第四話 青い蕾 その一

 忠陽ただはるは目が覚めると、白い天井が見えた。消毒の臭いが鼻につく。今、自分がどこに居るのかはっきりと判断できない。


はる様!」


 声が聞こえた方を見ると、鞘夏さやかの心配した顔が見えた。その鞘夏に異変があることは忠陽すぐに気づく。頬には大きなカーゼを付けており、腕は擦り傷のようなものが見える。服は患者衣かんじゃいだった。そこでやっと自分たちは病院にいるのだと気づいた。


鞘夏さやか……ッ!」


 体に痛みが走り、体を天井へと向き直す。


はる様、安静にしてください! 体の治療は終わっていますが、まだ完全とは言えません」


「僕のことはいいですよ。鞘夏さんだって、怪我をしている」


「私は、大丈夫です」


 忠陽は鞘夏の方へ首を向き直した。


「そんなことはない。鞘夏さんも安静にするべきだ」


「……はい」


 忠陽は自分の記憶を辿る。覚えているのは東郷とうごう高校の女子生徒と戦っていたことだ


「学戦は、どうなったんだろ?」


「学戦は……翼志館よくしかんが勝ちました」


「そうなんだ。勝ったのか。僕は何の役にも立たなかったな」


「そんなことはありません。はる様は立派に戦っておられました」


「ありがとう」


はる様、今はお休みください」


「うん、そうするよ。鞘夏さんも僕に構わず休んでください」


「はい」


 鞘夏は綺麗な笑顔だった。その笑顔を頭に反芻しながら、忠陽は眠りに落ちていった。


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 色がない世界、ただはっきりと情景は映し出される。一人は自分の父だ。もう一人は車椅子に座っている老人だった。


 僕は手の感触に気づく。その手の先には僕と同じくらいの少女が居た。僕は少女に大丈夫だよと声を掛けると、少女は素敵な笑顔で見せてくれた。


 空間が閃光のように輝き、辺りが真っ白になる。色が元の色のない世界に戻ると、老人と少女が目の前にいた。


 老人は少女を杖で叩いていた。何度も何度も何度も。少女からは血が出ている。


 僕は老人に止めてよとせがむ。老人は僕を振りほどき、少女は叩いた。父さんと泣き叫んでも父さんは何もしない。


 老人は杖を僕に渡した。少女を叩けと促され、僕は戸惑い、そして部屋から逃げ出してしまった。


 また、空間が閃光のように輝き、辺りが真っ白になる。今度は少女は体育座りにしながら、顔を埋めていた。


 少女は泣いている。僕は彼女の側に近づき、慰めの声を掛ける。慰めの言葉は彼女には届かなかった。


 そう、僕はあのときに彼女を見捨ててしまったからだ。でも、僕には彼女に慰めの言葉しか掛けることが出来なかった。


 空間が閃光のように輝く。少女はうずくまっている。


 小女はうずくまって、老人の杖を耐え忍んでいる。


 僕は遠くから止めてよと大声を出す。今度こそ、こんな仕打ちを止めるんだ。父さんが助けてくれなくても、僕が彼女を助けてみせる。


 怖い。だけど、彼女がこんなひどい仕打ちを受けることなんて無い。叫び続ける。


 だが、声は聞こえていないのか。杖は振り下ろされる。間に入ろうとして走っても、その距離は縮められない。むしろ、さっきまで見ていた光景との距離を引き伸ばされ、暗闇の空間で見える映像となった。


「やめろーーーーッッ!」


 声は暗闇に木霊こだまする。


「やめるんだーーーッ!」


 誰も返事をしない。映像に近づこうとしたときに見えない壁にぶつかる。僕は壁をどんどんと叩くも、びくともしない。


「なに、騒いでるんだよ」


 暗闇で顔が見えないが壁の向こう側で男がそう言った。


「彼女を傷つけるな! やめるんだ!」


 男は高笑いをしていた。


「何言ってるんだよ? そう言いつつ、お前も楽しんでただろう?」


「楽しんでいた? バカを言うな! 僕は今日こそッ」


「相変わらずおめでたい野郎だな、お前は。よく見ろよ」


 悪魔のささやきにも似たさとし方だった。映像は視点を変え、誰が叩いてるのかを映した。


 それは僕だった。狂気に満ちたの笑顔で、僕は彼女を殴っていた。


「そ、そんな……違う……」


 男はクククと笑う。


「…嘘だ。嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だァッ!」


「嘘じゃあねぇよ。この薄情者はくじょうもの。何が守ってあげるだよ。笑わせんな」


「…僕はしてない。あれは僕じゃない! そうだ、あれは君だ。君が僕に化けているんだ!」


「ああ、そうさ。あれは俺さ」


「そうだろ! 僕はあんなことをしない」


 暗闇の中から男が出てきた。映像とちょうど重なり合い、顔を映す。


 その顔は僕だった。


 言葉にもならず、ただ僕は後ろに引くしかない。僕は僕に近づいてくる。狂気に満ちた笑みを僕に向けてくる。


「逃げるなよ、忠陽ただはる


「近寄るな!」


「おいおい、そいつは無理だな」


「知らない。お前なんか知らない」


「俺はお前であり、お前は俺だ!」


「近づくなァァッッ!」


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 忠陽は夢の中での叫びと同時に起き上がる。呼吸は乱れ、正面の壁に向かって無我夢中で叫んでいたようだった。


