第61話 政(まつりごと)の始まり(前編)

 大宰府政庁の前、朱雀門の脇に高札が立てられた。

 そこには墨痕鮮やかに、


 次の参箇条、きつく申し付ける。


 壱、民を傷つけるべからず。

 弐、物品を奪うべからず。

 参、婦女を弄ぶべからず。


 右に反した者、斬罪に処す。

 また、被害に遭った者は届け出るべし。

 速やかに損害を弁済し、罪を犯した者を断固処罰するであろう。


 の旨、書き記してあった。

 大宰府の民はこれを見てあるいは驚き、あるいは疑い怪しむ。


「まさかと思うたが、あの時にのたまった三箇条は本気だったとみえる。嬉しや! これにて儂らも安堵して暮らせるというものじゃ」

「いやいや、まだ分らんぞ。乱暴狼藉は戦の後の常じゃ。当分は堅く用心するが肝要」


 反応は様々であった。

 民の中に今だ八郎の姿を見た者はいない。彼らは皆、この侵入者が勝者の例にもれず暴虐を働くものと思い込み、家の奥に隠れ潜み、生きた心地もしなかったのだ。

 狼藉を禁じる八郎の声は聞こえ渡っていたが、なにしろ武勇を謳われた太宰少弐・藤原宗頼を一騎打ちの末に討ち取ったという荒武者である。しかも年若という。

 遅かれ早かれ分別なく非道に及ぶであろうと恐れおののくこと一日二日、しかし乱暴狼藉の行われた様子はない。通りを兵の行き来する足音、その話し声や笑い声は聞こえるものの、大宰府の街全体は至って無事、平穏のようにも思われる。


 そこでようやくそっと戸を開き、おそるおそる様子を窺いに表に出てみたところ、この高札の噂である。

 話を聞いて集まった群衆の意外の思いは当然であったろう。

 今だ警戒の念を解こうとしない者がいるのも無理はない。この時代、領地や諸々の利権を巡る武家同士の争いは極めて頻繁であった。小規模の戦のことや、巻き添えとなって狼藉を働かれた民家の悲哀を見聞きすることは度々である。

 そういった事態がいつ自分たちに降りかかっても不思議ではない。この度の宗頼軍の敗戦、大宰府の占拠によって、ついにその時が訪れたと戦慄したのだ。


 だが、そんな恐怖も時が経つうちに早々に消え去ることになった。

 高札が立ってから数日、人々は街の辻々に立っては囁き合う。


「どこかで家財の略奪や暴行の話はございましたか」

「さあ、とんと聞きませぬが」

「これは、ひょっとすると高札に書かれてある通りになるかもしれませんな。儂らが思うよりも軍律が徹底されているのでは」

「そういえば、婦女子で乱暴を働かれた者も居らぬようで」

「物を贖う際も、無理矢理奪うのではなく、ちゃんと代価を払うそうでございますぞ」


 荒くれた軍勢が乗り込んできて戦々恐々としていたところに、案に反して軍紀の乱れを微塵も見せず、この整然たる行い様であったから、大宰府の民も次第に八郎と、その率いる軍に心を許していった。


 八郎の依頼を受けて、王昇とその妻・咲が大宰府にやって来たのはそんな時であった。

 使者の言を聞くや急ぎ支度を整え、子供たちは取りあえず義親に委ねて、夫婦二人だけで唐津を出立したのだ。

 王昇に委ねるべき職務の趣旨は既に伝えてある。その重要さを鑑みて、いまだ傷が全癒とはいかぬ身体に無理をきかせ、急ぎ駆けつけたのだと思われた。

 政庁本殿にて八郎、重季と相対するや、まず王昇は平伏して祝いを述べた。


「大宰府の無血接収、誠にめでたいことで、心から御慶び申し上げます」


 大仰な挨拶に八郎は恐縮する。


「頭を上げてくだされ。俺はそのような形式ばった儀礼は苦手じゃ。それに、唐津での勝利も、そもそも王昇殿の助力あってのもの。弩や方天戟が無ければ、あれ程にすんなりと勝てたかどうか」

「いやいや、弩や槍の集団戦術も、方天戟を振るっての活躍も、全ては八郎様の力量でございます。その戦ぶりを拝見し、真に胸が晴れるようでございました」


 王昇の言に八郎はますます応対に窮する。落ち着かぬ様子で目をらし、辺りに視線を泳がす。

 ふと、積み上げてあるままの財物が目に入った。ここ本殿の片隅に置かれているだけではない。政庁の他の箇所にも、蔵司や税司にも、博多から略奪した金銀、銭、宝物、高価な工芸品の類が更に山と積まれているはず。

