僕とあなたの、水玉模様の明るい世界

雨希

僕とあなたの、水玉模様の明るい世界

 灰色や黄土色のくすんだ色合いの建物ばかりが並ぶ雑然とした街は、なぜだか淡いパステルカラーのフィルターを被せられているように明るく見えた。ガラス張りのお花屋さんから溢れる木々の緑、お菓子屋さんから漂う甘い香り、コンビニの屋根には真っ直ぐに伸びる三本のライン。降り出したばかりの雨はゆるゆると街の高いところでたゆんで、僕が着ている詰襟の黒い学生服をしめらせる。春が終わろうとしている。水玉模様の街に、ふわりと甘い風が吹く。

 僕が学生服を着られるのも、あと数日だろう。夏になったら、水色のブラウスに紺色の棒タイを結んで、チェック柄のプリーツスカートで街を歩くことになる。生地の薄い夏服は、どうしても膨らんだ胸を隠すことができなくて、男装が似合わない。

 僕は人付き合いが極度に苦手な人間で、一日中何も喋らずに過ごすこともまれじゃない。「友だち」という言葉の意味が分からない。他人との距離の取り方が分からない。けれど、一人でいるのが好きだとも全然思えなくて、いつも自分の内側からあふれ出す言葉を持て余している。話したい、と思う。誰かと触れ合いたいと思う。叶わない願いだ。僕には誰かとの繋がりを維持することができない。

 けれど、最近。偶然……本当に偶然、僕はある人と「知り合った」。デパートでエレベーターのドアが開かなくなるという事故に遭って、乗り合わせた女の人と連絡先を交換したのだ。いつもの自分なら、そんなことできないと思う。だけど、そのときは特別だった。いつもよりずっとずっと寂しくて、一人ぼっちが悲しくて、そして、その人は優しかった。

 年上だと思うけれど、何歳かはよく分からない。髪をショートボブに整えていて、上品な眼差しの人だった。それでいて、茶目っ気や幼さのある話し方をする人で。いつの間にか僕は自分のくすぶった想いを吐き出してしまっていて、このまま他人同士として別れてしまいたくないと思った。自分から、メールアドレスを書いたメモを差し出した。

 今日は、その人……碧さんとカフェで待ち合わせをしている。一緒にケーキを食べて、それから商店街でウィンドーショッピングをするのだ。教室で、女の子たちが休日、そんなふうに遊んでいるらしいという話を盗み聞きしたことがあった。もちろん僕にとっては初めての体験で、想像するだけで胸が膨らんだ。たくさんお喋りをしたい。碧さんの笑顔が、たっくさん見たい。

 いつもほとんど言葉を口にしない僕に、そんな芸当ができるか怪しいけれど、きっと大丈夫だと根拠なく思った。

 春の終わりの街を抜け、僕は街角にある小さな純喫茶のドアを開く。碧さんの温かい視線が、僕を貫く。

 碧さんは淡い桜色のセーターとベージュのロングスカートを合わせていて、今にも春の空気に溶けてしまいそうだった。本当は、妖精なのかもしれない。僕みたいな人間に優しくしてくれる存在なんて、幻か何かだろうと思えてしまう。

