唐津の戦い

第50話 鳥羽にて、唐津にて

 八郎たちが白縫姫と会っていた同日、京とその近辺には篠突くような雨が降っていた。


 そんな折、鳥羽の離宮、東殿にある玉藻の居室に駆け込む僧体があった。

 信西入道である。

 常日頃、余裕ありげに尊大な態度を保たんと努めているこの男らしくもなく、息は上がり脚はもつれ、玉藻の顔を見るや挨拶もなしに、殆ど倒れんばかりにその場に突っ伏した。

 袈裟はじっとりと濡れ、裾には泥水が撥ねている。

 余程のことが出来したと思われるが、玉藻はその哀れな姿にもちらりと視線を流したのみ。声を掛けようともしない。


 謀を巡らすばかりに汲々とし、絶えて機敏に身体を動かすことのない信西である。息を整えるのにもひとしきりの間を要した。

 やっと顔を上げて玉藻を見たと思うと、今度は似合わぬ大声を発する、その声はまだ途切れ気味であった。


「ろ、朗報で、ご、ございます!」


 しかし玉藻には何の反応もない。虚空を見やったまま、信西のもたらす報告にはまるで関心無さげである。

 強い雨音の響く中、信西は再び声を張り上げた。


「お、御聞き下され! 朗報でございますぞ」


 ここでようやく玉藻は信西に顔を向けた。表情は不機嫌そのもの。

 どうやら、何事かに考えを巡らしている最中であり、それを邪魔されたことに不快を感じているらしい。


「騒々しい。本院様のおわす殿中ぞ。控えなされ」


 抑え気味の声にもかかわらず、その口調の厳しさに信西は慌てて畏まる。


「し、失礼いたしました。一刻も早く玉藻前様にも御喜び頂こうと気がはやり、大急ぎで駆けつけて参りましたもので」

「八郎のことであろう」

「やっと居所が知れましてございます」

「鎮西か」


 この返答に信西は目を丸くする。


「なぜ御存知で」

「その位のこと、諸々の事情を少し考えてみればおのずと想像がつきます。信西殿が密かに各地の役人に命じ、八郎の行方を探っていたこともな。そして、ついに大宰府から待望のふみが届いたという訳か」


 その言葉には明らかな皮肉が込められていたが、信西は気付かない。

 八郎は憎き仇である。ひたすら嬉々として文の内容を語り始めた。


「は! 太宰少弐・藤原宗頼によれば、鎮西に渡った八郎為朝は当地の水軍・松浦党に与し、瀬戸内水軍と戦ったとのこと。そしてこれを撃破し、次にはあろうことか無法にも大宰府を襲い、甚大な被害を与えたそうでございます。宗頼は激怒しておりますぞ。報復のため急ぎ筑前筑後、豊前に大宰府の名で命を発し、大軍を催して松浦党の本拠たる唐津を討伐せんと……」


 まくし立てるが、もはや玉藻は聞いてはいない。

 その耳には信西の声は雨音と混じり合い、遠い雑音のように響くばかりであった。


(やれやれ、全くこの信西という男は、その坊主頭の中には何が詰まっておるのか。これで世間では知恵者で通っておるのだから呆れたものだ)


 八郎といえば玉藻の脳裏にあるのはただ一つ、如何にしてあの子を亡きものにせん。

 信西には勝手に喋らせておき、ひとり黙考する。


 大宰府の軍勢など、どうせ命に従って仕方なく集まった烏合の衆。そんな兵たちに討たれる八郎ではない。

 たとえ雲霞の如き大軍が相手であろうと、たった一騎でも敵陣に乗り込んで、並み居る敵の武者を蹴散らし大将を血祭りに上げる、その位は軽々とやってのけるであろう。なにしろ、このわたくし自身が腹を痛めて産んだ子なのだから。

 遠からず鎮西は八郎に席巻されるに違いない。そうすれば、ますます八郎を討つのは困難になる。

 都から大規模な討伐軍を送るにしても、公卿どもは決定に無駄な時を費やすであろうし、編成はいつになることか。ぐずぐずする間に八郎は鎮西を束ねてしまう。

 荒くれ武者を纏める総帥ともなれば、昼夜に渡って周辺には厳しい警護が張り巡らされ、たとえ刺客を送ろうとも成功は期し難い。

 やはり策を講じて京におびき寄せるしかあるまい。そのための餌となり得るのは為義ではない。例の比叡の娘は八郎と共に逃げたままである。だとすれば他には法然とか申す比叡の坊主、あるいは江口の長者……


(いや、最良の餌は新院か!)


 よし、信西館の一件では、あの者の助力のせいで八郎を処分すること叶わなんだ、その借りをここで返すとしよう。

 じわじわと新院を追い詰め、捕らえるか、自ら決起せざるを得ないよう仕向けるのだ。されば八郎も急ぎ京に上って来るであろう。そこに義朝、清盛らをけしかけ、京の都を戦乱に陥れ、八郎を討つ!


