第38話 月影

「これは、唐書で言う汗血馬か!」

「さあ、それは分からんが、儂が宋の国の商人に乞うて特別に手に入れた西域の種じゃ」


 この頃の日本の馬の体高は、小柄なもので四尺以下、大柄なもので四尺三・四寸といったところ。だが、眼前の馬のそれは優に五尺半にも至るであろう。

 当時の男性の背丈を遥かに超えている。なにしろ、引いてきた厩番の頭頂が、その背中にも届かないのである。

 大きさだけではない。細身の馬体ながら、筋骨は見るからに鞭のようにしなやか、伸びやかな四肢は揃って逞しく、足首はきりりと引き締まっている。突き抜ける強風のように走り、激しい波濤のように高く跳ねる姿が思われた。

 毛色は金属的な光沢が美しく明るい乳白色。豊かなたてがみと尾の毛は優美な絹糸のようであり、よく見ると金色を帯びているようにも思われる。それでいて肌は浅黒く、目は思慮深さを感じさせる濃く深い茶色。

 月光に照らされたその姿は、まさしく「月影」の名にふさわしい。

 八郎は思わず馬に近寄ってその頬を撫で、話しかけた。


「綺麗な奴だなあ、お前は」


 馬もまた、かけられた言葉が分かるかのように嬉し気に頬を手に摺り寄せる。

 初めて出会う相手を警戒せず、親愛の情を示して返すとは!

 自分から話しかけておきながら、八郎はこの反応に驚く。駿馬にありがちな神経質さが微塵も感じられない不思議な馬である。

 八郎はもう、この馬にすっかり惚れ込んでしまった。その目には涙が滲む。頭を下げずにはいられなかった。


「俺は八郎という。いまだ未熟者だが宜しく頼む。いずれお前に相応しい男になってみせようぞ」


 これが八郎と、その生涯の愛馬・月影の出会いであった。

 およそ半刻後、博多に向かう面々が揃う。

 狩衣姿の八郎と重季、そして頭を白布で行人包にし、いつもの黒衣を着た弁慶。

 重季と弁慶もまた、義親にあてがわれた馬に乗っている。月影ほどではないが、雄大な馬体の馬であった。

 加えて義親が命じた四名という、総勢七騎の一行である。

 時葉には義親と共に舜天丸の保護という大切な仕事が与えられた。

 八郎は一同に告げた。


「良いか。皆が一団となって馬を走らせる必要はない。自分なりの速さで博多に向かうべし。そして王昇殿の屋敷で落ち合うとしよう」


 馬の質も違うし、義親に指名された四人は鎧をつけている。彼らの速度に合わせれば博多に着くのが相当に遅れるであろう。そう思っての指示である。


「では、行くぞ!」


 八郎は先頭を切って月影を駆り、館と砦のある丘を一気に下った。すぐさま後続との距離が離れていく。

 初速からして他の馬とは段違いなうえに、ぐいぐいと速度を上げていく。八郎が煽るまでもなく、これが月影の普通の走りなのか。前脚の伸び、後ろ脚の蹴り、それらを制御する全身の筋肉の挙動が違う。今まで乗った馬の全てを遥かに凌駕する、経験したことのない速さである。

 まさに風を切って走りながら八郎は驚喜した。


「凄いぞ、月影」


 そして月影は八郎の声に応じるかのように、目の前に迫る小川を一気に跳び越えた。煌々と冴えた月の光が、まさしく人馬一体となった姿を宙に照らし出す。


 八郎が博多に達したのは僅か一刻の後、日付が変わった子の刻の半ばである。十数里もの距離を、たった一度の短い休息を挟んだだけで駆け抜けたのだ。

 普通の馬なら様子を見ながら何度も休ませ、数刻もかけてやっとの道程であろう。月影はしかし、とりたてて汗をかくでもなく、息の上がった風でもない。速さはもちろんだが、その持久力も常軌を超えている。

 唐房に入ると、辺り一帯が真っ暗で人気ひとけもなく、荒涼とした寒気ばかりが漂っていた。時折あちこちで怒号や嬌声が響くのは、やはり暴徒や夜盗の類であろうか。

 王昇宅の門扉は破壊されており、そこを守るはずの門番や護衛の姿もない。


(これは、思ったより酷いな)


