焦がれて呑んで甘えて
冥府軍にいた頃よりはマトモに有給が取れるようになった気がする。
「コンプライアンスだのワークライフバランスだのとは無縁やったしなぁ」
此岸で流行りのカタカナ言葉を口にしながら、度会は日没後で薄暗くなった冥府の庁舎を歩いていた。明日は非番で、事務仕事を片付け終えたため、帰宅してさっさと寝ようとしていた。
自宅は冥府から支給されている。軍にいた頃、それなりに出世していたため、独り暮らしには広すぎる敷地面積を誇る平屋に住んでいた。
そう遠くないため、いつも神速は使わず歩いて帰っている。
庁舎内は土足厳禁。下足箱から草履を出して突っかけ、外に出る。
「おーう! 残業か、正宗よ!」
「……」
威勢の良い声を耳にした瞬間に隠形を開始。だが。
「おい、隠れても無駄じゃとわかっていて何故やる」
神速で逃げるよりも先に霊気を探知され、隠形しているというのに的確に首根っこをむんずと掴まれ、思い切り引っ張られる。
「おえっ、死ぬ! 窒息で死ぬわ、殺す気かアホ!」
「フン、逃げようとするからじゃ。戯けめ」
自分よりも遥かに小柄でありながら、その腕っぷしは男のそれと対等。ギラギラと光る眼には強者の自信と誇りが詰まっていた。
スラリと長い手足。女ウケしそうな中性的な美貌。紺色の着物を纏っているが、動きやすさを重視しているためか膝上丈の袖なしに改造してある。此岸で購入してきたスポーツ用のレギンスやインナーを身に着けているため、一見露出が少ないように見えるものの、程よい筋肉がついた四肢は見事なラインを描いていた。
飛燕恭子。度会の腐れ縁であり、元同僚であった。
「俺もう軍関係あらへんよって、絡まんで貰えますかァ? 飛燕中将サマ」
首根っこを掴まれながらも、態とらしく階級を付けて呼べば、殺気に反応する間もなく顔面を殴られる。理不尽だ。
「痛ッたァ……オイ、パワハラで訴えるぞ。つか、パワハラどころじゃあらへんな。れっきとした暴行罪や!」
「フン、この此岸かぶれが。小賢しい単語に私が乗せられると思うか? お姫から色々と聞いておるぞ。今宵は逃さん。諦めて付いて来い!」
そのまま文句も何もかも無視されて引き摺られ、近くの居酒屋に連れ込まれる。昔から三人で使っている店だ。
「あーあー、抵抗するだけ無駄なのになんで抗うかな。ほら、こっちだよ」
先に着いていたのか、座敷席で烏龍茶を飲みながら斎藤が呑気に手を振ってくる。
「薫、おるなら助けに来んかい! 呑気に茶ァ飲みやがって!」
「いや、僕もどちらかと言えば今回は恭の側だしさ」
あのお姫様のこと、とうとう我慢効かなくなって襲ったんだって?
さらりと投げ掛けられた質問に、度会は噛み付くように反論する。
「何がどう捻じ曲がってそんな話になった!? 襲ってへんわ、ボケェ!」
それを聞いた斎藤は驚くことなく、むしろ納得した表情で頷きながら漬物を齧る。
「あ、やっぱりそうなんだ。やめてよ、恭。僕を呼び出すために話盛るの。盛らなくても、非番ならちゃんと参加するのに」
「いやぁ、面白おかしくしようと思ったらやり過ぎての。すまなんだ」
「薫やのうて、俺に謝れ!? 名誉毀損やぞ!」
度会の叫びは無視され、勝手に注文やら何やらと進められる。二人が雑談をする中、度会は苛立った様子で
「――して、お姫の様子はどうじゃ」
動揺していた姫巫女が落ち着いたのは恭子のおかげであると素直に認めていたため、度会は無理矢理酒に付き合わされる苛立ちを引っ込めて神妙に答えた。
「お前のおかげで一応は調子戻ったみたいや。その点は感謝しとる。……あれは、俺がやり過ぎたんや」
「恋い焦がれた女の子の専従者になって、ますます焦る気持ちもわからなくはないけど、彼女がどういう子か最もよく知ってるのは正宗だろう? らしくないね」
「……お姫さんの前じゃ、俺はいつもらしくないんやろな」
マグロの刺身を摘みながら、度会は自嘲的に嗤う。半ば思考が現実にないのか、一向に箸で摘んだマグロを口に運ばず、小皿の上で動かし続けている。そのため、赤い切り身が醤油と
一方で、醤油と山葵まみれのツマを大量に口に放り込んで咀嚼しながら、恭子がケッと吐き捨てた。
「なーにが、らしくないじゃ。腑抜けたことを言いよって。お姫の話を聞く限り、正宗貴様まだ肝心の本音を伝えておらんのじゃろう。お姫は中途半端に匂わすだけ匂わされ、自身の信念をどこの馬の骨ともわからん男に揺るがされ、意志の弱い自分が悪いと苦悩を強いられておる。哀れでならんわ。こんなヘタレ、さっさと拒んで左遷させてしまえば良いものを!」
「恭。ハイペースだよ」
恭子が既に空にした銚子の本数を数えながら、斎藤が短く窘める。
「正宗。正宗が何を躊躇っているのか知らないけど、君が望む瞬間を待ってたら、お姫様が辛いと思うよ」
恭経由とはいえ話を聞く限り、脈は十分あるんだろう?
