第31話 博多にて
二日目の寄港地は周防。ここまで来れば博多はもうすぐだ。
翌朝、また日の出と共に出航し、長門と豊前を隔てる海峡に差し掛かったのは昼過ぎであった。
後の世で言う関門海峡である。右に赤間関、左に門司崎を控える、狭いところでは幅が四半里にも満たぬ海を船は飛ぶような速度で進んで行く。
「ちょうど大潮なのでしょうな。潮の流れが速うございます」
驚くほど早く海峡を抜けると、そこには全く景色の違う海が広がっていた。玄界灘、そして日本海である。
波は荒く、色も瀬戸内の海とは違う。濃く暗い藍色である。
(なるほどな。こんな猛々しい海を渡るには、余程に構造をしっかりと考えた、このような巨船でなくてはなるまい)
八郎は更にその彼方に思いを馳せる。
叡山で学んだところによれば、この海を越えた半島には高麗の国、その先には遼や金、宋の国があるという。とりあえずは鎮西だが、いつかはそんな国々にも、いや、もっと遠くへも必ずや行ってみせようぞ。
やがて目的の博多が近づく。ところがここで思わぬことが起こった。
忽然と多数の船が前方から現れ、八郎たちの乗る唐船と瀬戸内から随行してきた海賊衆の船の進路をふさいだのだ。
そしていきなり銅鑼や太鼓を鳴らし、弓を射かけ、怯んだところに近付くや敵船に躍り込んで、ばたばたと瀬戸内の海賊衆を斬り伏せる。むろん海賊衆も応戦するが、それをものともしない恐るべき勇猛さである。
戦いが続き、海賊衆の何艘かが炎上した。帆が焼けて火が立ち昇るだけではなく、油でも撒いたのか、炎は船全体に広がった。
どう見ても尋常の戦いではない。なぜゆえ占領した敵船をこそ最大の戦利品として奪わず、燃やしてしまうのか。何かただならぬ遺恨でもあるものと思われた。ならば八郎たちの乗る唐船も無事で済むはずがない。
案の定、新たに現れた船団のうちの一艘が近づいて来た。
自船を八郎たちの唐船に横付けするや、先端に鍵爪の付いた縄を投げて船縁に引っ掛け、それを伝って数人が船腹をよじ登ってくる。
甲板に立ったのは、赤銅色に日焼けした逞しい半裸の男たち。
「我らは松浦党じゃ!」
その大声を聞いて客も水夫たちもいっそう恐怖した。それもそのはず。声の迫力もさることながら、松浦党といえば鎮西に名高き
唐船の水夫たちの大半は宋人であるものの、何度も海を渡ってきているからには松浦党の名は聞き及んでいる。この頃の水夫ならば荒くれ者と相場は決まっているが、その彼らの顔でさえ一様に青ざめた。
しかし、男の次の言葉は別の意味で皆を驚かせるものであった。
「安心せい。危害を加えるつもりはなか。ただ、源八郎為朝という者が乗っているはずだ。その者に用がある。出て来い!」
八郎は首を捻った。
俺には海賊の知り合いはいないぞ。ましてや、初めて来る鎮西の地で俺の名を知っているとはどういうことだ。
もしや信西入道の手の者か。まあよい。だとしたら斬って捨てるまでだ。
咄嗟に八郎を庇おうとした重季をずいと横へ押しやり、前に出た。
「俺が八郎為朝だが、何の用だ」
「
「だから、何の用かと聞いておる」
「わしらと一緒に来て貰おう」
「嫌だな」
「何てか!」
男は八郎の不敵な返事に声を荒げる。
八郎は逆に問うた。
「見ず知らずの相手に来いと言われて、はいはいと付いて行く馬鹿はおるまい。まずは、お前たちに命じた者は誰か、それを聞かせよ」
「せからしか。黙って言う通りにせんと少々手荒なことになるばい」
「ほう、どうなるのだ」
「腕の一本ぐらいは貰うても構わんて言われとるけん、そぎゃんこつになっても知らんぞ」
