第六話 天谷の闇 其の十五

 翼志館よくしかん高校は小高い丘の上にある。学校までは舗装された一本道ではあるが、辺りは雑木林ぞうきばやしが存在する。その雑木林に中山は潜んでいた。


 獲物は誰でもと言うわけではない。青影あおかげに依頼して手に入れた在学者名簿から、今回は政治的にも影響力がありそうな人間を待っていた。


 中山は気配を消し、じっと待つ。好きな白いスーツは泥や草で汚れ、変色していた。


 ポキッと枝が折れる音がした。


 中山は右を向くと、黒い燕尾服の還暦はとうに越っている男が端整な姿で立っていた。


 枝はどうやらその男がわざと折ったらしい。中山はその技に寒気を感じた。今、自分の背後に回っている男とは違い、その技が年齢と同じく熟達したものだということがはっきり分かる。燕尾服は一切の皺もなく、手を白い手袋で覆った姿は紳士であり、自分の周りの人間と比べても羨望せんぼうすら感じてしまう。


「こんな所でどうされましたかな?」


 老人の和やかな声に中山は体内に電流が走った。


「……いや、あの街で少しやらかしてね。ここで身を隠している」


「それは大変だ。だからといって、その格好で、学校の近くに居られるのはあまり宜しくない。立ち退いて頂けますかな?」


「分かったよ…」


 中山は振り返り、歩き出す。目の前にいる男が警戒を解いたのを確認して、その男の背後を取り、片腕手首を締め付け、ナイフを突きつける。


「馬鹿者が……」


 老人の冷ややかな言葉が木霊する。


「武器を捨てろ」


 中山が男に言うと、男は素直に従った。


「大人しくここから出て行け」


 中山は老人を促す。老人は静かに構え、答えた。


「我らは主人に仕えたときから、とうに死ぬ覚悟はできている」


 中山は背中に鳥肌が立つのが分かった。老人に殺気はない。それなのに体は大きく見え、中山を圧倒する。


 中山は徐々に男を盾に後退あとずさる。


「なぜ、動く? お前は木偶でくの棒にもなれんのか?」


 男は老人の言葉で動きを止めた。中山はそれを無理に引っ張ったがかたくなに動かない。


 その瞬間を老人は見逃さない。数メートルの距離を一瞬にして縮める。卓越した歩行は、中山を焦らせ、人質を手放し、押し出した。


 男は前に重心を傾けていたため、容易に体位が崩れ、倒れた。


 前には老人の姿はない。中山はそれに気づいていた。右側から微かな殺気を感じ、構える。姿を現した老人は拳を放つ体制が整っていた。そこからは放たれてる正拳突きは確実に必殺のものだった。


 中山は体を魔力で固め、腕を犠牲にする防御体制を取った。


 老人の拳と中山の腕にぶつかった瞬間、中山は数十メートルはじけ飛び、一本の木に叩きつけられた。


 老人が正拳の構えを解くと、部下に近寄り、手を差し伸べる。それは先ほど一瞬放った殺気が噓に思えるほど、穏やかに紳士的だった。


「あ、ありがとうございます。お、男は?」


「逃げ失せた」


 男は中山が飛んだ方の木を見た。木には叩きつけられた後が残るも、そこには姿はなかった。あの翁の拳を受けて、生きていることもそうだが、逃げ果せたことには驚いた。


「私も老いた……。あれだけのことを言って、仕留めきれぬとは」


 男は冷や汗が出てきた。


「私の知り合いに安全な警備会社の社長がいる」


 男の口は干からびて、声も発せないでいた。老人が肩を叩くと、反射的に背筋が伸びた。老人は学校の校門へと歩いていったが、男は立ったまま動けなかった。


 由美子が校門の前に着くと、車がすっと前に止まった。中から老人が出て、由美子の前のドアを開ける。由美子は老人の姿を一度見る。しかし、由美子は何も言わず、車に乗った。老人は辺りを見回し、車に乗った。車は静かに動き始めた。


 車内では、さっきまでは違い、横柄な態度を由美子はとっていた。


「田中はどうしたの?」


 由美子は老人にキツい視線を向ける。


「さぁ、どうしたのですかな?」


「あっ、そう。で、何があったの?」


 老人は黙ったままだ。それに業を煮やしたのか、由美子は隣にいる老人のネクタイを引っ張った。


「姫様、はしたなくございます」


「私は、あなたの口から、聞きたいの!」


「ははは。姫様は、爺や離れができませんな」


「誤魔化すな!」


 由美子は老人の脇をくすぐるもまったく微動だにしない。運転手も助手席にいた女も苦笑いだった。由美子は諦めたようで、むっすとした顔になる。


「そんな顔をなされては、美しいな顔が台無しです」


「だったら、子供扱いしないでよ」


「そう言っているうちはまだまだですな」


「うるさい」


「姫様、本日より外出する際はこの爺やがお供いたします」


「ふ~ん。そういうこと…」


 由美子は笑顔になった。


「姫様は意地が悪いですな。その性格は改めて頂かないと、家名に傷がつきます」


「わ、分かってるわよ。そういえば、伏見が謹慎きんしん処分になったわよ」


 老人は満面に笑みを浮かべて話す由美子を愛らしく感じた。


「言った傍からそのような……。まぁ、分からないでもありませんが」


「よく言ったわ、爺や! あの男をどうやって辞めさせてあげようかしら」


「それには十年、いや二十年速うございますな」


 車内では屈託のない枯れた笑い声と甲高い声が交わり、協奏曲のように響いていた。

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