からの影になっているところだ。

「もうちょっとこっち」

 女の言に従い、魏遼は彼女のそばに立つ。

「三娘さまは病でね。会えないよ」

 女がすっと手を出してきた。そこに銅銭を数枚置いてから、小声で「なんの病だ」と訊いてみる。するりと銅銭は女の懐に入った。

「一月前から寝ついていらっしゃる。医師も薬師もお手上げだって話だ。旦那さまも奥様も諦めたのか、人を呼びもしなくなった」

 また差しだされる手。先ほどの倍の銅銭を渡す。

「一月前、三娘さまに縁談がもちあがってね。病はそれからだ」

 一月前というと、最後の文よりもう少し前のことだ。

「悪い縁談だったのか」

「さてね。どんな良縁に見えても当人には、ってことはどこにでもある」

「まあそうだが」

「三娘さまもいい御年といえ、旦那さま方も頭の痛いことだよ。五十を越えた相手に娘が求婚されたらねぇ」

 それはさすがに人の親として考えるものがあろう。五十といえば、ひょっとしたら父親よりも年長かもしれない。

「三娘さまの年は」

「二十」

 嫁入りとしては少し年がいってなくはないが、それでも五十を越えた男に押しつけなければならないほどでもないはずだ。

「ここの生業は」

「宋の絹」

 絹の中でも一級品の産地だ。この家のたたずまいからして商売が傾いているということはないだろう。金に困って娘を売るような家ではない。

「なんとかして三娘どのにお会いできないか」

 今度は女も手を出してはこなかった。じろりとこちらを頭から爪先まで見やり、息を吐く。

「……病人のもとに連れていけと?」

「庭でもどこでもかまわない。この猫の迷い先の主から、直接話せと言われている」

 ――わけではないが、物は言いようというものだ。

「とは言ってもねぇ……」

 太白が鳴いた。今までの中で一番大きく、長く。

 奥から別の女性がやってきた。そばの女と同年代の、だが比べものにならぬほどよい絹の服を着た夫人だ。小柄ながら衣服に着る者が負けていない。隙なく施された刺繍の緻密さは、一見するだけで格別の品とわかる艶がある。

 奥様、と女が呼びかけた。

「麓蓉。この方は」

「三娘さまの猫を拾った方の使い、だそうで」

 夫人の目がこちらをむく。不躾にならぬようにと抑制された視線は、はじめ腕の中の猫にむけられ、それから 魏遼の顔と身なりを見、最後に腰の佩玉でとまった。さすがに目がいい。今の自分の持ち物の中で、人によっては場違いという一番の別格がこの翡翠だ。

