第三十五話


 門の手前から覗いたのとはまるで様相を変えてしまった捻じ曲がった空間……しかしいずれにしてもツユ達は遂に異界へと辿り着いたのだった。この先に兄が居るのだと、はやる気持ち気持ちを抑えてまずは、奇妙な感慨に身を浸す。


「あれ……メザメさん?」


 インカムからの声が返って来ない。少し不安な気持ちになったツユに言ったのは、彼女の後ろで呑気そうに頭の後ろで手を組んだフーリである。


「異界に電波は届かねえだろう。スマートフォンだって使えねえぜ」


 見ると確かに電波の一本すら立っていない。思えば伏見稲荷大社で時間の止まった世界に閉じ込められた時もそうだったでは無いか、この雲外鏡を使って現世との間にトンネルが出来た時に辛うじて交信が行えた程度だ。


「つまり、メザメさんの力には頼れない」


 そう言って後、ツユは今更ながら眉をひそめる。安城もまたツユと同じ様にしていた。

 だが同時に、もう彼に聞き耳を立てられていないのだという事実が、二人の口を饒舌に滑らせ始めた。


「そういえばメザメさんは一体自宅で何をしてるんですか。私達にあっちこっち行かせて、挙句こんな土壇場になっても岐阜の山奥に引っ込んだままって」


 安城がこくりとツユを肯定する。


「メザメという彼は……実に得体の知れない人物だね」


 そこまで言うと、あっけらかんとした声でフーリからの回答があった。


「メザメはな、今も家で骨董品の整理をしたり買い付けに行ったり読書をしたりして忙しいんだぜ?」


「え、それって従来通りに骨董屋さんとしての日常を送ってるって事じゃないですか、まさかそんな片手間に私の中の一大事件に携わっていたっていうんですか!?」


 驚愕とするツユへと向けて、「メザメは買い付け意外じゃ滅多な事では外には出ないからな」とフーリが言った。


 境内にはほんのりと線香の香りが漂っていた。道の端では季節外れの彼岸花が砂利の上に凛と咲いていて、その先は背の高い竹垣に囲まれている。


 ……それにしても妙な空気だ。先刻伏見稲荷大社で囚われた異界とはまた違う、上手く言葉に言い表せないが、妖気ようきが肌へと纏わり付くかの様な、まるで冷たい空気が気道に流れ込んで来て、ぞくりと臓器を冷やすかの様な感覚を覚える……。


 細い路地を折れるとすぐに、『異界のおみくじ』にあった通りの赤い社と木彫りの狐像見えて来て、ツユの心臓をゾッとすくみ上がらせた。


 本当に今、ツユは夢物語だと思っていた、あの兄の物語の世界に居るのだ。

 兄の書いたあの『異界のおみくじ』の中に……。

 どこか不気味で、感慨深くもある。


 作中にあった通りに、左右等間隔に赤いのぼりがびっしり並んで細い石畳の小道を示していた。まるで伏見稲荷大社の千本鳥居の様だとツユは思った。それとも稲荷とはこういったおもむきを好むものなのだろうか。


 導かれたその先には小さな社があり、その隣にはやはり、紐で出来たおみくじ掛けと、結ばれた無数の紙があった。


 道を行くのはまるで魔物の食道を自らの足で奥へ奥へと歩み進んでいくかの様な心持ちだったが、意を決したツユはもう怖気る事無く石畳を踏んでいた。


「なぁ、吊るされた人間は何処だよ」  


 フーリが天上を見上げている。恐ろしいと思いながらもツユもつられて空を見上げたが、そこには灰の曇天があるばかりだった。


にあるんだよ」


 安城が妙な事を言う。聞けば、異界には現実世界で言うところの朝と夜の様な、という概念があるらしく、いまツユ達が見ているのは表の世界であるという事らしい。

 表があるから裏がある、裏があるから表がある。との事であったが、まんま陰陽の太極図の関係だとツユは思った。

 しかし思えば『異界のおみくじ』の作中でも、栗彦は突如と闇に放り込まれてはいやしなかったか。彼が怪奇に見舞われるのはその後の事であった筈だ。

 ……確か色の夜だと言っていたか。

 その時こそが、裏の世界が訪れた瞬間なのであろう。


「裏にはどうやって行くんだよ狐」 


 フーリがぶっきらぼうに問うと安城は、自らの纏った変装を解いていきながら、最後には少し怯えた様な目で言うのだった。


「もう来てる」


 ――恐ろしげな空気を纏う風が、ツユの頬を掠めて通り抜けていく。

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