第三十六話


 ツユが何かを感じて振り返ると、過ぎ去って来た曲がり角の所の足下で、先程までは無かった筈の色とりどりの風車が、カラカラと音を立てているのに気付く。

 そして急激に陽が傾いて来て斜めに差し始めた夕暮れのオレンジが、こちらに背を向けた形で配置された小学校の頃のパイプの机と椅子を、石畳の先に浮かび上がらせた。

 そこに、こちらに完全に背を向けた形で座している男の存在が浮き彫りになって来る。


「栗彦」


 フーリが臨戦体制に入ろうとするのをツユが止めていた。彼女がこの場に同行したのは、栗彦との交渉による平和的解決を試みたいという思いがあったからなのだ。

 前に出たツユは怪しい冷気に曝されながら、自らの内に巣食う恐れを押し殺して拳を小さく握る。


「お兄……ちゃん……?」


「おかしいね。招かれざる者がここに入り込んでいる」


 消えいるかの様な小さな声は、やはりツユの兄のものである。未だ振り返るでも無いれた髪の男の背中。丸まったその背は、先程まで机上の何かに打ち込んでいた様子である。彼は本当に、こんな異界で執筆に打ち込んでいたとでも言うのだろうか? 彼の眼下で薄く灯ったタブレットのブルーライトが、依然振り返る事の無い栗彦の横顔を仄かに照らしていた。


「ツユ、どうしてここに来た……」


 囁くその声に、ツユは毅然と言葉を返していた。


「アナタに奪われたものを取り返す為よ。だってアナタのその体は、私の兄の、如雨陸のものなんですもの」


「俺がリクだよ」


「違うわ、お兄ちゃんの魂を返して……栗彦」


 ツユが拳を握り締めてそう言い放つと、栗彦はパタリとタブレットを閉じて、いよいよと顔を上げた。けれど未だ振り返る事はしない。


「その名で……呼ぶな」


「……」


 低く冷たい……。


 それはまるで、何かの琴線に触れてしまったかの様な声音の豹変ぶりであった。 


「お前が解き明かそうとさえしなければ、俺は変わらずに兄でいられたのに。そうしていればいつか、如雨陸をかも知れないのに」


 ―― 


「それは、どういう……?」


 ――急激に振り返ったの視線が、凍て付く夜に溶けて鈍い光の線を残す。


「どうあっても俺の野望の邪魔をするというのなら、排除するしか他に無い」


 世界は途端に夜へとすげ代わり、周囲に提灯が灯り出す。空へとびっしり並んで見下ろすは、爛れた人間達の双眸――。

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