 彼女はカフェの一番隅っこにある円テーブルに頬杖をついている。優しく微笑んで、ふわふわと僕の方を見ている。

「早いんですね。僕、かなりのせっかちで、待ち合わせの三十分も前に着いちゃったのに」

彼女の向かいの席に座る。碧さんは「てへっ」というように小首をかしげて、

「あたしも、淳ちゃんに会いたくて会いたくてしょうがなかったの」

なんて言う。僕は照れてしまって、相手の顔を見ていられずに窓の外へと視線を泳がせた。

「なーんて、冗談よ。別の用事が予定より早く終わって、家に帰るのが面倒だったから早めにここに来たの」

「あっ、そうなんですか」

思わずほっと息を吐く。がっかりと安堵が半々。人の好意というものに、あまりにも慣れていないから、素直に向けられると重いと言うか怖いという気がする。

 僕は、ウェイターさんにアイスのほうじ茶ラテとチーズケーキを頼んだ。碧さんも、コーヒーのお代わりと苺タルトを頼む。

 運ばれて来たタルトに、碧さんがフォークを斜めに刺す。生地が堅いのか、「むっ」と力を入れる。するとお皿がカチンと飛び跳ねて、お菓子のくずが散った。

「あー……」

碧さんは眉を下げ、とても残念そうな顔でケーキを見つめる。その顔が幼い子どもみたいに可愛くて、僕は口元が緩むのを感じる。

「萌えました」

「ええっ、そう? こんなおばさんに? 恥ずかしいわ」

「碧さんは、おばさんじゃないです。可愛いし、おしゃれだし、優しいですもん」

 僕は、本心を言ったつもりだった。なのに、碧さんはおかしそうにクスクスと笑う。

「あたし、あなたよりも二回りは年上なのよ? 間違いなくおばさんだわ。むしろ、お姉さんだなんて言われる方が恥ずかしいのよ」

「ごめんなさい……」

生意気だと思われただろうか。

「謝らなくたって……」

碧さんは楽しそうに肩を震わせながら、崩れたケーキを口に運んだ。彼女が気分を害したわけではなさそうだと分かり、僕もほっとしてスプーンを手に取る。

 店内にはオルゴール風の音楽が流れている。絵本に出て来る子ども部屋のような穏やかな空気の中で、僕は幸せを感じていた。碧さんは僕を受け入れてくれる。心を病んでいる病人としてではなく、一人の人間として受け止めてくれる。

 ――僕たちの関係を、「友だち」と呼んでも良いのだろうか。

 ケーキを食べ終わったあと、僕たちは男性向けの服を取り扱っているお店に入った。

特撮ドラマに出て来る、世捨て人の大学教授が着ているようなラクダ色のジャケット。可愛いチェック柄や縞々模様などの、カラフルなネクタイ。ロックバンドのボーカルが着ていそうなつやつやした革のベスト。生地のほつれにわびさびのあるダメージジーンズ。どの服もカッコ良くてロマンがあって、眺めているだけで幸せな気持ちになる。特に気に入ったのは紺色のポロシャツだった。襟に水色と白のラインが入っていて、とてもおしゃれだ。もし、どれを着ても良いよと言われたら、どんなに楽しいだろう。

 僕は、めったに男性向けの服の店に行かない。母と買い物に行くときは、イオンモールの女性向けコーナーにしか立ち寄らない。今着ている詰襟の学生服は従兄の中学時代の制服のおさがりで、体が大きくなって着られなくなってしまったら、多分もう僕が男装することはないと思っていた。けれど……

「これ、良いんじゃないかしら」

碧さんが、ビートルズの「アビイ・ロード」のジャケット写真が印刷されたトレーナーを僕の体に重ねる。信号をわたる四人の男たち。

「いくらですか?」

「えっと、二千円」

「良かった。それなら、僕にも買えます」

 トレーナーの他に、紺色のジャケットと揃いのズボンをかごに入れた。今日のために、僕は自分の貯金箱を割って来た。財布の中には三万円ある。

 レジでお金を出そうとしたとき、僕の手を遮るように手が伸びて来た。碧さんが、クレジットカードを出したのだ。慌てる僕をよそに、店員はさっさとカード購入の手続きをする。

「あのっ、そんな、僕はそういうつもりじゃなくて!」

「進級祝い、じゃダメかしら」

碧さんが、茶目っ気たっぷりに微笑む。

「でもっ。僕は、碧さんの友だちで……」

おごってもらったり世話してもらったりするような関係じゃなくて、対等な……

「すみません。ありがとうございます」

僕の顔をのぞき込んで、碧さんは少し寂しそうな顔をした。


 夕暮れの街。駅へと向かう道の途中。それまで並んで歩いていた碧さんが、少し足を速めて僕の前に立った。背を向けているので表情は分からない。茶色い髪が、ちらちらと夕陽を反射する。