男は居並ぶ仲間を振り返り声を掛ける。五人が一斉に剣を抜き払った。船の上で扱いやすいように短めの刀である。
不穏な言葉にもかかわらず、抜いた刀を持ち替え、刃ではなく峰をこちらに向けた。
(ふうむ。信西の手の者ではなさそうだな。もしそうならば、ついて来いなどと面倒なことは言わず、いきなり殺す気で斬りかかってきそうなものだ)
八郎はそう判断した。腰に下げた太刀を抜こうともせず、ただ男を挑発する。
「どうした。構えているだけでは俺を捕らえることはできぬぞ。さっさと用を済ませよ」
これに怒ったか、男は刀を振り上げて迫るや一気に振り下ろした。
だが、その動きは重季の剣戟の鋭さに慣れている八郎にとっては緩慢そのもの。軽く避け、相手が力んでふらついたところを左拳で顔に一撃、もう一方の拳で横殴りに腹に一撃を入れると、堪ったものか男の巨躯はその場に倒れ伏した。
次の瞬間、八郎は宙に跳ね、続く男の顎を蹴り上げる。脳震盪を起こしたらしく、呻き声も上げ得ず仰向けにどうと転がった。
更にもう一人、目の前の瞬時の出来事にうろたえる男の首筋に手刀を一閃すると、これもまた無言で倒れ伏す。
この間、弁慶は一人を当身で昏倒させており、重季もまた別の一人を太刀の峰で打ち据えていた。
「さて、こ奴らをどうするか」
八郎がそう呟くと、
「こうすればいいのだ」
と、弁慶は男たちの身体を船べりまで引きずっていき、高々と頭上に持ち上げて、
「そうれ、お仲間だぞ。受け取れい」
次々と海に投げ込んでいった。船に残っていた松浦党の仲間たちは思わぬ成り行きにあたふたするばかり。
唐船に乗り込んだのは恐らく彼らの中でも腕利きの者たちだっただろう。それが皆、あっさりと打ちのめされて海に叩き込まれたのであるから、彼らの慌てぶりは相当なものであった。
ここで弁慶は唐船の水夫たちを一喝した。
「何をしておる。この隙に船足を速めて、海賊たちを振り切るのだ」
水夫たちは思い出したように持ち場に散り、唐船は速度をはやめていく。こうなれば彼らの小ぶりの船では追いつくことはできない。みるみる松浦党の船影は遠いものとなっていった。
「いったい今のは何だったのだ」
八郎は問うが、もちろん重季にも不明である。
「まあよい。博多に着いた後に松浦党とやらについて調べれば、多少は分ることもあるだろう」
「それしかないでしょうな」
「鎮西に来て早々、まだ陸にも上がらぬうちに思わぬことがあったものだ。この分だと、これから先もいろいろと楽しめそうだな」
八郎は持ち前の屈託のなさで言い放った。
およそ半刻の後、湾に入り、博多津が目の前に迫る。その一角に、船の上から見ても明らかに他と違うとわかる、異風の建物の立ち並ぶ地区があった。唐房、すなわち後世に言うところの大唐街である。
博多の貿易港としての歴史は古い。この時代より千年近くもの昔から、大陸との取引を一手に引き受ける玄関口であったのだ。
今では多くの宋人たちが住み、商いを営んでいる。中でも、江口の翁が文を書いてくれた相手は綱首、つまり多くの商人たちを束ねる大物だという。その人物が、あの唐房に居を構えているのである。
沖の
港の賑わいは渡辺津をも大きく凌ぐ、想像以上のものであった。
幾つもの船から多くの荷物が運び込まれ、すぐさま荷車でどこかへ運ばれていく。逆に艀で運び出されていく荷も大変な量。それらを差配する商人、人夫、物売りの声などが飛び交って、景気のいい凄まじい喧騒である。
海岸から見える街の規模もはなはだ大きい。いったいどれ程の人々がここで暮らしを営んでいることか。興味は尽きないが、まずはやはり宋人の大商人とやらに会いに行かねばなるまい。