「なんや、悪い夢でも見たんか?」


 夜の暗闇に紛れて、白髪の男が部屋の入口から現れた。いつも何を考えているか分からないその男の顔を見て、忠陽の意識は正常に戻りつつあった。


「でも、びっくりするわ。近づくなって」


 忠陽は呼吸を整えた。


「先生、どうしてここに」


「生徒が心配でここに来てん」


 伏見ははにかんだ。


「嘘ですよね」


「本当のことや。鞘夏君が君の元を離れんで寝てしもうたから、毛布を掛けてあげたんやで」


 忠陽は横に居た鞘夏を見ると、毛布が掛けられており、すやすやと寝ていた。


「僕に構わず寝ててって言ったのに……」


 忠陽は鞘夏の頭を撫でた。


「そりゃ、無理な話やな」


 忠陽は伏見の一言が何故か苛立った。


「どうしてですか?」


「言うたやろ? 君等の関係は呪いやて」


「僕は……」


 何かを言いかけた忠陽の頭に夢の残滓ざんしが残っていた。


「なにかを思い出したみたいやな」


 忠陽は伏見と視線を合わせなかった。


「忠陽くん、今はすぐに寝れへんやろ。僕と話しよか」


 嫌だと言っても伏見は強引に話を始めることは分かっていた。忠陽は大人しく従った。


「君、学戦で起こったこと、どこまで覚えてる?」


「…‥東郷とうごう高校の女子生徒二人と戦っていたのは覚えています」


「僕と戦ったことは覚えてるか?」


「先生と? いや、覚えてない。というか、先生はどこに居たんですか?」


「最初から君等を追ってたんや」


 由美子が伏見を嫌う理由が、少しだけ忠陽は理解した。


「前にも聞いた話やけど、君は、タダカゲ、という人物、知ってるか?」


「知りません」


「そうか。なら、鞘夏君に暴行を加えたことは覚えてるか?」


「僕が!?」


 忠陽は喉の奥から何か出てきそうだった。さっきの夢の中で見た光景がフラッシュバックして、条件反射的に吐き気がした。


「ああ、事実や。君は鞘夏くんを殴る、蹴るの暴行を加えていた。彼女のその傷はそのときにできたものや」


「僕……が……」


「受け入れらんへんかもしれへんけど、君は下手すれば、姫や朝子くんを殺していた。流石さすがに不味いと思って、僕が止めさせてもろうた。君の最後の記憶は、朝子君に突かれたところやと思う。だけど、君のその体の軽い火傷には、見覚えは無いやろ?」


 確かに腹部の鈍痛以外にもヒリヒリとした感覚があった。


「僕にはー」


「記憶がない」


 伏見は言葉を奪うように言った。


「それもそうや。あの時、忠陽君ではなく、タダカゲという人格やったんやろな」


「人格? タダ……カゲ?」


「君は二つの人格を形成されとる。一つは忠陽という温厚で誠実な人格。もう一つはタダカゲという攻撃的で、残虐な人格や。恐らく、忠陽という人格が攻撃を受けて、危機が及んだときに入れ替わるのかもしれへん。信じられへんと思うが、これは本当や」


「本当? 僕には、先生が言っていることが分からないですよ!」


「落ち着けっていうのも無理やな……。僕が君の立場でも、何言うとんねんと思うわ」


「だったら、納得できるように教えてください!」


「どんな言葉で言っても納得なんてできへん。君が受け入れるかどうかや」


「そんなのって!」


「解離性同一症と呼ばれる精神障害は、同一人物の中で複数の人格が起こる。その原因はトラウマやストレスとも言われてる。忠陽くん、何らかの形で君はそういったものを経験しているはずや」


「そんなの知りませんよ!」


「それは当然や。その記憶を持っているのはタダカゲの方やろ」


「先生……」


「解離性同一症の特徴やな。あるストレスを受けた記憶は、当人とって忘れたい記憶や」


「先生」


「それ持ち越すことは少ないだろう。だから、君ではなくタダカゲという人格がその記憶を持っていることになる」


「先生!」


 忠陽は大声を出していた。


「お願いします。僕にも分かるように教えて下さい」


 忠陽は俯きながら、敷き布団を強く掴んだ。伏見はその忠陽をじっと見つめていた。


「忠陽くん、悪かったな。君にはまだ時間が必要みたいやな。この話はおしまいや」


 伏見は部屋から出ていく。忠陽は力の入った手をずっと見つめていた。

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