「あたし、勘違いしてたのかもしれない」

えっ、と僕の喉から声が勝手に出る。

「あたし、好意の表現方法をお金しか知らないの。母はいつも、頭を撫でてくれる代わりに新しいぬいぐるみをくれたわ。あたしも、妹のために自分ができることは、お金を稼いで少しでも生活を楽にすることだけだと思ってきた。そうじゃないのかもしれないって、さっき、ふと思ったの」

淡々とした声。僕はごくりとつばを飲み、口を開く。

「僕は、碧さんと一緒にいられるだけで幸せです」

 碧さんが振り返る。ふわりと、ショートボブの髪が空に広がる。細められた目。明るい笑顔。オレンジ色に染まった頬。何かから解放されたようなその仕草が、僕の網膜に焼き付く。

「あたしも」


 朝。自室を出る前に何気なく姿見にちらりと目をやると、そこにはどうにも垢抜けない女が映っている。紺色のブレザーとえんじ色のネクタイ、灰色のプリーツスカート。癖の強すぎる髪はぼさぼさで頭を大きく見せているし、膝下まで長さがあるスカートはやぼったくて重苦しい。可愛くない。ましてや格好良くなんてない。僕はそんな、色のくすんだ自分の外見を憎んでいる。

――自分でも変だと思う。美しいカラスのような少年用の詰襟の学生服を着ると、とたんに自分を受け入れられるようになるなんて。

 碧さんのことを考える。淡い色で柔らかいリボンの付いている服を着こなしている彼女は、自分とは全然違う生き物のように見える。人間っていうのは、本当に「男」と「女」に別れているのだろうか? 僕が「女」である碧さんと全く違う生物なのは間違いなくて、それなら僕は「男」なのか?

 そこまで考えて、僕はふうっと息を吐いた。馬鹿馬鹿しいことは分かっている。けれど、胸の底で生じている疑問や違和感を拭い去ることがどうしてもできなかった。越境することが楽しいのは、そこに確かな境界線があると信じているからだ。僕は男になりたいわけじゃない。女として、男性用のデザインの服に憧れているだけだ。それを分かっていて、時々、世間的に「女」とされる人々に対して疎外感を覚える。自分は女じゃないと思う。じゃあ男なのか、と聞かれると、それはそれで何かが違うと感じる。中間? そんな曖昧なものが許される世界なのか、ここは。もし世界が許すとしたら、そのとき、越境という行為が意味をなさなくなる。それは楽しくない、多分。

「わがままだな」

と僕は呟いて、姿見から視線をそむけた。


 高校の教室には、女の子しかいない。みんな同じ服を着て、同じ真っ黒な髪を同じように二つに束ねている。教室の真ん中の席で、僕は机につっぷして周りの子たちの会話を聞き流している。少年アイドルグループのメンバーがいかに可愛いらしいかという話、深夜アニメに登場する男の子たち同士が絶対に付き合っているはずだという話、隣のクラスの担任教師が自分の生徒に手を出したという話……。けっこう面白いと思う。僕は、そんなよもやま話が好きだ。みんなの会話に加われないのは、単純に「友だち」じゃないから。自分でも理由はよく分からないが、僕はどうにも人との繋がりを保てないらしい。入学した当初は数人と言葉を交わし、一緒に昼食をとったりしていたけれど、いつの間にか一人になっていた。今は、誰も僕に話しかけてこない。それはやっぱり、僕が彼女達と違う生き物だからなのだろうか……


 三時間目の体育の授業の前、教室で体操服に着替えようとしていると、校内放送で職員室に呼び出された。授業に遅れても良いから至急来るように、という念押し付きで。

 僕の頭に最初に浮かんだのは、家族に何か深刻なことが起きたのだろうか、という考えだった。父親が脳卒中を起こしたとか、弟が下校中に交通事故に遭ったとか。嫌な想像がぐるぐると渦を巻いて、心臓の鼓動を速める。小走りで職員室に入ると、インスタントコーヒーがむっと香った。

