禊と血

 早朝。

 姫巫女は定刻よりも早く目覚めて庭に出ていた。


「――姫様」


 主の起床に合わせて、補佐たる綾芽も寝間着姿のままだが、姫巫女の傍らに控えた。


「ごめんなさい。起こしてしまって」

「いえ。――――本日に、ございますか?」

「……そう、ね。今日やった方が良いわ」


 そう言って空を見上げる。

 姫巫女以外の者の目には普通の朝焼けに見えるのだろう。だが、姫巫女にはそうは見えていない。

 黒く澱み、歪んだ天。この身を形作る魂魄にまで響き渡る、不吉な唸り。

 姫巫女のお役目。

 今日は、それに専念する日だ。



 ***



 彼岸の姫巫女が負う役目の最たるものは、禊である。それは此岸と彼岸、両方の世界の穢れを浄化する儀式だ。

 姫巫女は代々その魂で世界の穢れの蓄積を感じ取り、天変地異が起こる前に禊をし、世界の平和を守ってきた。

 その頻度は世界情勢によるためマチマチだが、大体は月に一度あるかないか程度である。

 禊といっても、そんなに大仰な支度はない。大切なのは姫巫女の魂魄があることであり、他に道具は大して必要としてないのだ。


「さ、あれは大変だから午前中に済ませてしまいましょう」

「はい」


 朝食を終えてすぐに禊の準備に入ったが、姫巫女はそこで一つの事実に思い至る。


「そういえば、度会殿が就任してから禊をするのは初めて?」

「そう言われてみればそうですね。ですが、午前は冥府で会議があるそうで、こちらには早くても昼前くらいに顔を出すと」

「そう。……あれは、傍から見ていてあまり見ていて気持ちの良いものではないし、不在は幸運かもしれないわね」

「……そう、ですね」


 そんな会話を交わしながら、綾芽は奥の間から一振りの刀を取ってきた。姫巫女の愛刀、それは神刀である。白の柄に白の鞘。純白の刀は姫巫女が持つと神々しさすら感じられるものだ。


「姫様」

「さて、始めましょうか」


 服装はいつもの巫女装束だが、少し違う点は手首と足首に鈴を付けていることだろう。動くたびにチリチリと鳴るそれは、姫巫女の霊力に反応する特殊な道具だった。

 舞台は社の庭。裸足のまま地面に降り立つと、湿気でしっとりとした感触に擽ったさを覚える。天を仰げば、どろりとした霊気の濁りが感じられた。

 姫巫女は腰に差した刀を抜いて構え、刀身に霊力を集中させた。それに合わせて身に付けた鈴が絶え間なく鳴り響く。


「――魂魄解放」


 普段は封じている霊力を言霊一つで解放。全身から溢れる霊力を使って上空に舞い上がった。空からは冥府も、街並みも、三途の川もよく見える。最果ての此岸は目で見えないが、生者の気配でその存在を感じられた。

 ヒュンと音を立てて刀を振り、姫巫女はその切っ先を自分の胸元にピタリと当てた。

 この瞬間は、いつも嫌になる。


「ッ――!」


 一呼吸後に、姫巫女は躊躇せず刀で自らの胸を貫いた。正確に、心の臓を貫いている。刹那、姫巫女の生気が霊力に変換され、肉体から一気に放出された。

 鈴が莫大な霊力に煽られて大きく鳴り響く。その音に乗って、此岸と彼岸の隅々まで姫巫女の清浄な気が満ち、溜まりに溜まった穢れを打ち祓っていく。

 誰も気づかぬ間に、一人の女がその命を使って世界を守る。

 禊。それは、姫巫女の命を削り取り、世界の浄化を完遂する儀式だ。

 刀で胸を貫いた衝撃で、既に姫巫女は意識を失っていた。浄化は姫巫女の魂魄が本能的に完遂するため、当人の意識の有無は関係ない。

 儀式を終えると、姫巫女の身体が勝手に動き、突き刺さった刀を無造作に引き抜いた。そして、魂魄が再び封印状態になり、空に浮いていられなくなった姫巫女の体躯は自由落下を始めた。