 太白を抱いたまま魏遼は一度片膝をつく。

「魏三郎と申します。急な訪問を御許し下さい」

 立ちあがり、夫人の顔をよく見れば目元がやや赤い。ついさっきまで涙を流していたかに見える。

「娘の猫を助けて下さったことには感謝致します。ですが娘は今」

「お会いするのは難しい、とわたくしも聞きました。――しかし奥様」

 思わしくない縁談。託された猫。娘の病。赤い母の目。これらから見えてくるものはある。

 打開の方向も。

「この猫は憂えている。病の主を案じているのでしょう。この猫を助けたわたくしの友にむけてずっと、何かを訴えるように鳴いていたそうです」

 猫と人を助けたい。猫の友たる友人はそう言っていた。

「御困りのこと、ささやかながら御力になれるかもしれません。少しお話をうかがえませんか」

 夫人は黙っている。

 すぐに断らないということは、心が揺らいでいるということだ。落涙の後はまだ感情が落ちついてはいないもの。その揺らぎは利用できる。

 ――もう一押ししておくか。

「この猫を助けたわたくしの友もけして怪しい者ではございません。左羽林軍に勤める武官にございます。それと」

 そうしてできるだけ穏やかにかつ親しげに、声を作る。相手を慮るように、丁寧に少し柔らかくゆっくりと。

「この身を不審に思われるも無理なきこと。御不安ならば永興坊まで使いを立てて下さいませ」

 ――すまん、爺さん。看板を借りるぞ。

「永興坊?」

 夫人が首を傾げる。永興坊は皇城の東隣、この親仁坊からは四つ北、宮廷に仕える者が多く住む坊だ。

「はい。永興坊の西。諌議大夫魏玄成の御元に。『魏三郎を御存知か』と」

 わかりやすく夫人の顔色が変わった。

 諌議大夫といえば位こそそう高くはないが、その職柄、皇帝に直接対する臣である。この長安でも玉顔を拝することのできる位置にある者はそう多くはない。

「お嬢様にお伝え下さいますか。『関長慶の使いが貴女の猫を連れてやってきた』とおっしゃっていただければ、涙も止まるかもしれません」

「貴方様は」

 ゆっくり近づいてきた夫人にむけ、太白が鳴く。

「友のため、銭にもならぬことをする――そんな物好きな男です」 

 ややあって、夫人は「麓蓉」と女を呼び、何事かを言いつけた。女が小走りに走っていく。

「――魏三郎さまはこちらへ」

 黒猫を抱き、魏遼は踵を返した夫人の後をついていく。

 猫の尾のように佩玉が揺れた。


 

 ※      ※



 皇城内。上官と話をしていた関若のもとに、見慣れぬ少年がやってきた。

「なんだ、いったい」

 確かこの少年は胥吏のそれも見習いのようなもので、本来ならばこのような場に顔を出せるような立場ではない。

「関大郎にこれを渡すようにと仰せつかりました」

 少年が差しだしてきたのは書状が二通。上の書状の字は見慣れた友の字だ。

「流卿は――これを渡してきた男はどうした」

「別に用があるから、とすぐに立ち去られました」

 皇城にいる流卿の知り合いといえば、同門の者が数名いるが。

 ――ひょっとして、あの剛毅な爺様か?

 関若は友からの書状を開ける。

〈事情は別紙の通り。逃したくなければすぐに行け〉

 わずか二行だ。署名すらない。

 もう一通の書状を関若は開けた。

 友の字ではない。しかしよく見知った字だった。こちらの文章は長く、ところどころ字がにじんでいる。

 読み終えた関若はきっと顔をあげ、外を見た。窓から見えた空は日がだいぶ傾き、辺りには赤い色が増しはじめている。動ける時間はそうない。

「馬を借りてもよいですか」

 否と言ったらそのまま走りだしそうな顔つきで、関若は上官に問う。

「――替え馬はいるか」

「一頭だけで」

「なら好きなのを連れていけ」

 理由は聞かんぞ、と上官は苦い顔になって言う。

「お前ほどの男が無理を言うのだから、余程の大事なのだろう。――行ってこい」

「ありがとうございます!」

 その声と同時に、関若は部屋をとびだしていた。



 ※      ※



 とうに日も落ち、目を向けた庭は暗い。

 関若に呼ばれた三日後、魏遼は崇仁坊の自宅ではなく、永興坊のとある邸宅の空き部屋にいた。壁際の灯火が揺れている。客を迎えるような立派なものではなく、本当にただの空き部屋だ。当然自分の邸宅ではない。

 何事かを言いながら、平服の男が入ってきた。五十は越えているようだが、それ以上は判然としない。髭も髪も灰色だが齢以上に落ち着きがあり、それでいてまっすぐな姿勢のせいか不思議と老いとは遠い活気がある。

 男が魏遼を見てにかりと笑った。

「……なるほど、今日の魏三郎はそちらか」

 つぶやきや独り言というには大きい声だ。

 邸宅の主、魏徴。字を玄成。曲陽の人である。

 その半生はけして恵まれたというものではない。なんといっても付いた陣営がことごとく負けている。唐朝に入ってもなお、先の太子に付いて敗北しているのだからどうしようもない。

 魏徴が幸運であったのは、勝った相手が皆、その才を理解できる者たちだったことだろう。そうでなければ何度首が飛んでも足りるものではない、というのは当人の弁だ。

 なんせこの男、気性がまっすぐすぎる。さらに歯に衣を着せない。そして正論を突きつける。狭量な君主なら確実に舌を抜くか首を落とせと言うだろう。気性はその背骨よりも直、気骨は剛――皇帝を諌めるという役職に、安易な妥協でよしとする者がつけるはずもないのだ。

 知り合ったのもたまたま同じ道観に世話になったというもので、もし二人の系図を作るなら、坊一つ分ぐらいの紙は要るだろう。

「邪魔しているぞ、玄成どの」

「どうせ今夜もどこかの青楼かと思ったが」

 男は魏遼の前に座ると、入口そばで控える若者に目配せした。若者が立ち去る。

「あれは初めて見る顔だが、玄成どのの縁者か」

「妻方のな。しばらくこちらで預かることになった」

 それで、と男はもったいぶった笑みを作る。

「わしの名を使ったそうだが。今回はどうした、流卿」

「先日、面白いことがあって」

「ほう」

「長慶のところに新しい猫が来たと」

「〈百鳴邸〉にまた猫が増えたのか」

 魏徴は魏遼の同門と会っている。縁者と友人を紹介するという軽い宴席のつもりだったのだが、宴の主以外は皆出仕している者たちだった。魏徴の名を聞いた面々はそれぞれに驚き、硬直したものだ。まさかの皇帝の側近である。