「保味……」

しかめっ面で椅子に座っている、僕のクラスの担任教師に慌てた様子は見て取れなくて、僕は少しほっとする。少なくとも、家族は無事みたいだ。それなら、どうして「至急」なんて言葉を使ったのだろう。

「どうなさいましたか、先生」

 先生は胸の前で腕を組み、すうっと鼻から息を吐く。

「お前、今度から別室で着替えろ。他の生徒の着替え中は、教室に入るな」

「は……?」

 全く想像もしていなかった言葉に、頭が真っ白になる。先生は何かを言いたそうに口をもごもごさせ、また息を吐くと、ぎろりと僕を睨んだ。

「保味と同じ部屋で着替えたくない、と言っている生徒がいる。それも、複数人。なんでも、お前が街で妙な服装をしている所を見たらしい」

「あっ……」

詰襟の学生服を着ている所を見られたのだ。僕は、自宅からも学校からも遠く離れた場所でしか男子生徒用の学生服を着ない。だから、身近な人たちにばれることはないと高を括っていた。

 先生は組んでいた腕を下すと、薄っすらと微笑んだ。

「俺は、正直、そんな必要はないと思ってるんだが。ただのコスプレなんだろう?」

「コスプレ……そうですね、そんな感じです」

「だよなぁ。しかし、TPOはちゃんとわきまえろ。コスプレが許されているイベント以外では、もうそんな服装はするな」

「分かりました」

 頭を下げた僕に、先生は優しい口調で言う。

「まあ、ほとぼりが冷めるまでは、保健室で着替えれば良い」


 保健室へと向かいながら、僕は自分が馬鹿であることをひしひしと感じていた。当たり前だ、女子高生が男と同じ部屋で着替えたくないと訴えることは。

 ――僕は、男装をやめるのだろうか?

 結論は出なかった。けれど、もうすぐ冬服の季節は終わる。次の冬が来るまで、この問題は保留できる。

 先生に、「コスプレみたいなものだ」と言ったのは嘘じゃない。越境するのが楽しいのと、単純に男性向けの服のデザインが好きだから、やっていたんだから。けれど……心のどこかで、僕は自分が「何」なのか分からなくて、本当の自分を見つけるために必死だったのだと……そんな切実な苦しみがちくちくと棘になる。

 そんなつもりじゃなかった。僕は誰かに迷惑をかけたかったんじゃない。目立ちたかったわけでも、何か主張したいことがあるわけでもない。それなのに。


 家族や近所の人たちが言うように、僕は、心を病んでいるのだろうか。


 その日は、だんだん夏へと向かってゆく季節の中で、急にがくんと気温の下がった日だった。碧さんと出会ったのはクリスマスの数日前。あれから半年近くが過ぎ、僕たちの逢瀬も十数回目になっていた。待ち合わせ場所は、初めて出会ったのと同じデパートの、最上階のカフェテラス。閉店間際の、空に星が散り始める時間。白い息を吐きながら、僕は屋外の廊下を歩く。

 ガラス製の重い扉を押し開けると、ちりんと鈴の音が鳴った。閑散とした店内にその音は鳴り響き、隅のテーブルで文庫本を読んでいた碧さんがはっと顔を上げる。

「淳ちゃん……」

碧さんは目を大きく開いて、僕を見る。肌が白すぎるな、と僕は思った。新雪みたいな色だ。もう、冷たい季節は終わるというのに。

「びっくりしましたか?」

僕の問いに、碧さんは小さく首を振る。けれど、いつもの優しい笑顔は浮かんでいない。その視線は、まるで北風のようだ。

「やめることにしたんです、学生服を着るの」

 今日の僕は、いつだったか碧さんにもらった「アビイ・ロード」のトレーナーと、黒地に白い水玉が散ったフレアスカートを着ている。似合っていないと思う。野暮ったくて冴えない、みっともない女の子。それでも良いと思った。人付き合いが下手でお喋りが苦手で、笑顔もぎこちなくて、心を病んでいる自分を、受け入れて生きてゆくしかない。人に迷惑をかけない、境界線をまたごうとしない、誰にも顧みられない、世界にありふれたちっぽけな存在でしかない自分を。

