第55話 清実、乱心す

 唐津から大宰府へは西におよそ十七里。宗頼軍の敗報は早くも夕刻には権師ごんのそち・藤原清実に届いた。


「少弐殿が討死なされました!」


 多数の公家が居並ぶ政庁正殿において、若い伝騎の武士は困惑を隠さず報告した。

 激しい雨の中、馬を乗り継いで駆けてきたのだ。その全身はずぶ濡れであり、鎧には何本もの矢が立っている。


「討死とな? 世迷言を申すでない」


 清実は老人らしい皺枯れ声でただした。何かの間違いであろうと思ったのだ。

 公卿である清実は戦事には疎いが、味方の兵は四千、敵に倍する数で唐津の砦を囲むと聞いている。それがまさか合戦初日に総大将が討ち取られ敗れるなど、到底あり得ぬことと思われた。

 戦場にある者は異常な精神状態に陥り、しばしば幻影を見、幻聴に悩まされるという。


(この者も、さては血迷ったのではないか)


 そう考え、むしろ憐れみをもって伝騎の士の表情を窺い見た。

 しかし若者の目は真摯そのものであり、清実を見据え、声に力を込める。


「戦のことで何故ゆえ世迷言など申しましょう! 少弐殿は確かに源八郎為朝なる若武者に討ち取られ、我が軍は壊滅。残兵の多くは松浦党に降り、他は敗走の憂き目に至ったのです。これは間違いのない事実でございます!」


 一気に述べるや口をきつく結び、肩を震わせて嗚咽する。

 清実も今や全てを悟った。信じられないことだが自軍は破れ、軍事を統括する者を失ったのである。


(だから麿はやめよと言ったのだ。それを、あの宗頼が……)


 清実は今更ながらに切歯扼腕する。

 全ては宗頼の傲慢と過信が呼び寄せたことじゃ。

 松浦党が大宰府を襲ったのは、今から思えば明らかな挑発だったのだ。なんとなれば、博多の商人から奪った財物には手を付けなかったではないか。

 宋人綱首たちの中でも大物の王昇とかいう者と、松浦党の頭領は盟友であると聞く。ならば財を取り返して然るべきを、役所を焼き人命を奪いながら財物には目もくれず、そのままにして去った。

 常々から自身の武略を誇っておきながら、宗頼の愚か者め! 計略であるとは考えなかったのか。まんまと乗せられて唐津におびき寄せられ、不利な敵地で戦い敗れるとは、なんたる不始末ぞ。


 いや、そもそも博多を追捕したこと自体が無謀だったのだ。

 異国との公の交渉が途絶え、鴻臚館が廃れてから百年以上が経つ。それを今更、博多の商人たちから商いの権益を取り戻そうなどと言い出しおって。兵を用い金銀、銭、宝物を奪うなどすれば、報復を受けるのは必定。

 しかも多くの民を傷つけ殺し、筥崎宮までを侵したという。この大宰府の目と鼻の先でそのような狼藉を行うとは、死穢も祟りも恐れぬおぞましき所業じゃ。


(だから麿は武士などは好かぬのだ。それに鎮西などという野蛮な土地も)


 ここまで考えて清実の心は決まった。


「麿は京に戻るぞ!」


 吐き捨てるように言い、立ち上がった。

 松浦党の軍は勢いに乗って早々に大宰府に攻め寄せて来るであろう。それは明日か、明後日か。いずれにせよ一刻の猶予もない。

 武家の争いに巻き込まれるなどまっぴらだ。早々にここを立ち去るべし。

 すぐさま急ぎ足で広間を去ろうとする、その長い袖を周囲の公家のひとりが掴んだ。清実はそれを邪険に振り払う。

 すると今度は別の公家が横から清実の腰をかきいだき、行かせまいとする。


「放せ!」

「いいえ、放しませぬ! 京へ戻るなどと、なんと情けないことを仰いますか。残された我々は如何にすれば宜しいので。大宰府はどうなさいます」

「知らぬ。大宰府のことは皆に任せる」

「あまりにも無責任が過ぎましょう」


 これを聞いて清実のこめかみに青筋が立った。


「麿にどうせよと言うのか。宗頼は死に、軍は壊滅した。このうえ松浦党に対抗する手段など皆無ではないか」

「ですが、だからといって権師様が大宰府を捨てるというのは」

「捨てるのではない。皆に任せると言っておる」

「同じことではありませぬか。言葉のすり替え、詭弁でございます」


 この反駁に清実は沈黙する。そして狼狽した。

 公家一同の視線は自分に集中している。目にはあからさまな非難、侮蔑、あるいは落胆の色。だが清実にはそれらは全て、折角のにえを逃がすまいとする狡猾な目のようにも思われた。


(こ奴らは、麿に全ての罪を負わせて松浦党に差し出し、自分たちは難を逃れようとしているのか)