 関若曰く、「あのな、流卿が『面白い爺さん』と言ったなら、もっとこう、いかにも面白いのが出てくると思うだろう! 剽軽だったり世捨て人だったり!」。

 そのどちらも魏徴からは遠い。遥かに年長であるにも関わらず対等な者同士がする字呼びを許したりと、意外と話がわかる御仁なのだが。

「新しい猫と、新しい人が入るようで」

 先ほどの若者が二人分の茶を持ってきた。普通こういう場では酒を嗜むのだろうが、酒をやらない魏遼に魏徴が合わせた形だ。

「発端は上元の祭りだった」

 ゆっくりと茶をすすりながら魏遼は話す。

 上元、すなわち正月十五日を挟んだ前後三日間、長安の都はあちこちに灯篭が飾られ、時を問わず人々が街にくりだす。そういった人々にむけた露店も並ぶ。この三日間だけは犯夜の禁も解かれ、昼は昼の、夜は夜の灯篭を眺めつつ人々は飲食と喧噪を楽しむのだ。

 一昨年の上元の日の夜。高家の令嬢は一人の男に心奪われたのである。

 何か劇的なことがあったわけではなく、言葉を交わすことも目が合うことすらなかったという。

 友人たちと話しながら歩く男とすれ違ってすぐ、高三娘は男を追いかけたが、一際賑やかな祭りの夜である。すぐにその姿は人混みにまぎれてしまった。

「まあ上元ならよくある話だ。高三娘も己にそう言い聞かせたが、どうにも想いは断ち難い。既に嫁いでいた姉たちもなんとかその男を探そうとしたが、どうにも同じ坊ではなさそうだということがわかったぐらいだった」

「すれ違っただけの男をよく訊いて回れたものだ」

「それなりに体格のいい武官。これだけなら話にならないが、その男には一つわかりやすい特徴があった」

 高三娘からそれを聞いた瞬間、こちらはもっていくべき筋道が見えたわけだが。

「肩に子猫をのせていたと。灰色の」

 魏徴は茶碗を手にしたまま、目を寄せる。

「……それはほぼ決まりというものではないか?」

「そう、ほぼ決まりだ」

 関家の者は猫を大事にするがゆえに、猫を外に出したがらない。正門からわざわざつけた扉は二重にしているし、家の塀にも猫が出ないよう返しをつけている。それでも出入りする猫はいるのだが。

 そんな関若が猫を連れ歩くということはほとんどない。

 ただ、魏遼にはその子猫に思い当たることがあった。

 灯灯という〈百鳴邸〉でも屈指の美声の猫の話だ。

 その小柄な灰色の猫の名は、上元に宣陽坊の知人から引き取ったことからつけたのだと、以前魏遼は関若から聞いていた。

 そして、宣陽坊から〈百鳴邸〉のある蘭陵坊までの間に、高家の住まう親仁坊はある。

「……とはいえ、猫を連れた男、だけではさすがに見つからず、親の説得もあって高三娘も表向きは諦めた。そんな折、彼女は怪我をした黒猫を見つけ、家に連れ帰った。あの上元で見た若者ならばきっとそうするはずだろうし、実際に猫と一緒にいれば、上元の君の顔も忘れず、自分もよき顔になれるかもしれないと」

 男の姿も心惹かれた一因だが、何より猫にむける優しい顔が忘れられなかったと、涙ながらに高三娘は語った。

 高家の者が話すには、黒猫が来てからの三娘は少しずつ声も顔も明るくなり、猫も三娘のそばから離れず、さながら護衛のようであったという。

「そんな日々の中、突然太白――黒猫が姿を消した。慌てて総出で猫探しを始めた十日後にふっと猫は戻ってきた。けれどもまた猫は姿を消す。そんなことが数度続いたある日、猫は首輪に文をつけて戻ってきた、文には長慶の名が入っていたが、彼女のいる坊は蘭陵坊から遠く、〈百鳴邸〉のことは耳にしていなかった。きっと近くの坊だろうと思い込み、返事を書いたが名までは教えなかった。手紙が落ちて名を知られるのはまずいと考えたらしい」

