パン・フェアリー

@kuryu19375

パン・フェアリー

 インターホンが鳴ったので玄関に出た。

 すっかり見慣れた宅配便の兄ちゃんが、小包を片手に立っている。宛名確認、サイン、ありがとうございました。無機質なやり取りを最小限の時間で終え、やっと自宅から他人が消える。

 小包を抱えた私は、六畳1Kの居室へ戻る。スープ滓のこびりついたカップ麺の空き容器やら、コンビニ弁当の空やらペットボトルやらを足でどかしつつ歩き、定位置たる机の前へ。床はまだまだ空いているし、掃除機はほんの2ヶ月前にかけたばかりだ。比較的綺麗な時で助かった。

 空けっ放しの菓子の袋を机の端に押しやり、あらためて小包を見る。

 テープにまみれた、少し重量のある段ボール箱。送り主も宛先も私の名前。

 しかし私には、何かを注文した覚えはない。

 怪しいのだが、私は躊躇なくテープを破いた。びりびりという音が少し刺激的。最近どうにもこうにも寝て起きて息をするのが窮屈で仕方なかった。他人がこの自宅に踏み込んでくるのは許し難いが、こういうちょっとした怪しさ――直面するものではない、間接的な世間様とのつながり――は嬉しいものだった。

 覗いたら多分、自分とはまったく関係のないものが入っているとわかるだろう。そうしたら業者に連絡を入れるのだ。「宛名は私だったから受け取ったし箱を開いた、けど中身に覚えがありませんから引き取って下さい」……。

 会話を頭の中でシミュレートしながら、段ボール箱を空ける。

 中身を見た私は、目を瞬かせた。

 一度視線を逸らし、もう一度見た。何度見ても同じものがあった。

 入っていたのはフライパンだった。一目で分かるダイヤモンドコート紋様。料理に使う、私でも片手で取り回せそうなほど小ぶりの、真新しいフライパン。

 それはいい。

 問題は、そのフライパンのど真ん中に――羽を生やした小さな女の子が横たわり、膝を丸めてすうすう寝息を立てていることだ。




 さて、どうするべきだろうか。

 この独り暮らしの聖域に、こんな形で『他人』が踏み込んでこようとは――しまった掃除をもう少し綺麗にしておくんだった。まずい。この女の子は綺麗なままにしておかなければまずい。

 段ボール箱にフライパンごと入れ直す。テーピングはしない。なんだか刺激音を立ててはいけない気がする。

 私は比較的清潔な――確かひと月前にはティッシュで拭いたばかりの――書棚の一段から本を抜き取り、フライパンと女の子入りの段ボール箱を収めた。これで一安心だ。

 いや安心じゃない。この部屋はまずいのだ。こんな……あの妖精のような女の子を、この場にさらしておくわけには……。

 妖精、そう妖精だ。見た目にも柔らかな金髪に色白の肌をして、小さく細い体と四肢がダイヤモンドコートの黒地にそっと横たわっているのだ。幼い頃に見た親指姫の絵本のような、一丁前の赤いドレスに身を包んで、背中からはトンボに似た半透明の羽を合計四枚生やしている、手のひらほどの大きさの女の子。

 フライパンに描かれた円型紋様の中心に横たわる姿は、まさしく魔法陣をベッドに眠る妖精そのものだった。

 ちょっと待て。

 ここは私の自宅なんだぞ。異世界なんかじゃないし、奇跡も魔法もないんだぞ。

 いやもうまずいにはまずいのだ。あんな綺麗で、無垢を形にしたような女の子に、私のすさんだ人生そのものであるこの部屋を見せるのはよくない。非常によくない。見せるだけじゃない、本当なら空気を浴びせるのすらよくない。

 掃除せねば。

 ゴミ袋を引っ張り出し、床に散乱するものを片っ端から放り込む。カップ麺やコンビニ弁当の空、ペットボトル、割りばし、脱ぎ散らかしの靴下に服に下着にストッキング、使用済みのティッシュ類……一番かさばったのはペットボトルだった。こないだ全部処分したはずなのにいつの間にか増えている。