 激しい恐怖の衝動が身の内に充満する。これまでに経験したことのない震えが全身を支配した。そして、


「うわあーっ!」


 錯乱した。

 泣き叫ぶ子供のように暴れ、しがみつく公家を力任せに振りほどこうとする。老体とは思えぬ必死の力であった。だが、そこにまた何人もが駆け寄り、身もだえする清実の身体を抱きかかえ、押し止めた。


「き、貴様らは麿を売るつもりだな!」

「何を仰います。どうしてそのようなことがありましょうか。落ち着いてくだされ」

「嘘を言うな。麿を贄にして松浦党に取り入ろうとしておるくせに!」


 清実はついに懐剣を取り出し抜き払うや、我が身の自由を奪う腕の一本に突き立てた。


「あっ!」


 傷ついた中年の公家が咄嗟に後退あとずさる。その目に入ったのが板敷に片膝ついたままの伝騎の士の姿。


「権師殿が乱心されたぞ。急ぎ取り押さえよ!」


 叫ぶように命じると、その若い武士は無言のまま立ち上がった。そして腰の太刀を抜き、ゆっくりと清実に歩み寄る。

 清実の身の震えはますます激しいものになっていた。呼吸は荒く肩は激しく波打ち、目は真っ赤に血走り、今にも誰かに突きかからんばかりの形相である。

 危険を感じ取った公家衆は清実を押し止める手を慌てて放し、遠巻きに距離を取った。

 清実は片手に抜身の懐剣を持って若者を睨みつける。その呼吸は荒い。

 絞り出すように一言、


「刀を、ぬ、抜きおったな。やはり……」

「御免!」


 清実の言葉が終わらぬうちに若者は太刀を横に一閃した。

 首が宙に飛び、重い音を立てて板敷の上に落ち、転がる。

 その顔は何故か満足げに笑っているかのようであった。それは死の一瞬、恐怖から解放されることを知った喜びの表情であったろうか。

 おびただしい量の血が噴き出し、清実の胴体は前のめりに倒れる。周囲の者は皆、思わぬ事態に言葉を失い、その場にへたり込む。


「醜態でござる。これ以上は見るに耐えられませなんだ」


 若者はそう言い捨て、血刀を拭おうともせずに今度は己の首に当てた。


「むろんそれがしも、権師殿の御命を縮め奉らせておいて、このままで済まそうとは思っておりませぬ。冥途の旅の御供仕る!」


 最後は絶叫するように言うや、白刃を首筋に沿って一気に走らせる。血潮を撒き散らし、若者もまたその場に倒れ伏した。

 声を上げ得る者もなく場は静まり返っている。床には血溜りが二つ、鼻腔を刺激する生々しい臭いを漂わせながら、みるみる広がっていく。


 八郎がこの一件について知ったのは、その翌日、兵を率いて大宰府を接収してすぐのことである。

 軍は大宰府の敗残兵を吸収したうえに、様子見をしていた領主たちが勝報を聞くなり慌てて馳せ参じ、総勢はおよそ五千に膨れ上がっていた。


(なんと無残な)


 事件の起こったまさにその政庁広間にて一部始終を聞くなり八郎は顔を曇らせた。

 清実が命を落としたのは自業自得と言える。哀れなのは伝騎を務めた若者である。


「そのような見事な覚悟を持った将来ある士、死なせたくはなかった」


 だがもう遅い。二人の遺体は広間の奥に横たえられ、白絹で覆われている。板敷の血溜りは既にぬぐわれていたが、辺りにはまだ血の臭いが濃く漂っていた。

 八郎と重季の背後に控える護衛のひとりが、その臭いに耐えかね顔をしかめた。

 眼前には平伏する公家や官人一同。無駄な抵抗を諦め、降伏する道を選んだのだ。


「大宰府にもまだ人は残っていたということですな」


 と、重季が八郎の言葉に応じた。


「ああ、そうだな。例えばあの原田種雄とかいう将も……」


 見事な撤退が八郎の記憶に甦る。

 五百あまりとも見える兵を擁しながら戦わず、無駄矢を放つばかりの臆病者かと思えば、勝敗が決した後の一糸乱れぬ撤退は敵ながら賞賛に値するものであった。

 我らの軍に対する恐れを微塵も見せぬ堂々とした退去。勝利に浮かれ追撃していれば、それこそ痛撃を受けたであろう。

 聞けば、博多への襲撃にも参加しなかった硬骨の士という。義親爺と王昇殿の話でも、良識ある頼もしい人物らしい。

 原田氏は大蔵氏の流れというではないか。

 大蔵氏といえば古来より国庫の管理・出納を務めただけではなく、確か大蔵善行よしゆきなる高名な学者であり官人を出した家系であったはず。しかも太宰大監とくれば、政治や銭のことにも、鎮西の事情にも明るかろう。

 是非、味方として招きたい人物だ。


 大戦おおいくさを終え、八郎は既に向後の鎮西統治に思いを馳せていた。


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