「まあ、若い女とあればそれも已む無しか」

「そこで名乗るか、せめて坊だけでも記していたら話はもう少し早く済んだんだが」

 黒猫を介したやりとりは続いていたが、そこに思わぬ話が降ってきた。長年高家と取引をしていた客が、高三娘に求婚してきたのである。五十と年はいきすぎていたが、先代からつきあいのある相手で、しかもたちの悪いことに相手は誠心誠意をもって求婚していた。

 単に若い女がいいというような男ならまだしも、二十年前に妻を亡くして以来妾も持たず独り身を貫いていたような男で、そんな朴訥な男が三娘の猫を見るまなざしに惚れてしまったのだという。

「なんとまあ皮肉な」

 猫を見る若者に惚れた女が、相手を見つけられないまま猫を見る優しさゆえに他の男から惚れられる。魏徴の言うとおり皮肉か嫌味のような巡り合わせだ。

「高家としても即答しかね、一月。そこにまあ猫を連れたおれが出向いたわけで」

「それからどうした」

「これらの話を聞いて、まず長慶で間違いないということで、急いで長慶を呼びつけて。高家には『今日か明日中に上元の男がくるはずだからそれを待て』と言って――おれは皇城に求婚者の身内がいるというので、とりあえず為人をうかがいに、としている間に」

 とまあ、一気に段取りをつけたのは自分だが。

「長慶はその日のうちに高家に行って求婚したそうで」

「――は?」

 魏徴が気の抜けた声を出したのも当然だ。

 婚礼とは〈礼〉という字が示すように、本来儀礼で成り立つものである。求婚にも諸事の決まりがあるし、関家の格ならば、いきなり当人が駆けつけるなどというのはまずありえない。

「おれからの文を見て即駆けつけたらしい。確かにすぐに行けとは言ったが」

「文以外のやりとりも、両家の誼もないのだろう?」

「ええ。長慶にとっては初対面。なんだが――あれが言うには『太白のような猫を動かせる女人が素晴らしくないはずがない』と」

 関家としては主の結婚となればこれほど喜ばしいものはなく、高三娘にしても想い焦がれた相手からの求婚だから、否と言えようはずがない。

 ないのだが。

「年寄りの求婚者はどうする」

「そこで玄成どのの出番が」

「わしか」

「はい。関家と高家の媒酌を頼みたく」

 髭を撫でる魏徴は思案顔だ。

「あの武官なら知らぬ者ではなし、媒酌を引き受けるのもやぶさかではないが。そもそもあの家なら頼む相手も他に数多といよう。何を企んでおる」

「ほぼ円満に解決する方法を」

「ほう」

「関長慶は猫の縁で高三娘と知り合い、両家の媒酌によりふさわしい人をと探した結果、友人の伝手から玄成どのに依頼した。娘の媒酌が思わぬ人物だったため、高家としては対応に困る。思案しているうちに別の相手から求婚されたが、もう一つの求婚について話すわけにもいかず、時を重ねてしまった――ということにしようかと」

 実際は関若が横槍を入れたようなものだが、高三娘の意を汲むのならば先の求婚者には諦めてもらうしかない。

「高家としてはもしその男が難癖をつけても玄成どのを頼れる。体裁としても悪くない。長慶としてもきちんとした媒酌人を立てられるし、ほぼ万事よし、というわけだ」

 求婚者の男には悪いが、自分には関若の方が大事だ。

 待たされても断られても仕方ないと、納得できるだけの理由があればあれは諦める、というのがもう一人の求婚者の気性だと周囲は言っていた。これは魏遼の調べでも概ね同じである。