一行は船の上から見えた唐房の方向へと歩き出す。
赤や緑、異国風の派手な色の瓦が目を引く家や蔵が立ち並ぶ唐房の、ちょうど中心あたりに目指す屋敷はあった。土塀を巡らせ、まるで寺のような壮麗な門を構えた、辺りでも一際目立つ邸宅である。
門番に名を名乗り要件を告げると、すぐに執事らしき者が現れ、かねてから知らされていたのか、八郎一行を中に招き入れた。通されたのは八郎と重季が居間、残りの者は別室である。
居間といっても和風のものとは全く違う。中央には凝った彫り物を施した大きな卓が据えられ、その回りに椅子が置かれている。部屋に飾られた幾つもの絵や、巨大な白磁・青磁の壺や色鮮やかな大皿、目を見張る豪華な調度も異国風のものばかり。
椅子のひとつに座っていた主人らしき人物が、八郎たちを見るなり立ち上がって挨拶をした。
「源八郎為朝様ですな。江口の長者様からの文は確かに受け取っております。どうぞお座りくださいませ」
身なりは宋風。しかしその言葉は流暢で、全く我が国の者と変わりがない。
歳の頃は四十過ぎであろうか。表情はあくまで温和だが、顔色は日焼けして精悍である。ただ机に向かって帳面をつけているだけの商人ではないと思われた。自分自身が船に乗り、何度も大陸へ往復しているのだろう。
人物は姓を王、名を昇といい、父の代からこの土地に住んで、その生まれも博多だという。
茶が出された。部屋には三人しかいないのに、茶は四人分であった。
「実は、話を聞いて、その八郎為朝様に是非とも会いたいと申される方が、ここに来ておられるのです。まずはその方を御紹介させて頂きますように」
会った
王昇が隣室に声を掛けた。
「どうぞこちらへ」
「おう」
声がして、大柄な人物がのっそりと部屋へ入ってきた。
かなりの老人と見えるが、丈は八郎に負けぬほど高く、皺の深いその容貌は魁偉そのもの。禿頭に武家風の身なりで、着物の上からでもその身体の逞しさが見てとれる。なんとも得体の知れない、だが只者ではないと感じさせる人物である。
その人物が八郎の正面、四杯目の茶が置かれた席に座るなり、いきなり言った。
腹の底に響くような重みのある太い声である。
「お前が八郎か。あの惰弱な為義の子にしては、なかなかの面構えじゃな。覇気が顔に表れておるわ」
八郎ばかりか父・為義のことも呼び捨てである。しかも為義のことを「惰弱」とは。
これに重季が引っ掛かった。
「どなたかは存じませぬが、初対面の八郎君ばかりか、河内源氏の棟梁たる為義様までもそのように呼び捨てされるとは、いささか無礼なのではありませぬか」
その言葉と表情は既に不快感に満ちている。
「ましてや『惰弱』などと、言葉が過ぎましょう」
しかし相手は全くもって動じない。
「ふん、
そして椅子に深く背を持たれ、両手を組んで重季を見据えた。
「確か貴様は、我が家に代々仕えた須藤家の重季だったな。王昇に見せて貰った文に名が書いてあった。だがまあ、儂のことが分らぬでも仕方がないか。都を離れて対馬に赴いた時、貴様はまだ生まれておらなかっただろうからな」
重季には思い当たるところがあった。
為義様を「息子」とは。対馬といえば。そして、亡き祖父や父からかつて話に聞いた或る人物を思わせる、この豪胆ただならぬ容貌と
重季の顔色が変わった。姿勢を正して口調を改め、今度は一転して最大限に相手を敬うかのように尋ねる。
「まさか貴方様は」
「
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