「姫様!」


 綾芽は辛かった。お役目とはいえ、大切な主の命が削られる様なんて見たくなかった。だが、これが姫巫女の存在理由なのだ。

 庭から跳躍して社の屋根に上がり、飛び上がって落ちてくる身体を受け止めようとする。

 だが、それよりも早く黒い何かが姫巫女の身体を掻っ攫った。


「っ!? ……度会、殿」


 いつの間に来ていたのか。

 綾芽よりも早く姫巫女の身体を受け止めた度会はこの上なく悲痛な面持ちで、口から血を吐き、胸の穴から大量の出血をする姫巫女を抱き締めた。



 ***



 朝起きて、今日が最悪の日だと察した。

 霊気が澱み切っていて、姫巫女は確実に今日禊をすると確信する。この感覚は常に神経を尖らせていれば自然と身に着くものだが、冥府でも霊気中の穢れを敏感に把握できる者は少なかった。

 予定にあった会議については、多少交渉に難航したものの、半ば脅して後日に回させ、その後すぐに社に急行する。

 だが、気が澱んでいるということは、悪しきものも沢山湧くということ。道中襲ってきた連中は片っ端から斬り伏せていたが、数があまりにも多く到着に時間が掛かってしまった。

 神速で険しい道を駆け抜けていると、急に周辺の霊気が浄化されるのを感じ取った。


「クソがっ」


 間に合わなかったと悟る。

 上空に目をやれば、姫巫女らしき人影に細いものが突き刺さっているのが見えた。最悪の気分だった。回避できないことは最初からわかっている。自分がいたって、姫巫女は自らに刀を突き立て命を使う。それが定めだ。

 それでも、せめて傍にいたかった。姫巫女から建前を取っ払い、本音を引き摺り出し、受け止めたかったのだ。それをするために、自分は姫巫女専従になったも同然だというのに。

 度会は社の玄関に回らず、そのまま庭の方へと回り込む。

 禊の最中は、恐らく姫巫女の意識がない。そのため、門から入らなければ社の結界に阻まれるだろう。いつもは、来訪を察知した姫巫女が、無意識に結界を調整して度会の行き来を自由にしてくれているのだ。


「強行突破、上等や」


 塀の上に乗ろうとしただけで、結界が作動するのを霊気の動きで察する。だが、度会は手で結界に触れ、その構造を瞬時に推測、半ば無理やり自分の霊力をぶつけて相殺、結界に霊力の波長を合わせて侵食し、スルリと結界を壊すことなく突破した。

 塀の上に乗ってしまえば、あとは簡単。思い切り跳躍して、落ちてくる姫巫女を受け止めるだけだ。

 綾芽も屋根の上から同じことをしようとしていたが、悪いがこちらの方が速い。

 落下する姫巫女の身体を抱き止めると、酷く冷えていた。死体のように冷え切った身体は、霊力を極限まで消耗している証。

 更には、胸の傷口からどす黒い血液が流れ出していて、辛うじて生きているからか、呼吸をしようと半開きになった唇の端からも血を零していた。


「お姫さん、しんどかったな……」


 自分の声があまりにか細く、囁きにしかならなかったが、これ以上声を出したら叫びそうだった。

 姫巫女専従になって、ずっと覚悟はしていたが、この姿はあまりに惨い。

 この姿を見ていると気が狂いそうで、度会は一旦落ち着こうと閉口し、瞼を伏せる。自分の中に渦巻くどうしようもない激情の遣りどころはどこにもなく、姫巫女の身体を強く抱き締めるしかなかった。


