【参】

第十四話

   【参】


 二月十四日。


 ――今日という日がこのボク――“安城廻”の為にあるのだという事は、きっと神が定めた事に違いないのだろう。


 完全に自惚れた様子で、安城廻は自宅のタワーマンションのカーテンから東京の街を見下ろしていた。

 真っ白い肌で頬が好調しているのがわかる。目鼻立ちの整った甘いマスクは、世の女達をたぶらかすには十分な素養を持っていると言えよう。


 ――本日はバレンタインデー。世の女達が魅力的な男にチョコを渡してアプローチをするというその日。つまりこのボクが求められている日……。


 ……とでも真面目に考えていそうな佇まいで、安城はガラスに反射する自分自身に惚れ惚れとしながら表情を決めていた。普段はおくびにも出さない安城廻という俳優の本性がこれ程の自惚れ屋である事を知っている者は、彼のマネージャーを長年務める機械の様な女、林田玲子くらいのものであろう。

 ――そこでチャイムが鳴った。


 二月十四日のバレンタインデー。安城廻は毎年この日だけは、熱烈な女性ファンから直接チョコを受け取る為に、多忙なスケジュールを押して午前中をオフにしている。つまり彼は彼自身で個人の為のバレンタインデーを遂行しているという事であるらしかった。去年は事務所に二トントラック二台分のチョコが届いたが、そんな人肌の無い手渡し方ではなく、女性から直接チョコを受け取りたいと思っているのだ。自分の住所をSNSに半ば晒されたまま、しばらくこのマンションに滞在しているのは何と言ってもこの為なのである。全くもって不用心極まり無い。

 だが、だからと言って安城は別に安城は女性遊びが激しい訳では無かった。ただ自分の事を好きだと言って瞳を輝かせる者を目の前にして、自分の美貌を再認識したいというそれだけの事なのである。その点に関してだけは妙にプロ意識の高い彼は、自己の魅力を誰か特定の女性一人に注ぐ事など考えていないのである。


「ボクは皆の物だからね」


 誰にともなくそう囁き漏らし、玄関へと向かう安城は既に白いスーツを着込んで胸にバラの一凛を覗かせている。いつの時代のロマンスドラマかと思うが彼のルックスが相まって嫌味になってないのが憎い。熱烈なファンの更に一部の間でのみ広がる暗黙の一大イベントの為に、彼は朝からメイクをして玄関には照明を焚き、百二十パーセントの自分を見せられる様にと準備をしているのだ。一応変な輩が混じり込まない様に、インターフォンで顔を確認し、要件を聞いてからエントランスのロックは解除している。例えば先程安城の部屋のインターフォンを鳴らしたのが、一人の女性であるという事は既にカメラで確認している。もっとも目深に被られたそのベレー帽のせいで、その表情までは見えなかったけれど。女性であるという事は確かだったし、要は一人であるという事と女性であるという事が安城にとっては重要なのだ。非該当者なんかは当然入れてやらない。

 スキップ混じりで来訪者の待つ玄関に到り、広く整頓された美しい大理石の前で襟元を正しながら、左手の姿見に映った自分を確認する。居住まいを正し、フヤケた表情を引き締めながら、いざと扉を開く。


「本当はこう言うのは断ってるんだけどねぇ」


 白々しく言いながら扉を開けると、そこにはダボダボのトレンチコートに丸いサングラスをしたベレー帽姿の女が一人、黄色い箱を持って立ち尽くしていた。カメラ越しではわからなかったが、まるで下手な変装をしている様である。


「あ、あ……あの!」


「こんにちは、これはもしかしてチョコレート? 驚いたな、嬉しいよ」


 魅惑の微笑みを見せる安城が少女の持つ黄色い箱へと手を伸ばそうとしていくと、「あ、ゴミが付いていますよ」と可憐な声があって、安城の頭頂部の辺りに手を伸ばして来た。


「キレイな声をしているね、ありが――」


「そ、それじゃ」


 安城がそう言い終わる間も無く、怪しい少女は走り去っていってしまった。一人残され、見ると足元に一つ黄色い箱があるのに安城は気付いた。彼は一度首をすくめると、チョコレートを拾って中へと引っ込んだ。


「シャイな子だ」


 どれだけナルシストなのだろう、姿見の中の自分にウインクをしながらそう言うと、黄色い箱の中身を開いていった。

 そこにはコンビニで購入したお情け程度の安チョコレートがあり、その上に一枚のメッセージカードが開かれていた。


【おまえキツネだろう。話があるからまってろ】


 信じられない位汚い文字。とてもあの可愛らしい声をした女性が書いたとは思えない、言うなればわんぱくな少年が走り書いたかの様な駄筆であった。爪を噛んだ安城は一人、そのメッセージカードから漂うに気付く。そうして歯軋りをしたその口元で、狐の様に鋭い犬歯を光らせた。


「あの子じゃない。……何処かから狸が紛れ込んだ」


 物々しい剣幕になっていった安城であったが、ポケットの中でスマホが鳴ったのに気付き、玄関に立ててある置き時計に視線を落とす。すると時刻は既に十二時を回っていた。午後に控えた映画撮影の為に大急ぎで準備を始めなければと思うのだが、今一度姿見に映る自分をじっくりと眺めてから彼は吐き捨てる様に言った。



 衝撃的な一言を残し、もう謎のメッセージカードの事など忘れていた。実際この手の脅迫や中傷はよくある事なので重要にも考えていなかったのだった。安城廻とはそういった、ひどく楽観的でその場凌ぎな男であったが、それはまた、狐の特徴でもあった。

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