第六話 天谷の闇 その四
三
その変化に、
鞘夏はその憧れを完全に把握している訳ではない。だから、主人にどう接すればいいのかが分からなかった。それと同時に、その変化にある感情が生まれつつあるが、自分の中で表現する言葉が選び出せなかった。
主人はいつものように親しくなった友人と稽古に励んでいる。その時でさえその感情は生まれなかった。
「どないや?」
相も変わらず、気配を消しながら背後から現れるこの男が鞘夏は嫌いだった。
「忠陽くんに変わったことはないか?」
鞘夏は黙っていた。
伏見はそれを気にすることなく、忠陽の鍛練を見ていた。
忠陽は鍛練が終わり、伏見がいることに気づいた。
昨日、忠陽は帰ってからずっと考えていた。どうやったら、もう一度、あの「無」を見ることができるのか。授業中にも方法を考えたが、あの人との接点は先生にしかなかった。だが、昨日の夜の口ぶりではもう会わせてはくれないだろう。
忠陽は意を決して、伏見の元へ駆け足で近づいた。
「先生、ちょっと、話があるんですが……」
「ここでなんやし、別のところで話、聞こうか」
忠陽と伏見は他の二人を置いて、人気のない場所へと移動した。
「先生、先生の仕事を――」
「ダメや」
伏見はすぐに忠陽の言葉を遮った。
「どうして、ですか?」
「生徒を危険な目に合わせられん。当たり前のことや」
「分かってます。でも、僕は昨日の子みたいに攫われる子を助けたいんです!」
「嘘やな」
忠陽は口をつぐんだ。
「僕相手に嘘ついても、見破られるのは当たり前や。嘘は呪術の基本やで」
「僕は……」
「別に嘘ついたからって、怒らへん。でも、君には似合わへんな。嘘に簡単に色が付いてしまう」
忠陽は俯いた。
「神無か……」
その言葉を聞いて、忠陽は顔を横に反らしてしまった。
「気持ちは分かるな。昔な、君があいつに持っているものを、あいつの父親に持っていたことがある」
忠陽を見る伏見の片目は昔の自分を投影していた。
「でも、それは無理や。僕らはあいつらとは違う。それに気づかんと僕のように体の一部を失ってしまう」
伏見の片腕は忠陽の肩に叩く。
「僕は自分の生徒に、僕のような思いはさせたくないねん」
伏見の笑顔は何かを隠すために作る嘘なのだと、忠陽は初めてその事に気づいた。
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忠陽は夕食の後、自室に戻った。
ベットに横になって、天井を見上げる。自分の中の灯は揺らいでいた。先生の言葉でこんなにも揺らぐものだったのかと、自嘲した。
神無に対しての憧れは呪術師としての性だ。
厳しかった祖父の言葉を思い出す。
「呪術師の在りようとして最高なものは無だ。すべては無により生じ、無に帰る。術比べや術の開発よりも、我らは無の極地を目指さなければならん」
その意味が少し分かったような気がする。無は通常知覚できない。人間の言葉上のみ認識ができ、あやふやで矛盾をはらむものだ。それ故にその無へと至ることは、存在すら無くすことだ。
だが、自分が出会った存在は限りなくそれに近い存在だった。おおよそこの世ではあり得ない事象を目の当たりにし、それが無だと言えた。忠陽の中でもその存在を理屈では表せない。ましてや、何故そこ存在するのかさえも。自らの血が、業が、本能がそう告げているのだ。
喉から手が出るほど触れたい無の極地。やはり簡単には諦めきれない。
忠陽は財布と鍵を取り出し、リビングへと行く。だらけた妹と、家事に
「ちょっと、コンビニ行ってくる」
「いってら~。あっ! アイス買ってきて! シラナイッケ」
「分かったよ。鞘夏さんは、何かある?」
「いえ、私は…」
「そんなに遠慮しなくても」
「では、トリノジェラートを」
「うん。分かった」
忠陽は平静を装い、家を出る。
その姿を鞘夏は心配そうに見つめていた。
夜の静寂の中で、自らの足音が鳴る。柔らかく小さな音は弾むように聞こえた。
忠陽は近所のコンビニを通り過ぎ、人気のない学区へと歩いた。
静けさが不気味さを増長させるような建物は平常通りだった。辺りには不審な人間はいない。昨日の今日で、同じ場所に現れる輩ではないと悟った時、忠陽は今日の探索を辞めた。
次の日の夜、忠陽はコンビニに出かけると言い、夜の町へ出る。流石に鏡華も不審感を抱いていたが、問い詰めようとはしなかった。
昨日とは違い、忠陽は天谷市の港湾を探索した。港でもガントリークレーンなどがあるコンテナの岸壁ではなく、小型漁船の船場を訪れていた。コンテナの岸壁は、常に港湾関係の人がいることもあり、人目につきやすい。この前のように人気のが少ない場所でしか人を襲わないという読みであったが、今回もはずれのようだ。
ベタつく潮風は忠陽の体にぶつかりながら通り過ぎていく。防風林や防風壁の遮るものがない風がこんなにも嫌らしいものだとは思わなかった。
防波堤の先にある灯台に登り、忠陽は天谷市を見渡す。
この都市の中央にあるセントラルビルが不気味に思えた。この都市のシンボルでもあるが、夜にそびえ立つ摩天楼は何か魔を感じる。昼間にそう思わないのは、太陽という存在がすべての魔を払っているのかもしれない。
それは事象として説明できた。夜は現世と幽世が繋がりやすい。理由はなぜか解明はされていないが、そういう事象が現実に観測できる。本当は、この世で論理的に説明できるのは少ないのかもしれない。