「……そういうことならわしから両家に使いを立てよう。高家の場所は?」

「ここに」

 魏遼は喉を掻き書付けを手渡す。一読した魏徴が「あの家か」と呟いた。

「知っている家だったか」

「行ったことはないが、名前はな。東市でも質のいい絹を扱っていると評判がいい」

 魏徴が知るくらいならしばらく商売も安泰だろう。関家はよい妻を得た。

「ところで流卿」

「はい」

「そのわざとらしく背後に隠した物はなんだ」

 今の位置なら魏徴からは見えないはずだが、入ってくる時に気づいていたのだろう。目と耳が衰えるということがない御仁だ。

「媒酌人への御礼を先にと長慶から。玄成どのはどうせ金なぞ受け取らぬだろうし」

「当然だ」

 鼻息荒く魏徴が断ずる。その前で魏遼は一本の画を引っぱりだした。

「あの若者が信のおける者だから引き受けたのだ。高い物なら――」

「高くはないし持っておくべきだぞ。いるだろ、汪河人の新作」

「ぐ……」

 魏徴の口が〈一〉の字になる。魏徴の身分からすれば、汪河人の画はけして高くはない。

「そもそもあれにこの画家を教えたのは、流卿、お前だろうが……」

「なので、こちらのが絶対いいと長慶にも教えておいた」

 汪河人の絵を好んでいるのは、魏徴よりもその奥方だ。魏徴が不在の折には奥方と話をしているのもあって、夫の魏徴よりも他人の魏遼の方が奥方の趣味には詳しい。夫婦ともに贅沢をする方ではないが、高官の家として保つべきものというのはある。そういった際、多忙な夫や子供たちに代わり、夫人に付いてあれやこれやと助言し手配するのも魏遼だ。

 魏遼はまだ巻かれたままの画を魏徴に手渡す。

「正真正銘の新作だ。なんせ当人が目の前で描いていたものだからな」

 顰め面のまま、魏徴が絵を広げる。その顔が「ほう」という一声とともに一気に和らいだ。

 描かれているのは黒猫だ。画布の上部に小さな満月、下部にのびをする黒猫。それ以外には何もないがゆえに、かえって色々と想像ができる。

「良い猫だ」

 〈良い絵〉ではなく〈良い猫〉という言葉にこそ、この絵の真髄はあるだろう。細かい筆致で丁寧に描かれたふわりと柔らかそうな艶のある毛並、くつろいだ姿勢。ああ、こういう猫はいるなと、見た者誰もが記憶の中の猫を思い浮かべるような、そんな猫の絵だ。

「これは、今回の猫か?」

「おそらく」

 のびをする黒猫の右足。その先が白い。

「面白いものだ。かの猫が〈百鳴邸〉に来なければ、一組の夫婦ができることも、わしが汪河人の絵を手に入れることもなかったわけだ」

 魏遼は喉を掻く。治り際は一際痒くていけない。

「ひょっとしたら偶然ではないかもしれない」

「誰かの意図があったと?」

「意図とか企みというほど悪いものではないと思うが」

 喉を掻く手を止め、魏遼は茶を飲む。もうとっくに冷めていたが、この季節なら悪くはない。

「怪我をした黒猫は運良く富んだ家に拾われ、手当てを受けて回復した。猫なりの義侠心から、自分を助けてくれた人間の望みを叶えてやりたかったとしたら」

「古来から猫の怪異は聞かぬことでもないが」

「祟るくらいなら恩義を感じることもあるだろう。高三娘はよく太白を話し相手にしていたそうだ。上元の日の、猫を連れた男のことはまず間違いなく話していたろうな」

 ある日黒猫は再び外に出る。〈猫を連れて歩く人間〉を探して。

 人が人に訊いてまわるように、猫は猫に訊いて回る。夜でもおかまいなしだ。そして〈百鳴邸〉のことを聞いたのかもしれない。あそこは外からも猫が来る。

「太白からすれば、『どうして早く会わないんだ』とじりじりしていたかもしれないな。人間とはなんともまどろっこしいものだと」

 関若が高家に出向いた折、真っ先に彼を迎えたのは太白だったという。次いで、太白を追いかけてきた高三娘が門に立つ関若を見て泣き崩れた。

 涙を流す女の手を取り、男は求婚する。女は頷く。そんな二人の間、一匹の黒猫が自慢げに尾を立てて座っていたという――。

 魏徴が黒猫の絵を見ながら言う。

「月下氷人ならぬ月下氷猫というところか」

「こういう怪異なら世も平和でいいんだが」

「まったくだ」

 二人は頷き、互いに茶を注ぎあった。



 後日。汪河人の〈黒猫図〉は彼の作の中でも特に人気のものとなった。

 曰く、掛けておけば失せ物が見つかる、或いは良縁に恵まれるといわれ、偽物も多く出回るほどとなったが、画家は気にせず、求めに応じて黒猫を描いた。

 汪河人は普段は全身黒い猫を、特に気に入った人物には右足の白い黒猫を描いたといわれるが――足先が白い猫の絵を見た人はそうそうおらず、「夜に黒猫を探すが如し」と、さらに汪河人の画名を高らしめることとなった。



 夜に人を探した黒猫はそんなことなど露も知らず、〈百鳴邸〉でのんびりと暮らしている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

百鳴邸の主 四號伊織 @shigou_iori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る