 ***



 禊によって衰弱した姫巫女の身体は何もせずとも蘇生し、傷も綺麗に癒える。魂魄本来の力を解放すると、寿命を削る代わりに、肉体の損傷は勝手に癒えていくのだ。


「――ほんま、腹立つ話やな」


 綾芽は姫巫女を抱えて離さなかった度会に何を思ったのか。


「これまでの経験上、昼餉時には全快されるはずです。昼餉の用意をしてきますから、その間、姫様を頼みます」


 と、言い残して厨に消えた。

 度会は少しずつ姫巫女の顔色が血の気を取り戻し、呼吸が安定していく様をずっと見守っている。

 そして、微かに呻き声を上げて力なく閉じていた瞼が震え、ゆっくりと持ち上がる。黒曜の瞳を覗き込み、度会は泣きそうになりながら努めて普段通りを装って問い掛ける。


「……っ、気分はどうや?」


 姫巫女はまだ寝惚けているのか、とろんとした目で度会の顔を見ていたが、次第に思考がハッキリしてきたらしく、驚いた顔をして口を開いた。


「何故、度会殿がここに? 冥府で会議では?」

「お姫さんが今日禊する気がしてなぁ。お偉方脅して、ほっぽって来たんや」

「え、それはまずいのでは……」

「かまへん、かまへん。俺こう見えて世渡り上手やねん。多少の無茶通すくらい、お茶の子さいさいや」

「何ですか、それ」


 クスクスと笑う姫巫女はいつもと変わらないように見える。だが、先程まで瀕死だったこともまた事実だ。

 度会は泣き笑いのような歪んだ笑みを浮かべて、姫巫女の身体を起こしてそのまま抱き締める。

 姫巫女は状況が呑み込めず、目を白黒させた。


「度会殿?」

「堪忍な。俺、間に合わへんで」

「何がです? むしろ、こんなに早くいらしたことに驚きですよ」

「辛かったやろ。あんな痛い目ェ遭って」

「……度会殿。それが私の仕事ですよ」


 度会が何を思っているのか理解した姫巫女は、言い聞かせるように告げる。


「命を削って世界を守る。それが、姫巫女の魂魄が背負う役目。天命です。私にはあれが当たり前のことで、度会殿がそこまで悲しむ必要はないんですよ?」

「……あんなぁ、そうは言ったって命削ることに何の抵抗も、虚しさも、悲哀も覚えんほど、お姫さんは機械的な人間か? ちゃうやろ?」

「……」


 姫巫女はすぐに否定できなかった。数十年前までは、彼の言う通り自分の役目に対して、暗い感情を抱いていたから。

 度会は姫巫女の薄い肩に顔を押し当てて続ける。


「俺はお姫さんの本音が聞きたいねん。今更建前なんか俺に言わんでくれ。しんどいならしんどいって言うてええんや、な? ……ええ子やから」

「――――ぁ」


 駄目だ、と思ったのに涙が溢れた。身体が勝手に泣き出し、慟哭する。

 姫巫女は度会の身体に縋りついて、駄駄を捏ねる子供のように泣きじゃくった。


「せやな。辛かったな。泣いてええんや。痛いなら痛いって言うてええんやで」


 嗚咽で何度も跳ねる背中を撫でる。

 度会は姫巫女が泣き止むまで、これまでの頑張りを認め続け、ずっと背中を擦り続けていた。



 ***



 姫巫女は感情が落ち着き始めると、度会に抱き着いている自分の状態にようやく気付いた。嫁入り前の身で何をやっているのだろうと自分を叱責し、鼻を啜りながら離れようとする。