忠陽は帰路へつく。明日はあの摩天楼にいってみようと決めた。
翌日の夜、外へ出るときに鞘夏に呼び止められた。呼び止められたが、鞘夏は何も言わず黙ったままだった。
「鞘夏さん、どうかした?」
「いえ、呼び止めて申し訳ございません。いってらっしゃいませ」
深々とお辞儀をする鞘夏の顔は髪で見えず、忠陽は明るく返事をした。そのお辞儀は扉が閉まった後でも続いていた。
「彼女でもできたのかな~?」
玄関から死角の場所から鏡華の声が聞こえた。
鞘夏がリビングへと戻ろうとしたとき、鏡華が興味なさげな顔をしながら、鞘夏を静止した。
「ねぇ、あんた、なんか知ってる?」
「いえ、特には……」
「そう。私はあんた以外で、まともな奴なら応援するけどね」
鏡華は満面な笑みをしながら言った。
「私など……」
「私など? あんた何様のつもり? お祖父様に気に入られていたからって、使用人風情が陽兄と釣り合うとでも思ったの?」
「申し訳ございません」
鞘夏は頭を下げた。鏡華は無機質に動く人形を見て、舌打ちをした。
「そういうとこも嫌いよ」
鏡華はそう吐き捨て自室に戻っていった。
忠陽は、セントラルビルから数百メートル離れた場所で、この不気味な摩天楼を見上げた。二棟にも一棟にも見える建物の中層階から下は、まばらに電灯が点いている。まだ、灯りがあるというのにこの不気味さは異様に思えた。
大和皇国の首都である京と似ていると忠陽は感じた。京は、今では幽世が具現化することが珍しくなり、巷では心霊現象などと言われている。その昔、百年前ぐらいの京は現世と幽世が交わっていた。その姿は絢爛豪華、人と精霊も妖魔の垣根がなく、交流が盛んであったという。祖父はその事を嬉々として話していたことを思い出した。
「よいか、この世などはどうでも良い。我々の目指す先は幽世の先にある、人が観測できない場所だ。昔の京はそういう場所に近かった。人の世でもなく、精霊の世でもない。すべてが交わり、京だけの世だった」
忠陽は記憶の音を止めた。
「呪術なんて…」
奥歯に噛みしめる。自然と手にも力が入っていた。自分がしていることに気づいたとき、苦い顔をしながら笑った。
「結局、僕もお祖父様と一緒というわけか」
忠陽は祖父が嫌いだった。記憶の中の祖父は忠陽の才能のなさに怒り、貶していた。賀茂家の長男として産まれ、家を継ぐ宿命を受けた自分に呪術の才能を求められるのは当然であるが、その圧迫は並大抵のものではなかった。
「所詮、蛙の子は蛙か」
祖父が父と自分に対して吐き捨てた言葉を今でも忘れていない。
「僕だって……産まれたくて産まれたわけじゃない……」
その言葉も隠すように隠形をしながらセントラルビルに向かった。
セントラルビルのエントランスは警備員が立っていた。忠陽は悟られないように建物は死角を探し始めた。建物を一周し、もう一周しようとした時に白髪の
忠陽はその声を聞いた途端に背筋が凍った。気づかないほどの男の気配の消し方はレベルが高いことがすぐにわかった。そして、何よりも近くで感じる大柄な体躯から発する魔は、人間でないことが容易に想像できた。
「キサマ、ここで何をしてる?」
忠陽は言葉が詰まる。大男の魔が増大し、それに
ゆっくりと詰め寄る大きな体に忠陽は
「団十郎、その方に手出し無用よ」
際どい服を着た妖艶な体をした女が、忠陽の後ろから現れた。大男は動きを止め、忠陽は二人に挟まる形となった。
「お久しぶりです。忠陽様」
お辞儀をする女の艶やかさに、忠陽は自分の置かれた現状を一瞬忘れてしまった。
「あ、あなたはどなたですか?」
「
「祖父にですか……」
「ええ。忠陽様、こんな時間に何をされているのですか?」
「ちょっと、通りかかって」
「そうですか。でも、子供がこんな夜更けに外を出歩くのは危ないですよ」
女は、忠陽に肌を密着させてきた。背中には柔らかいものが当たり、忠陽は赤面しながら、女から離れた。
「……
年上だからの余裕なのか。しかし、忠陽の中では違和感を覚える。忠陽が恥じらうの見て、指をくわえている。性癖かとも考えたが、自身の奥にある何かが危険であると告げる。
伏見の言葉が脳によぎる。僕よりも強い奴。それが、忠陽をこの場から逃げること促した。
「すいません。僕はこれで」
「お待ちなさい」
女の声が忠陽は体にねっとりと纏わりつき、鳥肌が立つ。
「時間も遅いですし、タクシーで帰った方がよいかと。最近、物騒になっていますし……」
「いえ、歩いて帰れます」
「何かあったら、ここに戻ってきください。私が、送って差し上げます」
その笑みは不気味で、蛇に睨まれたようだった。
「あ、ありがとうございます」
忠陽は足早にその場から離れていった。
「よいのか?」
大男が口を開いた。
「いいのよ。彼は必ずここへ戻ってくる。最初は頼り無さそう感じだったけど、以外に冷静だった。私、手を出しそうになっちゃった。ねぇ、治めるの、手伝ってくれる?」
指をくわえながら、女は男を求めた。
大男は鼻であしらい、セントラルビルへと戻っていった。
「あら、いけずね。でも、あなたはそうでなくては面白くないわ」
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