姫巫女の友
「これだけは覚えといてや。――――俺はお姫さんのこと、ほんま大事に思ってるんやで」
あれから度会の態度が変わることはなく、今まで通り姫巫女に優しいままだ。少し油断できないところもそのまま、姫巫女が吐き出した本音に付け込み篭絡して手を出そうとする素振りもない。本当に、何も変わらない。
だからこそ、姫巫女は身に沁みて理解していた。自分から何か行動しない限り、この焦燥のような落ち着かなさは解消することはないのだと。
姫巫女は先日の一件で嫌でも、度会の心を察してしまっていた。
「……」
縁側に腰掛けて、足をぶらぶらさせながら物思いに耽る。
そんな主の姿を廊下の端から見守っていた綾芽は複雑な表情を隠せない。度会が姫巫女に何を言ったのか、完全に察せなくても大まかに推測はしている。
綾芽は姫巫女が幸せならばそれで良い。
そして、姫巫女の心が徐々に度会へと傾いていることも、一番近くで見ているからこそ気付いていた。だけど、姫巫女自身が自分に芽生えつつある気持ちを拒絶している。だから、度会は核心を突き付けず、敢えて中途半端に内心を晒して一旦身を引いたのだ。
綾芽は目を伏せた。姫巫女が望むなら度会は割と良い相手だろう。実力は十二分にあるし、姫巫女を想う心は恐らくもう自分を優に超えている。
問題は姫巫女だ。姫巫女には、自身と向き合う時間がまだまだ必要だった。
綾芽は虚空を見ている姫巫女に近付き、傍らに両膝をついて通信端末を差し出した。此岸のスマートフォンを彷彿とさせる機器で、画面にはメールの文面が表示されていた。
「――姫様」
「ん? 何、綾芽」
「
「!」
冥府から支給される通信端末は霊力を動力源とした特殊なもので、姫巫女は殆ど使うことがなく、
「本日は非番だそうで。どうされますか? ……ご気分が優れないようでしたら、お断りいたしますが」
姫巫女は少しぼうっと端末の画面を見ていたが、ゆっくりと目線を上げて綾芽に問うた。
「綾芽は、どう思う?」
「……」
「会いたいけど、こんなぐちゃぐちゃな気持ちで
「では、
不安そうな姫巫女に綾芽は柔らかく微笑む。
「今の姫様だからこそ、お会いするべきかと」
「そう?」
「姫様の悩みを、あの方はきっと和らげてくださいます」
「でも、迷惑なんじゃ……」
「何を仰いますか。友に頼られない方が、余程寂しいことと存じます」
綾芽の進言に、姫巫女も確かにと納得する。こういう悩みこそ、同性の友達に相談するものか。
「では、お会いしたいとお返事を」
綾芽から端末を受け取った姫巫女は、先程よりも少し晴れた顔で返信を打っていった。
***
「あのボケがすまんのぅ、お姫や! 大丈夫か!?」
返信の中に悩みの概要を書きはしたが、まさか来訪早々に抱き締められて謝られるとは思ってもいなくて、姫巫女はアワアワと慌てた。
「お、お
「あのボケめ……拗らせすぎてタガがぶっ飛びおったな。今度呼び出して締め上げ……いや、いっそ家を襲うか。あの色ボケめが。可愛いお姫がこんなにも苦悩する羽目になるとは許せん」
姫巫女の制止は耳に届いていないらしく、何やら物騒な企てを始める始末だ。
「お恭姐様、度会殿は悪くありませんから!」
「――――ほう」
姫巫女が咄嗟に口にした言葉に、ぴたりと恭子が動きを止めた。興味深そうに目を細め、腕の中で必死に度会を弁護する姫巫女の様子を窺っている。
「……飛燕様。玄関先でする話でもないでしょう。奥でゆっくりとお話しになっては」
「それもそうだな。すまんの、綾芽」
「いえ」
「では中でゆっくり聞くとするか」
姫巫女を抱き締めていた腕を緩め、そのまま姫巫女の肩を抱いて廊下を歩いていく。
冥府軍の中でも秀麗な美貌を誇る女将校である恭子は、軍部の広告塔であると同時に女性からの人気が高い。一応は軍らしくお堅いはずの広報には、連日女性ファンからの手紙が山のように届くとか。しかも、一通一通にきちんと目を通して、丁寧な返事を