 大急ぎで掃除しようにも体がついていかない。今日の食事は……おかしい、今日は十一時には起きたし総菜パンもちゃんと食べた。なんでこんなに体力がもたないんだ。

 それでも書棚の段ボール箱を見上げれば、頑張らねばまずいと思うのだ。大体床の面積が見える頃には、ゴミ袋(70リットル入り)は三袋になった。掃除機は……あのギュイーンという音が非常にまずい気がする。干からびた雑巾をシンク横から拾い上げて、そっと水で洗う。水拭きした方が汚くなるんじゃないだろうか……除菌シートでも買ってくるべきなのか……。

 時計を見れば三時だった。昼食の買い出しついでに、除菌シートも買いに出た。




 レジ袋片手に戻ってくると、自宅が自宅ではないような気分がした。

 こんなに力を入れて掃除しているのは一体いつぶりだ。守らねばならない命が出来ると人は強くなるというが、自分にもそんな根性はあったのだろうか。

 鍵を開け、玄関をくぐると、バタバタと何かが跳ねる音がした。

 しまった。あの子が起きたのか。

 急いで書棚の、中から突き上げを食らっているらしい段ボールを取り上げて開ける。そこからびょんと顔を出した女の子は、私の顔すら見ずに叫んだ。


「臭いッ!!」


「だって除菌まだだから……!」

「除菌がどうこうじゃないわよっ! 何なのここ! 腐った臭いしかしないじゃないの! 衛生環境どうなってんのよっ!」

「い、いま片付け中で……!」

「片付けってどんだけ放置したキッチンよ! 人の住める場所じゃないわ、とにかく窓開けて換気して、っていうか私をこの部屋から出してっ!」


 ぐうの音も出ない。

 私は取り急ぎカーテンを開け、窓を全開にした。外の騒音や排気ガスが入ってくるのは全く好みではないのだが、彼女に叫ばれたのだからしょうがない。

 彼女は段ボール箱から飛び出すと、あの四枚羽で一直線に、窓から外へと出て行ってしまった。

 ……そう、いなくなってしまった。

 残されたのは段ボール箱入りの小ぶりのフライパンに、何故か気合を入れて掃除をしていた私。ちょっと片付いた部屋に満タンのゴミ袋が三つ、アルコール除菌シートに、昼食用の総菜パンとペットボトル入りのお茶。

 窓の向こうからは外気と、すぐ近くの道路を行き交う車の騒音に排気ガス。傾きつつある太陽はほんの少し気持ちいいが、自分が昼食を――夕食でもおやつでもない、昼食を――摂ろうとしていたことが思い出されて、憂鬱になる。

 まあ、いいか。

 今日はちょっと掃除をした。建設的なことを。

 窓を閉め、フライパンを完全に取り出す。金をケチって買っていなかったのだが、私にぴったりの小さなサイズと、いわくありげにも見えるダイヤモンドコートの紋様は、少しだけ面白いと思えた。

 卵、あったっけ。

 買ってこよう。今日の夕飯は目玉焼きに決定。

 お米を研いで、久々に炊こう。お醤油も買い替えよう。アルコール除菌シート、あれで床も机も拭いて、ええと次のゴミの日は……洗濯もしとこうか、服をまとめて洗濯機にポイ、洗剤もちょっと多めに入れて……。




 そして少しだけ清潔に傾いた部屋で、何週間ぶりかの茶碗と皿で夕飯を食べていた頃。

 窓をとんとんと叩く音がした。

 私は腰を上げた。まさかと思ったが、擦りガラス越しのシルエットはどう見ても赤い服を着たお人形だ。もう彼女はどこかに行ってしまって、ここは独り部屋に戻ったものと合点していたのに。

