編集済
太宰府天満宮、お参りに行ったことがあります!
梅の季節ではなかったのが残念でしたが。
(´・ω・`)
遠いので、太宰府天満宮は一度きりのお参りになりましたが、近くの天満宮にお参りして、撫で牛をなでなでして帰ってきます。
(*^^*)
お参りすると、なぜか必ず嬉しくなって、気分
よく帰宅します。
微力ながら応援しています!!
作者からの返信
私も1度しか行ったことがありません(笑)
神社の壮大さもですが、その盛況ぶりにビックリしました。
今でも年々参拝者が増えているそうです。
お正月の三が日だけでも200万人(!)の初詣客が来るそうです。
さすが代表的な学問の神様だけありますね。
でも本来は作品に書いたように祟り神です。
日本の神社の面白いところは、祟り神に何か役割を与えて善神にしちゃうんですね。
道真公に匹敵するぐらいに学問のできた人は他にもいたでしょうが、無念の死を遂げて祟り神になっちゃったから、今度は「学問ができた」ことに目を付けて学問の神様にしちゃう。
何か役割があると、そっちで忙しくて祟りを為さないと考えるんでしょうか。
ちなみに本作にも登場する崇徳上皇は、日本第一の大怨霊だった筈が、今では和歌が得意だったから「芸術」の神様、蹴鞠が得意だったから「サッカー」の神様だそうです(爆笑)
Jリーグの選手もよくお参りに行くそうですよ。
交通安全の御札もよく売れるそうで、何故かというと、なにしろ大怨霊だから向こうが怖がって衝突して来ないからだそうです(またまた爆笑)(^_^)
菅原道真公は牛に御縁があるそうで、生まれたのは丑年、亡くなったのが丑の日、そして本エピソードに書いた牛車を引いた牛の件ですね。
牛の像を撫でてあげると健康になるとか頭が良くなるって言われてますよね。
あまりの行列だったので、残念ながら私は撫でてあげるのを諦めましたが😓
東風を「こち」と読むのがいいですね(*´-`)
作者からの返信
「東風」の「東」という漢字の読み方は、語源である「ひむかち」が省略され「かち」となり、それが「こち」に変化したという説がある。 そこから「東風」の読みは「こちかぜ」となり、これがさらに省略され最終的に「こち」へと変化したと言われている。
だそうです。
いや、ネット情報そのままなんですけどね (^^;)
大宰府といったらやっぱり太宰府天満宮ですね。
崇徳天皇や平将門と並んで三大怨霊の一人に数えられる菅原道真公は、果たして為朝に力を貸してくれるのでしょうか。
もしもこの参拝で道真公が降臨して為朝に味方したなら京の朝廷は大慌てでしょうね。
作者からの返信
いやあ、ちょっと前に健磐龍命を白縫姫に降臨させたばかりなんで、そこまでは考えていませんでした。
でも、そうなったら凄いなあ。確かに京の朝廷は大慌て。
生前の崇徳上皇は既に登場してるし、ついでに平将門の霊も登場させたりして。
日本三大怨霊揃い踏み、検討してみます (笑)
実は今推敲中、来週末に投稿予定の最新話に、怨霊としての道真と将門のことが、八郎の台詞の中にチラッと出てきます (^^;)
編集済
菅原道真を怨霊としたのは、為政者が不幸の連鎖を断ち切るための落とし所みたいなものだと理解しています。
光孝天皇の代から天皇の系譜が変化しています。その子である宇多天皇は藤原家の後ろ盾がなく、阿衡事件で基経に痛い目に合わされて道真が仲介してくれたお陰で、懇願して自身の側近に加えて昇進させて行くんですよね。
学者でいたい道真は昇進のたびに辞退するんでが、最後は情に負けてしまっているようで。娘を親王に嫁がせたことで、まんまと謀略に嵌められてしまったのが昌泰の変。
あっさり罪を被ってしまってます。
残した歌にあるように、左遷は寧ろ都を離れられて清々していると思っています。
先の右大臣源能有は自身の生い立ちもあり、どちらにも加担しないで、むしろ自身の子等の行く末に力を置いてます。
その辺りを自分の話でしっかり纏めてみました。
作者からの返信
「自分の話」っていうのは「平安京の双璧 摂関家・清和源氏の氏祖物語」のことでしょうか?
さすが御作に繋がる一件だけあって、よく調べておられますね。
概ね仰る通りだと思います。
ただ「為政者が不幸の連鎖を断ち切るための落とし所」っていう言い方にはちょっと引っ掛かります。
平安初期の早良親王の一件以来、当時の公家衆が抱いて来た死者の祟りに対する恐怖は相当のものがあり、だからこそ保元の乱に至るまで、少なくとも表向きは「死刑」が廃止されるんですよね。
ならば道真の怨霊に対する恐れも多大なものではなかったでしょうか。
本文に書いたように事件、犠牲者が相次いでいるんですから。
「落とし所」と言ってしまうと、当時の為政者が無神論的、即物的に現代人のように割り切って民心の安定を図ったような印象がありますね。
むしろ純粋に怨霊に対する恐れがあり、それを神として祀ることで、これ以上の事件の連鎖をくい止めようとしたのではないかと。
仰っているのは、もしかしてそういうことですか?
左遷された道真の境遇も相当に悲惨なものだったようです。
俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられ、刑死ではないものの、衣食住もままならず窮死に追い込まれ、緩慢な死罪に等しかった、と言われています。
大宰府時代に残した詩にも、政敵の時平一派に対する憤り、かつて天皇へ忠誠を誓ったことへの後悔、捏造された罪状が家族・親戚まで累が及ぶことと、過去の功績の抹殺に対しての痛恨と悲憤を綴っており、これでは怨霊になるのも仕方がないと思わせます。
ならばそう仕向けた公卿たち、そして大衆が、道真死後の一連の事件を怨霊の仕業と考えて恐れたのは自然ではないかと。
決して「落とし所」といったような生易しいものではないのでは?
当時の日本って、本当に「怨霊信仰」と「言霊信仰」に支配された国ですよね。
長文失礼しました (^^;)