そんな美女は、この姫巫女のことを実の妹のように可愛がっていて、非番の日に遊びに来れば、目のやりどころに困るような溺愛っぷりを見せる。
姫巫女の私室に入ると、恭子は用意された座布団の上に胡座をかいて、行儀良く正座した姫巫女に改めて問う。
「で、正宗のアホが自制心を放棄して、お姫を困らせているのじゃろ? お姫自身は彼奴をどう思っている」
単刀直入な質問に、姫巫女も思わず本音が漏れた。
「度会殿は……優しい人です」
「ほう」
「少し油断できないところもありますが、あの方は私が本気で嫌がることをしたことがありません。専従だからではなく、本当に私のことを大切にしてくださっていると感じていますし、それはとても嬉しいです。だから、度会殿のことは……」
「何じゃ。答えはとうに出ているではないか。何に悩む必要がある」
恭子が瞬きしてキョトンと小首を傾げれば、姫巫女は膝の上で拳を握り締めた。
「……私は、自分が
恭子は口出しせずに続きを目線で促し、胸の内を全部吐かせてやることに集中する。
「私は母上のように天命に生きたいんです。母上は私よりも立派で、すごくて、最期まで強くて。それなのに……私のような未熟者が誰かに惹かれるなんてッ!」
「……そうか」
これは難儀な性格だなと恭子は思った。
厳格や謙虚を通り越して、自分を過度に貶めてしまっている。確かに、この娘の母親は優秀だった。だが、それは今の姫巫女だって同じ。とうに母親と同じ実力を身につけている。
(その事実を認められぬのは)
母親の死を未だ乗り越えられていないせいだろう。
そして、正宗に惹かれることを認められない、もう一つの理由はきっとこの娘の意識の外にある。
(正宗、どうする気じゃ)
この娘が自身に雁字搦めに掛けてしまっている、心の鎖を外すのはなかなかに大変じゃぞ。
恭子はそんなことを思いつつ、姫巫女にそっと近寄ってゆっくりと抱き締め、あやすように背を叩いた。
「正宗は待つと言ったのじゃろう?」
「……はい」
「なら、待たせておけば良い。あまり気にし過ぎるな。無理に返事をする必要などないぞ」
「え、それはちょっと」
「申し訳なく思うか?」
コクリと頷く姫巫女に、恭子は肩を竦めてみせた。
「あのアホがただ待つだけで済むわけなかろう。隙あらば、お姫の心を掻っ攫おうと仕掛けてくるじゃろうし、それに彼奴はああ見えて純粋で辛抱強い男じゃ」
じゃから、お姫が嫌でなければ今まで通りに接してやってくれ。
「お姫の心の整理がついた暁に、きちんと答えを示してやるが良い」
姫巫女はその言葉に応じつつも、ふと疑問を覚えた。
「あの、さっきから度会殿のこと名前で……?」
「そりゃそうじゃろうて。彼奴は私の元同僚じゃぞ」
「あ、そういえばそうでした」
度会が姫巫女専従になるまでは、軍で将校をしていた話は聞いたことがある。
「ま、今でも偶に呑みに行く仲ではあるがな」
「そんなに仲良しだったんですね」
「うむ。じゃから、もしもあのアホに嫌なことをされたら、遠慮せず私に言え。遠征していようが駆け付けて、あの腹立つ顔面に鉄拳を食らわせてくれる」
「そ、それはさすがに可哀想……」
そう控えめにツッコむ姫巫女の表情は、思い悩んでいた今朝方とは異なり、すっきりとしていて、いつもの朗らかさを取り戻している。
「さて、折角来たんじゃ。菓子でも食うかの」
「そうですね、姐様。――綾芽、綾芽」
茶と菓子を用意しようと、別室に控えている補佐を呼ぶ姫巫女を眺めながら、恭子は静かに目を伏せた。
(あとは、正宗次第じゃな)
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