第十三話

   *


「――ちゃんって」


「……」


「ジョウロちゃ……何を呆けてんだよ、なぁジョウロちゃん!」


「あ……」


 放心していたツユは、打ち破れた窓から入り込んで来る冷たい雨に首筋を濡らされて気が付いた。そうしてフーリより、自失していた間の事のあらましを伝え聞く。


「それじゃあやっぱり、やっぱりお兄ちゃんは……」


「ああ、人間に出来る技じゃねぇ。栗彦はやっぱり……」


 ツユと共に暮らし、食事を共にしていたあの兄は、やはり怪異であったのだ。しかしそうだという真実も、今こうして証拠を突き付けられてようやくと確信する事が出来る。悲しいではないか、軽薄では無いか。何もかもをわかり合った気でいながら、その兄の中身がすげ変わっていた事にさえ、今日までの約四ヶ月間、ツユは気付く事が出来ないでいたのだから。


「ごめん、お兄ちゃん」自然と涙が溢れた。


 ――もし私が誰かに成り代わられたとしたら、その事に信頼している人が気付いてくれない事がきっと何よりも悲しいし、怖い。私じゃない誰かでも、私を演じていられると言うその事実が、何よりも恐ろしい。


 冷たい雨が割れた窓から吹き込んで来て、好き放題に彼女を濡らすのを見兼ねて、フーリは思わずそこにあった段ボールで破れた窓を塞いだ。暗くなった室内がツユのすすり泣く声だけに満たされたその時、二人の耳元で無遠慮な男が話し始めるところだった。


『そんな事よりジョウロくん、異界への唯一の手掛かりに逃げられてしまったじゃないか』


 ――そんな事って、とボヤきながら細い目をしたツユは、腫れぼったくなった瞳から急速に熱が冷めていくのを感じた。フーリは一応気に掛けてくれているのか、彼女を眺めて共感する様にうんうん頷いているが……丸い目をしたその様から、多分わかっていないんだろうな、とツユに思わせた。

 ツユは荒れた室内を見渡して栗彦が持ち去った物を推察する。


「栗彦は何処に行ってしまったんでしょう。タブレットと財布だけしか持って行かなかった」


『わからないが、およそ観測出来ない所に身を潜め、もう出てくる事も無いだろう。僕たちにとっては幸か不幸か、執筆なんて言うのは場所を選ばない事であるし』


 観測出来ない場所、とフーリがおうむ返しにしていると、メザメはツユを含めた二人に次なる指示を出していく。


『今夜はそこで休んで、明日一番で東京に向かえ』


 私が「えっ」と口に出すと、メザメはさも面倒そうにしているのがわかる声でこう説明をした。


『狐は一匹ではない。『異界のおみくじ』を引いて大成したという俳優の一人は安城廻あんじょうめぐるの事だろう。そいつの住所を特定したから明日接触しろ。コイツの性格的に明日でなくてはならない。ずいぶん派手な生活をしている様だから見つけるのには苦労しないだろう』


「明日って……バレンタインデー?」


 あんぐりとツユは口元を開ける。と言えば、テレビに見ない日は無い今をときめく二枚目俳優で、世間の女子をキャーキャー言わせている雲の上の男だ。CMにだってバンバン出ているし、細く吊り上がった涼やかな瞳が儚げでありまた官能的だなんて言われている。かくいうツユも好みでは無いとは言え、まぁ彼の事は嫌いではない。そうして確かに彼も『異界のおみくじ』を引いたと過去に語っていたのを思い出す。


『少し折檻してやれば異界への行き方をすぐに吐くだろう』


「オッケー、メザメ」


「待て待て待って下さいよ何言ってるんですか! 安城廻って言ったら今の日本を代表する若手俳優ですよ? 私達みたいな一般人が容易に近付ける訳ないし、第一さっきからアナタ達、やり方があまりに乱暴だわ、今に警察に捕まりますよ。今もサラッと折檻とか言ったし」


 少しの間を置いてから、開き直ったかの様な返答がある。


『そいつが怪異であるのならこちらは弱みを握れる。少し耳元で囁くだけでどんな協力だって惜しまないだろう』


 非難めいた視線で「一体何をする気なんですか」とツユは言ったが、結局肩を落とした。安城廻もまた狐に体を乗っ取られてしまっているというのなら、餅は餅屋という奴なのかも知れない。メザメは怪異の専門家なのだから。


「犯罪にならないようなやり方で頼みますよ」


『案ずるな、あくまで怪異にのみ作用する手法を用いるだけだ』


 頷いたツユはとりあえず、ガラスまみれになった兄の部屋を掃除する事にした。箒を持って来るからとフーリをここで待たせ、自分は一階へと降りて行く。するとフーリは一人になったタイミングで耳元のインカムに向かって切り出した。


「なぁメザメ、さっきの奴……」


『ああ、未知なる閃光にジョウロくんを惑わした妖術。低級の群れと言ったが、これは宛が外れたかもしれんな』


 愉快そうにクツクツと笑い始めたメザメの声に、フーリは一人肩をすくめて唇を尖らせる。

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