第59話 天満宮
翌日、八郎たちは天満宮に参拝に向かう。
重季の強い勧めであった。大宰府を本拠地として鎮西制覇を進めるにあたり、この地にて祀られ、篤く信仰されている菅原道真公にまず成功を祈願すべしと言うのだ。
神仏の加護などは必要ないと誓った八郎だが、道真の辿った運命には興味を惹かれるものがあった。そこで重季の言に応じ、礼拝に赴くことにした。
同行するのはやはり重季、時葉と弁慶、白縫姫と侍女たち、そして松浦党の護衛の者が数名。
白縫は機嫌が悪い。それは昨日の八郎の言が意に沿わなかったからか、それとも宣言の後の八郎と弁慶、そして時葉の仲睦まじい様子を目にしたからか。
八郎はその白縫姫に問うた。
「天満宮は道真公を祀る
白縫はにこりともせず答える。
「我らの神も、天神たる道真公も、等しく鎮西を御護りになる神々です。その社に参るのに、何の憚りがございましょう」
大宰府の政庁から天満宮までは馬を駆ればすぐの距離である。
天神様とも呼ばれ、菅公とも通称される道真の霊は、元来は京の朝廷に恨みを持つ祟り神であった。
この時より二百五十年ほど昔の醍醐天皇の
遺言により遺骸は大宰府の地に葬られることになり、牛車に奉戴し北東の方角へ葬列を進めていたところ、俄かに牛が地に臥して動かなくなった。葬列の一同は、これを道真公の思し召しに違いないと考え、その地に遺骸を埋葬し、廟を
北東はいわゆる鬼門である。京の北東に位置する比叡山延暦寺が都の盾となり、鎮護国家の役割を果たすと考えられるように、道真を埋葬し祀る祠が大宰府を護ってくれることを期待したのであろうか。
道真の死後、都では疫病や異常気象などが続き、延喜九年、策謀を主導した藤原時平が三十九才という壮年で死去する。朝廷は一連の不吉な出来事を道真の祟りと恐れ、その霊を鎮めるために勅使が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営した。
これが大宰府天満宮の始まりである。
それでも道真の「祟り」は収まらず、延喜二十三年には皇太子
朝廷は急ぎ延長と改元したうえで道真を生前の右大臣に復し、正二位の位階を追贈した。呆れた狼狽ぶりである。
だが、不幸は終焉しない。保明の遺児・
そしてついに延長八年六月、時平の讒言を信じて道真を左遷した当の本人である醍醐天皇隣席のもとで会議が開かれていた、まさにその時、公卿が居並ぶ清涼殿に落雷があり死傷者が出る事態となったのだ。
醍醐帝はこの時の精神的な衝撃がもとで床に伏せ、皇太子
たかが三十年ほどの間に、道真左遷に関わった天皇、左大臣、そして皇太子二人が死亡したのである。それ以外にも例の落雷によって死傷した者、疫病によって命を失った者を加えれば、どれ程の数の公卿が祟りによる被害を被ったことか。
これらが全て怨霊の仕業だとすれば、真に恐るべき猛威である。政争に敗れて失脚、無念の死を遂げた道真の祟りを恐れる御霊信仰はその頂点に達した。
そこで太政大臣追贈などの鎮魂の措置が行われ、更には道真を祀る社に「天満宮」の名称を用いることが許された。天満宮とは本来、天皇や皇族を祀る神社の社号である。つまり、ここにおいて道真の霊は皇族に等しい扱いを得たことになる。
(ふん。怨霊の祟りに大慌てとは、よほど恨まれる身に覚えのある者共が多かったとみえるな)
もちろん八郎は怨霊などの存在を信じてはいない。だが、謀略渦巻く京の都において道なかばにして讒言によりその地位を失い、ここ大宰府で憤死した道真に対しては一抹の憐憫を感じないではいられない。
ましてや今、その京において自らの実母・玉藻が法皇を操り、様々な陰謀を巡らせているとあれば尚更である。
そんなことを考えながら、東に伸びる長い参道を歩くと、樹齢数百年はあろうかという木々の生い茂る丘に突き当たったところで道は左に折れ、本殿へと向かう。
不思議な位置関係である。ふつう参道は真っ直ぐに本殿に向かって伸びるものだ。それを敢えて避け、このような奇妙な配置としたのは、祭神が怨霊であることと何か関係があるものか。
鳥居を抜け幾つもの橋を渡り、やっと本殿に至る。その背後はやはり古木の生い茂る丘である。
本殿のすぐ右横には高さ二間ほどの梅の木がひっそりと立っている。これが伝説で名高い「飛梅」だという。
道真が京を去る際、屋敷内の庭木のうち日頃からとりわけ愛でてきた梅の木との別れを惜しみ、
主なしとて 春を忘るな
という有名な歌を詠んだ。
梅は後に道真を追って一夜のうちに大宰府まで飛んで行き、その地に降り立って根付いたと伝えられている。
年老いた宮司から飛梅の由来を聞き、重季は感嘆の声を上げる。
「伝説ではありましょうが、人ではなく梅にして見事な忠節ですな」
「ただの忠義忠節ではあるまい。主との関係がそれだけ愛情と信頼に満ちていたということであろう」
八郎の言葉に重季は深く頷く。
嘗ての栄華を失い衰微した大宰府において、そこだけは昔日の壮麗さを残す本殿で、菅公の霊に手を合わせながら八郎は思う。
道真公はその学識に基づく高邁な理想を抱きながら、都に渦巻く陰謀の犠牲となった。
京の都、そして政争となれば、脳裏に浮かぶのはやはり、本院・鳥羽法皇を惑わし政治を壟断する母・玉藻の存在、そして崇徳院のことである。
(信西館に打ち入った俺を救うために力を尽くして下さった。だが、そのためにあの母や信西、ひいては本院と敵対することになったのではないか。あの善意に満ちた新院様が、母の謀略の犠牲とならねば良いが。菅公よ、願わくば新院様を護り給え)
崇徳の運命が懸念される。
神仏や霊などを頼らぬ八郎が、この時ばかりは一心に崇徳の身を案じ、その無事を祈願した。
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