「泣いているのね」

 碧さんがささやく。そのとき初めて、自分の頬が濡れていることに気付いた。

「大丈夫。あたしも、透明な人間だから」

そう呟くと、彼女は立ち上がり腕を広げた。あっ、と思った瞬間、僕は温かい腕に抱きすくめられていた。

「ごめんね。分からないの、あたし。どうやったら愛してるって伝えられるのか。淳ちゃんはそのままで良いなんて、そんなこと言えない。社会で生きてゆくって、そういうことだから。だけど、だけどね。あたしの前では、淳ちゃんは淳ちゃんなの。信じて。あたしにとっては、あなたがどんな外見をしているのかなんて、関係ない。どこに属しているのかなんて、どうだって良いことなのよ」

 僕だって、分からない。愛するってことがどういうことなのか。友だちという言葉の意味ですら、分からないんだ。ただ、彼女の体が温かくて。冷たかったはずの涙が温められてゆくのを、心地良いと感じている。

 ふと窓の外に目をやると、季節外れの雪が降っていた。水玉模様の、白く明るい世界があった。


☆ ☆ ☆


 それは、ある冬の日。あたしはお気に入りのベージュのコートとワインレッドの手袋を付けて、赤と緑に彩られた街を歩いていた。もうすぐ、クリスマスだ。たった一人の家族である妹への贈り物を買うために、電車を乗り継いでデパートへと向かっている。あの子はずっと、新しい帽子を欲しがっている。最近若い人の間で流行っているらしい、猫耳のついたベレー帽。あたしたちが住んでいる田舎の町では、それをかぶっている人なんてほとんど見ない。近所の商店街のブティックには、やはり売っていなかった。頭にちょこんと可愛らしい帽子をのせている妹の姿を想像すると、自然と口元が緩んだ。十五歳も年下の妹は、きょうだいと言うよりも、娘のように見てしまう。逆に、若くして亡くなった母は、あたしにとって親というよりも姉だった。破天荒で子どもっぽいあの人は、雪の日なのにハイヒールを履いていて、歩道橋で滑り落ちて頭を打った。親戚たちが悪い噂をするのを聞きながら、あたしはどうしようもなく悲しくて悔しくて、まだ幼稚園児だった妹の耳を両手で塞いだ。


 デパートに入り、入り口の前の店内マップを見る。女性用の服を売っているお店が入っているのは、五階らしい。エレベータを使うことに決め、上向きの三角のボタンを押す。平日の昼間。客の姿はまばらで、店内は閑散としている。エレベータを舞っているのは、あたしともう一人。詰襟の真黒な学生服を着た男の子……えっ、あれ、この子……。

 あたしの視線に気付いたのか、その子が振り向いたとき、エレベータが到着した。あたしたちは視線を一瞬だけ絡ませ、無言で開いた扉をくぐった。

 あたしは箱の奥に立ち、学生服の子は扉の横に立った。すうっと上ってゆく感覚。肩甲骨の浮き出た華奢な背中をぼんやりとながめていると、突然、エレベータが減速した。どこかの階に着いたのだろうか、と思ったけれど、扉は開かない。