 玉藻の脳裏に炎上する京の町が描かれた。そこに倒れ伏す血まみれの八郎の姿。

 自らの結論に玉藻は満足する。氷のように冷たく微笑んだ。

 これを信西は鈍感にも、自分の報告がついに玉藻を喜ばせたものと誤解した。


「ですから今度こそは間違いなく八郎為朝の首を取れるかと。楽しみにお待ちくだされ」


 と話を結んだ。その顔は愉悦と自負に満ちている。自らの方策が上々の結果をもたらすであろうと信じて疑わないのだ。


「そうですか。では信西殿に任せて更なる朗報を待つとしましょう」


 玉藻は信西の手段の稚拙さは重々承知しながらも、そう答えた。

 愚かな男だが使える間だけは使わせて貰おうとの存念である。

 信西が表立ち、せいぜい派手に動いて世間の耳目を集めれば、皆の不満や恨みはその身ひとつに集まることになる。


(世の流れは早い。いずれ信西のような小才を誇るだけの男は、物事をかき回すだけかき回してくれたあげく、自らの首を絞めることになろう。その時は見捨てるだけのことじゃ)


 形の上では養父だが、そこに情も恩義の念も感じない。玉藻にとって信西は、自分を利用しようとして逆に己が利用されていることにも気づかない、ただ滑稽なだけの存在である。

 そして玉藻は三度みたび沈黙した。

 信西を無視して虚空を凝視し、聞くべきことは聞いた、後は早々に立ち去れと言わんばかり。

 あらためて思案する。


 面妖な。やはり遥か西、鎮西の方角に奇妙な霊気のうごめきを感じる。これはもしや、まつろわぬ古き神々が放つ神気か。

 ふん、現世のことにろくに関わることもできぬ幽事かくりごとの国の住人が、今更しゃしゃり出てきて何を企むやら……

 そうした玉藻の姿に信西は俄かに不安に駆られ、おそるおそる問いかける。


「何をお考えで」

五月蝿うるさい! 其方に話しても詮無きことです」


 邪魔された玉藻は不機嫌に言い捨てた。その語気は刺すように鋭い。

 そしてまた思案に耽る。

 信西は二度と声を掛けることも叶わない。

 雨は更に激しさを増す。鳥羽東殿の床はじっとりと湿っていた。


 同時刻、肥前の国、唐津の砦では時葉が弁慶を相手に不満をぶつけていた。

 肌も汗ばむ炎天下、目の前では紀八と他の隊長たちが兵の訓練に余念がない。肥前もまた梅雨の季節ではあったが、ここ数日は晴天に恵まれた訓練日和である。

 唐津砦は海沿いの丘陵に立ち、背後には崖と海が天然の障壁を成している。そこから上がってくる風が兵たちの顔と身体に心地よく吹きつけ、熱を持った全身を癒してくれていた。


「あの白縫とやら、なにが神降ろしか! 怪しげな芝居を打ちおって。神かどうか知れたことか!」


 もう何度目であろうか。時葉の不満と怒りの言は回数を増すごとに激しさを加えていくようであった。


まことの神意か、それとも神にことよせた娘の戯言たわごとか、自分以外は誰にも分らぬではないか。そもそもが大蛇などとたばかって我らを誘き寄せた娘ぞ。なぜあんな奴を味方にするのだ!」


 それまでは適当に相槌を打ち、言葉少なに同意を示してきた弁慶も、さすがに辟易としたか、


「しかし、最初に手を出したのは、矢を放ったお前ではないか」


 つい反駁したが最後、


「それが何じゃ! 当然ではないか。あの娘は事によっては八郎を斬ろうとしたのだぞ! しかも、女たちは得物を持ち出しおった。捨て置けば我らに掛かって来たじゃろう。お前たちも応戦の構えだったではないか」

「あれは場合が場合だったので、一応は用心のために」

「甘い! 相手に害意が見えた以上、先んじてこちらが相手を倒す、それがこの乱世で命を長らえる秘訣よ。悠長に様子など見て何とする!」

「だが、結局は争いにはならなかった」

「ふん、さしずめ八郎の矢の威力に恐れをなしたのであろう。くみし易しと見れば、どうなっていたか分らぬわ!」


 時葉の剣幕に弁慶はついに首をすくめる。何か言えば言うほど火に油を注ぐばかり。

 と、そこに紀八が歩み寄ってきた。


「二人とも、黒髪山から帰って来たばかりですまんが、兵たちの稽古の手伝いば頼めんか。槍やら弩やら、なにしろ儂らも扱い慣れん得物だけん、人手が足りんのじゃ」


 これは弁慶にとっては願ってもない幸いであった。


(おお、地獄に仏とはこのことか)


 即座に立ち上がり、


「勿論じゃ。喜んで手伝おうぞ」


 と快諾した。その表情は「救われた!」と叫ばんばかりの笑顔。

 そして、無口な男がこの時ばかりは早口で時葉にも促すのである。


「わしは槍、お前は弩じゃ。さあ急いだ急いだ。戦は近いぞ」


 弁慶は脱兎の如く兵たちのもとへと逃げ出した。

 時葉も不承不承ながら立ち上がる。

 深く嘆息し、目を細めて天を仰ぐ。そこには蒼天を背景に流れゆく雲と、何もかも忘れさせるような焼けつく太陽があった。

 潮風が時葉の頬を撫でる。風の吹き寄せる先に目をやれば、そこにはどこまでも続く海。京に居た時には想像もしなかった開けた景観である。

 雲と太陽、風と海。それらを感じながら時葉は自分自身に誓う。


(よし。此度の戦で無二の手柄を立て、八郎にも皆にも私がどれ程の女か見せつけてやろうぞ。あんな娘のことなど、もう知ったことか)


 大宰少弐・藤原宗頼が四千の軍勢を率いて押し寄せたのはそのおよそ十日後、仁平元年五月末のことであった。

 後に「唐津の合戦」と呼ばれるようになる、八郎為朝の名を広く世に知らしめた戦いである。

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