 ここで、あらためて思い至る。


「そうじゃ! 胸が晴れるといえば」


 救われたかのように嬉し気な顔になった。


「依頼の向きはそれとして、まずはその前にこれらの財物を博多の衆に返還しなければ!」


 王昇はその言葉に目を輝かせる。


「そうして頂ければ有難うございます。博多の衆は歓喜雀躍することでございましょう」

「ならば善は急げじゃ。早速に博多に使者を出しましょうぞ。すぐにでも奪われた財物を引き取りに来るように。唐津から駆けつけたばかりで、お疲れのところを申し訳ないが、王昇殿には使者の行先の指示と返還の差配を御願いしたい」


 ここで王昇は隣に控える妻・咲と目を合わせ頷き合う。


「実は、きっとそう言って下さると妻とも話し、予想しておりました。義親様も同じように仰せで」


 二人して笑顔を見せる。八郎は逆に、


「いや、正直なところ戦のことに夢中で、財物のことは半ば忘れておったのだが、王昇殿の顔を拝見して、おお、そうであったと思い出したのです」


 と恥ずかし気に白状する。これには王昇も咲も吹き出した。

 重季もまた頭を掻きながら、


「実はそれがしも全く失念しておりました。どうも我ら武士はいざ戦となると、如何にして勝利するか、その事ばかりを考えて当初の目的を忘れてしまうようで」


 などと言うが、これを八郎は怪しんだ。

 領地経営の経験もあり、万事に良く気の付く重季にしてそのようなことのあるものか。

 これはきっと、己は重々承知していながら、俺自らに気付かせようと敢えて黙っていたのではないか。王昇殿に会ってやっと思い出したのを、俺に恥をかかせまいと気遣い、自分も忘れていたと取り繕っているのであろう。

 全く、少々気の毒なぐらいに気の回ることよ。


「重季よ、お主ともあろう者が失念していたということはあるまい。俺が思い出すのを今か今かと気を揉みながら待っていたのであろう」


 八郎が問うと、重季は素知らぬ顔で、


「いやいや、本当に忘れておったのです。それに結局は八郎君自ら思い出されたのですから、某のことはどうでも良いではありませぬか」


 と惚けてみせる。

 このやり取りに王昇と咲は、心に温かいものが込み上げるのを感じた。


「さすがは重季様。元々優秀な傅役だっただけのことはありますな。八郎様を補佐するのにそつが無い」

「とんでもござらぬ。八郎君自身のお力です。某の助力など、たかが知れております。なんとなれば大宰府を無血で開城させたのも、軍勢の一人も狼藉を働かぬのも八郎君の威勢に皆が畏れ伏した故でございます。此度も某は全く失念しておったのを、王昇殿のお顔を拝見して八郎君が自ら……」


 慌てて重季らしくもなく饒舌に弁解するのを、


「ああ、もう良い。俺が重季の助力に常々から感謝しているのは事実じゃ。それよりも本題に戻ろうぞ」


 八郎は苦笑して押し止め、王昇に向き直った。


「財物の返還ですが、どの位の時がかかりましょうか」

「そうですなぁ」


 王昇は顎に手を当てて考える。

 代わって答えたのは咲であった。


「その仕事は王昇ではなく、わたくしが引き受けましょう。博多の衆のことについては、夫に劣らず心得ておりますゆえ」

「咲殿がやってくださると!」


 八郎はいささか驚いた顔で問い返す。妻女に大きな仕事を任すなど、当時の公家や大身の武家では考えられぬことだったからだ。

 だが商家においては夫婦の仕事の分担は当然のこと、夫が品の仕入れや外との折衝を受け持ち、妻が在庫の管理や使用人の差配をするなどは、どこの商家においても日常茶飯であった。

 商家だけではない。庶民の家では夫婦が力を合わせて仕事をこなさなければ家庭は成り立っていかぬ。例えば農民など、夫と妻が二人して畑仕事に勤しむのは当たり前であろう。

 殊に咲の実家は数代続く大商人であり、当人も幼き頃から博多の商人連とは懇意の仲である。ならば彼らが奪われた財物を返還する仕事にあたるに、咲以上の者は存在しない。


「もしかして、わたくしでは不足だと?」


 その自信ありげな態度に八郎は咲への認識を新たにする。王昇が何も言わぬところからしても、咲の適任は明らかである。

 女人と思って侮ったことを恥じ、八郎は素直に頭を下げて咲に依頼した。


「とんでもない。全て咲殿にお任せ致しましょう」

「喜んでその旨、引き受けさせて頂きます」


 咲もまた深々と頭を下げて承諾し、再び面をあげるや柔らかに微笑んだ。

 それは八郎が知る大追捕の際の怯えた顔とは全く違う、自信に満ちた笑顔であった。

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