 窓を引き開けると、そこには仏頂面の、あの小さな妖精がいた。


「……あの……入ります?」

「入りたくない」

「えっと……」

「でも、私の家はここしかないの」


 言って妖精は、アルミの桟にちょこんと腰掛けた。こちらには背中を向けている。部屋の空気に少しでも触れていたくないのだろう。

 気持ちはわかる。私だってこんなところにいたくない。


「あのー、……あなたは、誰ですか?」

「私はフライパン」

「はあ」

「本当は、ちゃんと料理を愛してくれる人のところにいくはずだったの」

 私は大変に申し訳がなくなった。料理なんてやったのはもうずっと昔のことだ。というかそもそも、シンクや食器や、鍋を洗ったことだって……。

「なんであなた、私を注文したの?」

「えーと、たぶん、手違い……」

「はあ!?」

「私、頼んだ覚えないんです……」


 妖精は目をひん剥いて――美少女が台無しだった――自分を梱包していた段ボールにまで文字通り飛び、宛名を三度は舐めるように見た。そして最後に私を見ると、「信じられない!」と叫んだ。


「自分に覚えがないのに開けたわけ!?」

「いや、その……はい」

「本物の注文した人に申し訳ないとか、思わなかったの!?」

「……はい」

「信ッじられない!!」


 彼女は虚空に――いや、天を仰いで嘆いた。

 私も言われて初めて、自分が情けないことをしたのに気づいた。確かに、この世のどこかには彼女を心待ちにしていた人がいたのだ。私なんか及びもつかない、料理や鍋が好きで、しっかりした生活を送っている人がいて……だけどその人も、彼女が届かないと知れば混乱もするし、不安にもなるだろう。泣いてしまうかもしれない。そしてその悲しみを作り出してしまったのは、私なのだ。

 何年かぶりに、心が揺れ動いた。目頭が熱くなってくる。

 私はティッシュに手を伸ばした。ぼろぼろと涙がこぼれてくる。妖精はそんな私に気付いて、ドン引きしていた。私は片手を振った。


「気に、しないで、ください。ていうか、見ないで」

「見たくないわよ。……あーあ、なんであんたみたいなのにぶち当たったかな私! 悪いコトぜーんぜんしてないのにさ!」


 私は泣きながら何度も頷いた。

 彼女は悪くない。




 その日のうちに、私は業者に連絡を入れた。

 小包を開けてしまったことは丁重に謝った。業者も「確認を怠ったのはこちらですから」等と言っていた。想定していた回答の通りだったが、泣いてしまった私の心にはがんがんと響いた。