なら何故さっさと腹を括らないのかと斎藤が暗に問う。
度会の性格なら、ここまで確信を持てばすぐに動くはずだ。それなのに、何故躊躇して中途半端な関係を続けているのか。
斎藤は疑問でならなかった。
度会は塩気と辛味が割増になった切り身を渋い顔で飲み込み、呟くように答える。
「……俺が決めたらアカンのや」
お姫さんが全部受け容れるまで、俺は何が何でも本音を言うたらアカン。
「――――今のお姫さんには、まだまだ時間が必要なんや」
何か、ある。
ただの色恋沙汰では済まない何かがある。
そう、斎藤は悟った。
静かに語る度会の口調には、将校時代の冷徹さが滲んでいる。まるで、あの頃に鍛え上げた理性で自分の心を封じ込めているかのようだ。
しかし、恭子はそうは思わないらしい。アホくさいと一蹴した。
「要は怖いんじゃろう。お姫に拒まれることが」
何が何でも愛し抜く。
「口説くだけ口説いておきながら、その覚悟が決まってないんじゃよ、この戯けは」
腹が決まっておれば、時間云々言わず、さっさと自分から開示しているじゃろうに。
「正宗。お前は優しいのではない。優しいフリをしているだけじゃろう」
隠していた弱さを秒で見抜かれた度会は、溜め息と共に清酒を呷る。
「ま、この私の格言を胸に刻んで呑むが良い。付き合うぞ」
「呑むが良いって、支払いは僕か正宗だろう……」
斎藤が片手で目を覆いながらボヤく。
腐れ縁三人の夜は、いつも通りに更けていく――はずだった。
***
意識が朦朧としている。いつの間に俺は横になったんや。どうやら座布団を二つに折って枕にしていたらしい。
ぼんやりとする頭を覚醒させようと、手頃なところに置かれた水を飲み干した。
徐々にハッキリしてくる意識。匂いで、ここが自宅の居間であることを悟る。そういえば、結局居酒屋の代金は薫が払って、解散になったんやったか。しっかり自分の足で帰ったところまで思い出す。その後、酔いが回って、そこからの記憶がない。仕事着のままやし、寝間着に着替えて寝床に入る気力がなかったみたいやな。
しかし、それにしても自宅にしては甘い匂いがするような。
「起きましたか?」
日常的に耳にしている心地良い声音。だが、それはいつもよりもフワフワとしていて、甘い響きを孕んでいた。
度会の酔いが一瞬で覚める。
目の前にペタンと座り込んでいる姫巫女。両手で酒の入ったグラスを持ち、コクコクと美味そうに飲んでいる。グラスの中身は確か、先日此岸で買ってきた甘い果実酒だ。
「お、お姫さん!? どういうこっちゃ、なんでうちに」
「お酒好きならおいで~って電話してきたのは度会殿じゃないですかぁ」
それを聞いて、酔った勢いで姫巫女の端末に電話したことを思い出す。姫巫女は最近、人付き合いが増えてきたからと、これまで綾芽が管理していた通信端末を自分で持つようになっていた。
居酒屋でずっと彼女のことを吐かされたこともあり、つい電話してしまったんだろうが、それにしてもである。
「いやいやいや……酔って電話した俺が百悪いとしても、酔っ払いの戯言、真に受けたんか!? つか、よく来れたな……待てよ。綾芽ちゃんはどないした!?」
「自室で隠形して、度会殿の霊気を探って来ましたぁ」
「っ……いやほんま規格外やろ、お姫さん」
隠形は自身の存在という概念を隠す。無に近い状態にするのだ。故に、隠形も達人級になれば家屋の壁など平気で擦り抜けられる。