「申し訳ありません。こんな、見苦しい……」

「何言うてんの。泣いてええ言うたのは俺やで」

「でも、これは」


 度会の胸から顔を上げると、完全に涙やら何やらで彼の服をぐしゃぐしゃにしてしまっていた。


「っ、ごめんなさい! 服が……」

「せやから気にせんでええ。俺がこうしたかったんや」


 頭を撫でられ、背中を擦られ、そんなこんなで甘やかすことが上手すぎる度会から離れられず、姫巫女はどうにか自分を強く保たなければと眦を吊り上げた。


「いけません! 度会殿が構わずとも、私にとっては大問題です!」

「なんでや。俺がええ言うてるのに、そこまで肩肘張る必要あらへんやろ」

「だって、私と貴方は家族でも夫婦でもなければ、恋人ですら――!」

「……ほな」


 度会が姫巫女と視線を合わせて問う。


「お姫さんの伴侶にしてくれるかぁ?」


 そしたら、お姫さんの名前も教えてもらえるしなぁ。

 姫巫女は揶揄うなと突き飛ばしたかった。以前なら、すぐ突き飛ばしていただろう。だけど、度会の肩に手を当てただけで、押し退けられなかった。

 その反応に度会は軽く瞠目し、柔らかく目を細める。


「……案外、悪くないやろ?」


 悪魔の囁きだ、と姫巫女は思った。

 自分はこんな感情を抱くべき存在ではない。

 なのに、拒絶できなかった。

 理性の叫びを無視して、目前の甘い優しさに縋ろうとする自分の心が情けなかった。

 そして、どうにか言葉だけは絞り出す。


「駄目、です」

「何で?」

「私は此岸と彼岸を守る存在です。……こんなの、いけません」

「……」


 度会は溜息を吐き出しそうになったが、飲み込む。姫巫女は大真面目に、その理屈に従っているのだ。溜息一つで片付けたらいけない。


「なら、お姫さんの両親はどうやった?」

「え」

「話には聞いとるで。……見合いやのうて、恋愛結婚やったてなぁ」


 姫巫女とはいえ、別に恋愛してはいけない訳ではない。何なら、その特殊な魂魄を受け継ぐ器たる子を産む必要がある。

 見合いか、自らの望む相手を迎えるか。それは姫巫女自身に委ねられる。冥府の見解では、子さえ産まれたらそれで良い。父親が誰であれ、姫巫女の血脈が絶えなければ文句はないし、イチャモンをつけることもない。冥府は合理主義の組織だ。

 度会はそれを知っているから、姫巫女の考えが理解し難い。どんなに拒んでも、いつかは夫を迎えるのだ。なら、見合いよりも当人が心から好ましいと思える相手の方が良いだろうに。その相手が自分になるかどうかは未知数としても。


「どんなお役目背負ってても、誰かに惚れたらアカンって訳やないやろ」


 姫巫女の肩がピクリと震える。そして、暫しの沈黙の後、姫巫女は細く呟いた。


「私は――天命に誠実でいたいんです。いつか誰かに娶られるとしても、その時まで、その瞬間まで、天命に忠実でありたい。……色恋に現を抜かすなんて、許されません」


 度会は頑なな顔でこちらを見据える姫巫女に手を伸ばした。泣いて赤く腫れた目元を指で撫でる。


「やめてください。私は」

「……わかった」


 度会が目を伏せて静かに零すと、姫巫女は吐きかけた拒絶の言葉を止めた。そして、酷い言葉を言ってしまう前で良かったと反射的に思ってしまい、勝手に罪悪感を募らせる。もう、姫巫女の心は既に矛盾だらけだ。

 そんな姫巫女の心を察しているのか否か。度会は言葉を続ける。


「ほんなら、待つわ」

「え?」

「お姫さんが欲しい言うてくれるまで。これから、いつまでも」

「なっ、何ですかそれ。そんな日来るはず」

「わからへんやろ?」


 人の心ってのはな、移ろいやすくて情深いもんなんやで。


「せやから、俺は諦めへんし、誰にも割り込ませへん。かといって、俺に向き合えて強いる気もあらへん。今まで通り、お姫さんに優しい官吏でいたる」


 姫巫女が目を見開き、度会はその表情に勝算を見出す。


「これだけは覚えといてや」


 俺はお姫さんのこと、ほんま大事に思ってるんやで。

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