 これからどうすればいいのかは、業者が親切に教えてくれた。いつもの宅配の兄ちゃんが、すぐ引き取りに来るという。

 私は目玉焼きに使ったままのフライパンを洗い、彼女に声をかけた。彼女は窓の桟に腰かけ、こちらに背中を向けたままだ。


「あのう……」

「……何」

「これから、引き取りの方がいらっしゃるそうなので……またフライパンに寝てもらえませんか。段ボール箱に元通り入れて、お返ししますんで……」

「……これから?」

「はい。これから」


 ちらと振り向いた妖精は、涙目だった。

 でもこれで元通りになる。次こそ彼女は、本当に彼女を欲しがった人たちの場所に行けるのだ。私なんかとは違う、真っ当な生活をしている人たちの家に。

 彼女は、私をじっと見てきた。次いで洗ったばかりの真新しいフライパンに目をやると、ふわふわと宙を舞い、私の方に近づいてきた。

 私は後ずさった。何日か風呂に入っていないのだ。彼女にこんな体を触れさせたくない。

 が、彼女は私の目の前でホバリング。腰に両手を当てて、言った。


「ひとつレクチャーしてあげる」

「……え?」

「あんた、一回だけ私を使ったでしょ。だからサービス。目玉焼きひとつ分だけのレクチャーよ」


 ほらこっち来て、と彼女に先導され。

 私は、ほとんど使っていないキッチンに立った。




「古っ! 全部しなびてんじゃない! あんた野菜買っても使わないわけ!?」

「あの……今度こそ自炊しようと思って買うんですけど、すぐ面倒になって……」

「信じらんない……ッ!!」


 金髪を振り乱す妖精だが、何かしらのプロ意識に火が着いたのか、すぐ指導者の顔に戻った。

 にんじんを洗って、皮をむいて、薄めに切って。

 ブロッコリーも洗って、切って。

 しめじも洗って、むしって。

 それらを全部水洗いしたら、そのままフライパンに――あのダイヤモンドコートのフライパンに放り込み、水を入れて蓋をする。

 そのまま中火で加熱。蒸気が充満したら、弱火に切り替え蒸し焼きに――。


「これだけでいいんですか?」

「普通ならいいんだけどね。あんたの野菜、水分抜けてるからどうなるかわかんないわ」

「はあ」

「いーい、次は新鮮な野菜でやりなさいよ。この私が教えた料理がヘンな味で伝えられるなんて、我慢ならないんだから」

「はい」

「あと調理器具は使ったら洗う! 拭く、しまう! 野菜も使い切る! 余ったら蒸し焼きにして食べなさい!」

「はい」




 何分そうしていたのかはわからない。

 おそらく彼女も、使った野菜の状態があまりに想定外だったため、細かな指図が出来なかったのだろう。結局インターホンが鳴るまで、私は火を消さなかった。

 迎えが来たので急いで野菜類を皿に移し、大急ぎでフライパンを洗って、拭いた。彼女は来た時のようにフライパンの円形紋様の上に、膝を抱えて横たわった。

 だが最後にちらと私を見上げると、


「私の言った事、実践しなさいよ」


 瞬きすると、彼女はもう寝息を立てていた。

 私は……心が震えて仕方なかった。だがインターホンは鳴っているし、何より、彼女を待っている人がどこかにいるのだ。私が知る場所にはいなくても、この世のどこかには。

 私は「ありがとう」とだけ言って、彼女とフライパンを段ボール箱に入れた。

 真新しいゴミ袋で――彼女は嫌がるだろうがこれしかない――箱を包み、玄関に出る。

 見慣れた宅配業者の兄ちゃんが、疲れた顔でそこにいた。


「この度はご迷惑をおかけしました」

「いえ、……あの、良かったら食べます?」

「いえお気遣いなく。それではサインを……」





 一年後、私はひとつの噂を聞いた。

 とあるメーカーが新開発した、紋様入りフライパンの噂だ。

 なんでもそのフライパンは、円形紋様が偶然、ある種の暗示をかけるパターンを形成していたらしい。ほとんどの所持者には何も起こらないが、極度に弱った心身を持つ者は、紋様の上に『妖精』を見る。『妖精』は見た者が必要としている食べ物を教え、すぐに消えてしまうという。

 そんな噂を聞く頃には、私はゴミ部屋の主から脱却し、コンビニのバイトも始めていた。『妖精』に会う前は考えられない変化だった。

 私の証言を聞いたバイト先の先輩は、ビール片手に「まじかー」とうめいた。


「っていうかそんなヤバかったの、君」

「ヤバかったですね。いやもう人は食べ物を食べるべきですよ、気力全部なくなりますもん。あと規則正しい生活と」

「まあねー、やれればいいんだけどねーウチもねー」

「あ、私は大丈夫ですよ、深夜慣れてるので」

「うーん、こっちも雇われの身で言うのもなんだけど、ほどほどにねー。また『その子』のお世話になったら、『その子』も怒るでしょ、きっと」

「はい」


 返事と同時に私は火を止め、大皿にじゃがいもとタマネギとひき肉の炒め物を流し込んだ。

 振り返れば、小さなこたつで寛ぐ遠慮なき先輩の姿。

 私は微笑む。


「そんじゃ肉じゃがもどきいきまーす」

「あいよー」


 さよなら妖精。

 あなたを思い出話にして、私は他人と生きていくよ。

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