 月影を庭へと乗り入れ、玄関先で大きく一声かけてみる。


「松浦党の頭領・義親が孫・八郎為朝じゃ。誰か居られるか!」


 奥からは何の返答もない。ひっそりと静まり返っている。

 八郎は下馬し、邸の中へ入ってみることとした。すると月影がその後についてくるではないか。八郎と共に、自分も中の様子を窺おうというのである。


「すまんな。お前は邸の中に入る訳にはいかんのだよ」


 月影を押しとどめ、ふと思いついて付け加えた。


「ここで番を頼むぞ。怪しき奴が現れたら蹴散らして構わぬからな」


 言葉の意味を理解したかのように月影は待ちの姿勢に入る。向きを変えて門の方向を睨み、それは確かに不審者を警戒するかのようであった。

 広い邸の中は静まり返り、真っ暗である。だが、八郎は元来が夜目が利く。しかも月影を駆って夜道を走って来たばかりである。漆黒の暗闇の中にも、うっすらながら家の中の荒らされた様子が見てとれた。

 家具調度がひっくり返され、器物の破片が散らばり、そして倒れ伏す何人もの屍。いまだ埃が舞い、血の匂いが濃厚に漂っている。

 いつもの豪奢で整った館の様子が一変している。ひたすら無残であった。


(民の命と暮らしを守るべき官が、なぜこのような真似をする)


 怒りがこみ上げた。しかし、今は王昇とその家族の安否を確かめ、まだ守れるものを守らねば。邸の隅々にまで届けとばかり大声で名乗りながら奥へと進む。


「以前にも何度か伺った八郎為朝じゃ。王昇殿の知己・義親の指示でこちらに参った。誰か無事な方が居られたら返事を頂きたい。味方である。心配なされるな!」


 何度かの名乗りの後、更に奥の部屋のひとつがぼうっと薄明るくなった。名乗りを聞き、恐る恐る灯りをつけたのであろう。数人が動く気配がする、八郎はその方向へと急いだ。


「おお、御無事であったか!」


 そこに見たのは王昇の妻女。侍女や子供に支えられながら青白い顔で立っていた。

 八郎は何度か見知っている。宋人の妻ではあるが、何代にも渡る博多商人の娘で、その顔だちも身なりも生粋の我が国の女性である。


「八郎様ですか! ああ」


 前のめりに崩れ落ちそうになるのを八郎が受け止めた。


「もはや心配めさるな。俺が来たからには大丈夫じゃ。王昇殿はどうなされた」

「夫は瀕死です。もう、何が何だか!」

「落ち着きなされ。まずは王昇殿の所へ」


 気丈なはずの妻女が取り乱す様をなだめて制し、王昇が介護されているという奥の間に向かう。そこもまた真っ暗であった。

 灯りがつけられると、寝台に横たえられた姿があった。手や脚、胸や背中までも斬りつけられ、その痛みと流血ゆえであろうか、気を失っている。

 包帯で全身を巻かれたその姿に八郎はまず危惧したが、近寄って確かめてみると血は既に止まり、息こそ荒いものの鼓動は規則正しく、とりあえず危機は脱したと思われる。


「重傷だが、生き死にのさかいではないと見た。安心されよ」


 その時、月影の嘶きが響いた。


(何事か!)


 八郎はすぐさま玄関へと取って返す。そこにあったのは既に月影の蹄に掛けられた数人の姿であった。やさぐれたまげや着物。明らかに暴徒である。

 混乱と夜陰に乗じて、この邸に押し入ろうとしたらしい。

 哀れなものだ。馬蹄で蹴られ踏み潰され、あるいは顔や首を噛まれ、血を吐いて横たわっている。


「月影よ、さすがだな。良くやってくれたぞ」


 言ってはみたものの、八郎は半信半疑である。

 まさか自分の言ったことを理解して、こ奴らを撃退した訳ではあるまい。ましてや、侵入者が暴徒であるか否か、馬に判断できるはずがない。

 すると月影が八郎に歩み寄り、その顔を八郎に摺り寄せてきた。日に干した清潔な藁のような暖かく心地良い匂いが漂う。


(俺の言いつけを果たしたから褒美に頬を撫でろと?)


 その通りにすると、月影は目を細めて明らかに喜んでいるようであった。

 八郎はあらためて驚嘆する。

 もしかして、この馬は人語を解し、しかも怪しき者の害意さえ感じ取るのか!

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