つまり、姫巫女は社の自室から度会の屋敷まで、草履を履くこともなく直でやってきたということになる。
そして、そうやって訪ねてきた姫巫女に酒を振る舞って、自分は先に寝てしまったと。
色々と、頭が痛くなってきた。
「綾芽には、ちゃんとメールしたので大丈夫ですよ?」
「待て。それ俺にメール来るやつやん」
懐に入れている端末を確認する。
貴方を信じて朝まで連れ戻しはしません。
姫の身に何かあれば、斬ります。
あの綾芽が朝まで待つとは何事か。
それに、姫巫女はどんなに寝惚けても、男の家にホイホイやって来て、寝酒を呑もうとする娘ではないはずだった。
度会はご機嫌で果実酒を呑んでいる姫巫女に訊いてみる。
「お姫さん、何で俺の誘い断らんかった?」
姫巫女がピクリと反応する。手にしていたグラスを卓袱台に置いて俯いた。正座を崩しているせいか、裾から白い脚が覗いている。何か思い詰めた表情でグラスを見つめるその姿は、いやに扇情的で目に毒だ。そして、先程までのご機嫌さは鳴りを潜め、姫巫女はか細い声で答えた。
「……母上が、亡くなった日の、夢を見て」
度会が顔を歪めた。よりにもよって、あの日のことを。
「辛くて……さびしく、なって」
誰かと一緒にいたいと思ったら、電話が来たから。
度会は片手で自らの顔面を覆う。自分は最悪のタイミングにやらかしたらしい。
これは、報いなのだろうか。
「わたらい、どの」
避けねばと思ったのに、避けられなかった。
夜着に袿一枚羽織っただけの柔らかい肉体が縋りついてくる。悪夢に怯えて震える様は子供そのものだが、生憎と姫巫女の肉体は子供のそれではない。
酒で熱を増した身体に擦り寄られ、度会は眉間に深く皺を刻んで奥歯を噛み締める。絶対に手を出したらいけない。ここで抱けば、間違いなく自分達の関係性は修復不能に陥るだろう。
だが、寂しさと不安をぶつける対象として頼られることまで拒むのは酷だった。突き放すことができず、片腕で肉の薄い肩をそっと抱いてやれば、姫巫女は震えながら度会の胸元を掴み、首元に顔を押し付けてくる。
拷問とはこれを言うのだろう。
「報いにしたって、これはキツいわ……」
並の男なら、とうに理性が崩壊しているところだ。
「お姫さん、落ち着き。な? ええ子やから」
「……あの日」
度会がやんわりと離れるよう促すも、何故か姫巫女が唐突に語り出した。
「私、母上が亡くなるのが嫌で……拒もうと、して」
度会は何を思ったのか目を伏せ、黙ってその言葉を聞いている。
「誰かに、止め……られ、た?」
「っ……」
「ずっと……思い、出せない。……怖くて、寂しくて、悲しくて、辛かった――ことだけ、覚えてる」
「姫」
深い声音が姫巫女を呼ぶ。
姫巫女が顔を上げて、目の前にある泣きそうな男の顔を真っ直ぐ捉えた。
「……わた、し」
何を、忘れているの?
姫巫女の眦から、つうっと一筋の涙が零れる。
心と脳で処理できる感情や記憶の許容範囲を超えたのか、電池が切れるように姫巫女は意識を失った。
女一人の体重を預けられても、度会には問題ない。しっかりとその身を抱えている。
だが、度会と姫巫女と同様に悲痛な面持ちをしていた。俯いて、絞り出すように呟く。
「やっぱりなァ……」
まだまだ、時間が必要や。
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