 学生服の子が、不思議そうに開閉ボタンを連打する。カチャカチャ、カチャカチャと空しく音が響く。

「変、よね。故障かしら?」

 あたしの言葉に、その子はぎょっとしたように振り返った。短く刈られた髪と、夢を見ているようにぼんやりとした切れ長の目。白い頬に赤くニキビが吹き出している。

「えっと、あたし、非常電話を掛けるわ。大丈夫よ、きっと」

年上らしく明るく堂々としていようと思い、非常時用のボタンを押す。すぐに業者さんに繋がって、対応をしばらく待つことになった。学生服の子は、ほっとしたようだった。

 狭い密室で二人きりになり、なんとなく気まずい。沈黙が苦手なあたしは、つい喋り出してしまう。

「あなた、〇〇高校の学生さん?」

「あっ、はい。一年生の保味淳といいます」

「淳さんっていうのね。あたしは間島碧よ。あなた、あたしの妹と同い年だわ」

 淳さんはしばらく困惑しているように目を泳がせていた。そして、少し唇を引き締めて私を見る。

「僕が女だって、すぐに分かりましたか?」

「女の子なの?」

「だって、今、淳さんって……」

 微妙にかみ合わない会話。あたしは、男の子でも女の子でも、「さん」と呼ぶことが多い。淳さんはそれを聞いて、「しまった」というような顔をした。そして、あたしたちはしばらくの間沈黙に沈んでいた。


 どういうわけか、エレベータの扉はなかなか開かなかった。腕時計を確認すると、既に三時間が経っていた。暖房が効いているせいもあり、喉が渇いてくる。立っているのが辛くなってきて、あたしたちは箱の隅で膝を抱えた。

「妹のために、ベレー帽を買いに来たの。最近流行ってるでしょ? 今日はお仕事がお休みで。早く帰って、夕ご飯の準備をしたいのに。妹は、ソフトボール部に入ってるの。いつもお腹ペコペコで帰って来るから」

「妹さんと、仲が良いんですね」

「たった一人の家族なの。うちは両親が早くに亡くなって、ずっと二人で生きて来たから」

薄っすらと微笑むあたしの顔を、淳さんはじっと見つめていた。複雑な表情。羨望のような、諦観のような、不思議な憂いのある目。

 淳さんは、すうっと息を呑む。

「お姉さんの話ばかり聞かせてもらうのは申し訳ないので、僕も話します。……僕は女です、多分。小さいころからお絵かきやおままごとが好きだったし、ピンクのものを持つことに抵抗もなかったし、第二次性徴に対する違和感は、思春期の女の子の多くが抱くものだと思います。そんなごく平凡な人生だったのに、いつの間にか、男装することに憧れるようになっていました。男になりたいわけじゃない。女として男の子みたいな服装をすることが、とても魅力的に感じるんです。……変ですよね。世の中舐めてるみたいで」

 彼女は、引きつった笑みを浮かべる。

「僕はいつも、スカートを履いて学校に通ってます。それは別に苦痛じゃない。けれど、学ランを着ることにすごく魅力を感じる。革命とかメッセージ性とか、思想とかがあるわけじゃない。ただ、好きなだけ。そういうのって、一番肩身が狭いですよね」

「そうなんだ?」

 自分でも、呑気すぎる返答をしてしまったと思う。淳さんはきょとんとして、それから、クスクスと笑った。

「間島さんて、なんだがふわっとしてステキですね。子どもみたい」

 あたしの脳裏に、母の姿がすっとよぎった。ゆっくりと噛みしめるように、言葉を紡ぐ。

「ありがとう。褒められるのは、好きよ」

あたしたちは顔を見合わせて、声を出して笑った。


 四時間後、ようやくエレベータの扉が開いた。さあっと、赤く染まる視界。窓から見える空は夕焼けで、冬の澄んだ空気の中で冷たく燃え盛っていた。

「淳さん、楽しかったわ。ありがとう」

 彼女の白い肌は、スクリーンのように夕陽を映している。まつ毛の長い目を眩しそうに細めて、口元をほころばせている。妹と同じ歳の女の子を、私は、親のような気持ちで見守りたいと思った。けれど、これは束の間の邂逅。本来関わる運命にない二人が、たまたますれ違っただけ……

「あの、間島さん。これ、僕の連絡先です」

 淳さんから小さなメモ用紙を差し出され、あたしはドキっとする。

「また、会えたら良いなって。ご迷惑ですか?」

あたしは無言でそれを受け取る。可愛い丸文字で書かれたメールアドレス。

「うん、そうね。こんな出会いがあっても良いかもしれない」

 ホッとしたように微笑む彼女は、とても綺麗だった。

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