第30話 海を渡る

 幼い頃に八郎が見たものよりも、はるかに大きな船である。

 長さはざっと二十丈近くもあろうか。帆柱はなんと三本。その高さがまた、見上げると首が痛くなるほどである。遠く海を渡るにふさわしい雄々しい船であった。


「これは、なんとも凄いな」


 八郎が呟くと、重季も頷いた。


「はるばる宋からやって来た船ですな。この船ならば、予想よりもずっと早く鎮西に着けましょう」


 外洋船ならば速度も相当であろう。

 この時代、ふつうの船旅であれば、摂津の港を出た船は一日をかけて播磨か、せいぜい備前に着き、翌日はまた別の船に乗り換えて備中か備後で停泊するというように、何日もかけて瀬戸内の海を沿岸沿いに渡っていく。その度に宿を探し、荷物を乗せ換えるといった面倒も結構なものであった。

 だが、この船ならば一気に安芸までも行き、翌日の夕刻にはもう博多に達するのではないかと思われた。


 荷は既に積み終わっていたらしく、やがて出航となった。

 いよいよ帆を張る。真っ白の、横方向に多数の割り竹を入れた、三角形の優美な帆である。

 船は最初はゆっくりと桟橋を離れ、やがて徐々に速度を上げていく。

 大型船だけあって揺れも少ない。この分ならば、さほど船酔いに苦しむこともなく旅を続けられそうだ。

 熊野生まれだと称する鬼若を除き、時葉も孤児たちも海は初めてである。船べりから乗り出すように海を眺めるその目は、この上ない驚きと好奇の光に満ちていた。


 季節は春。三月の海は陽光を受けて、そのおもてがきらきらと輝いて目に眩しい。

 頭上を舞い飛ぶかもめの一羽が船の舳先に舞い降り、まさにその前に立つ八郎と目が合った。白い全身の中でひときわ目立つその真っ黒な瞳は、あたかも「どこへ行くのか」とでも問いかけているように思われた。


 渡辺津を出て少したった頃、こちらへ向かってくる一群の船団があった。

 いずれも小ぶりの船である。八郎たちの乗る唐船を取り囲むや、今度は同方向へむかって進んで行く。乗っているのは半裸の屈強な男たち。


「あれは何なのだ」


 八郎の問いに、すぐさま重季が答えた。


「海賊衆ですな。だが、何も言わずに一緒に船を進ませているところを見ると、話は既についているのでしょう」


 普段なら船を寄せてきて交渉をし、自分たちが海上に勝手に設けた関の通行料、いわゆる帆別銭を要求したり、代価と引き換えに航海中の警護を請け負うが、拒めば乗り込んできて略奪に及ぶのだ。

 相手によっては、いきなり襲う場合もあるだろう。

 この唐船は、おそらくは何度も瀬戸内の海を渡っており、あの海賊衆とは今までにもう交渉ができているのだろうと重季は言うのである。


「熊野にも似たような海の民がおる」


 ずっと黙って傍らに立っていた鬼若が、めずらしく言葉を発した。無口な男であるが、数年ぶりに海を見た興奮がその重い口を開かせたのか。


「ほう。それも俺は初めて聞くな。やはり海賊なのか」

「ああ。常々は海運に従事したり、海に出て漁をしたりしておるが、時には余所者よそものの船を襲ったり、自分たちの権益を守るために戦ったりもする。熊野水軍というのじゃ」

「なるほど。水上の軍、すなわち海の武士か」


 海上の治安が確立されていない時代である。商船が自衛のために武装すれば、それはもう海賊に極めて近いものになる。争いが頻繁に起これば、それを生業なりわいとする者たちも出てくるだろう。


「若君は、以前、大輪田泊に行った時のことを覚えておられますか」

「ああ、もちろんじゃ。清盛殿に会ったな」

「あの時、清盛殿は海賊討伐の帰りでありました」


 重季は自領が海に面した河内なだけあって、海賊衆のことにも詳しい。その聞くところによれば、あの後も海賊の粛清は着々と進み、瀬戸内の海賊は大方が平家の傘下か、従わぬ者は滅ぼされてしまったという。


「瀬戸内の海の民の中でも最大のものは渡辺衆といい、元々は摂津源氏の一流だったのが、これも今ではすっかり平家の家人と化しておりますとか」


 海賊衆を抑え大輪田泊の改修に力を尽くして、宋との貿易を一手に収めようという平家の経済意識は、土地の豪族を配下に収め、ただ自らの支配力の及ぶ土地を拡大することによってのみ勢力を伸ばそうとする源氏のそれとは明らかに一線を画する。

 後の世の言葉を用いれば、平家の重商主義と源氏の重農主義とでも言うべきか。金銭や世俗のことには疎い八郎にも、両者の目指すところの違いは明らかに感じられた。


 最初の寄港地は備後。海賊衆の船足に合わせたため、思ったよりも一日の距離が伸びなかったのだ。

 ここに来るまでに播磨と備前の境あたりで一度、備中でもう一度、海賊衆の船団が入れ替わっている。重季によればその理由は、彼らの小型の船ではいちどきに鎮西まで赴くには適さないこと、そしてもうひとつは、


「海賊にはそれぞれの縄張りがありますからな」


 ということであった。摂津や播磨近辺はどの水軍の、そして備善から備中あたりまでは別の水軍のというように、それぞれの領域が決まっているというのである。

 それを聞いて八郎は軽い溜息をつく。


(ふう。自由であるべき海の上でまで、ここは自分の縄張り、あそこからは誰のとか主張するとは、陸の上と同じではないか。海賊衆も案外せせこましいことよ)


 意外なことに、船を下りて今夜の宿を探す必要はなかった。

 なにしろ巨大な唐船なので、船倉部分がしっかりとした隔壁で幾つにも仕切られ、それぞれが積み荷のための倉庫、あるいは船室とされており、そこで寝泊まりすることができたからである。

 この隔壁は周りの船板を支える働きもし、また、仮に一つの船倉に浸水したとしても、扉をしっかりと閉じることによってそれ以上の被害を防ぎ、容易に沈没しないように工夫されていた。


(さすがは外海を渡る船だな)


 八郎は異国の人々の知恵と、その規模の大きさに素直に舌を巻いた。


 翌朝、備中の泊を出て更に西へ向かう。

 途中、船の甲板でちょっとした見物みものがあった。

 鬼若がいよいよ剃髪し、成人の僧としての名乗りを上げるというのである。

 八郎たちの一行のみならず、船の水夫や他の客たちまでが取り巻いて見守るなか、鬼若はぼうぼうの蓬髪を自ら剃り上げ、青々とした頭になった。


「さあこれで、わしは生まれ変わったぞ。先日、不覚にも深手を負ったあの時、未熟な鬼若は死んだ。今日からは新たな生を全うするのだ」


 そして、いかにもすっきりとした顔を八郎に向けて言う。


「ついては新たな名前が必要だ。八郎よ、わしに名前をくれい」

「俺がか? お前より年下だぞ」

「そんなことは構わん。わしは貴様に感謝しておるのだ。わしの命を助け、時葉を救い出してくれたではないか。名付け親は八郎しかおらん」


 さすがの八郎もこれには面食らう。

 まったく、時葉といい鬼若といい、なぜゆえにこ奴らは「嫁になる」とか「名前をくれ」とか、突拍子もないことばかり言い出すのだ。

 俺自身がついこのあいだ元服を終えたばかりだというのに、もう人の名付け親になるとか、とんだことになったものだ。

 しかし名前も無しのただの「坊主」と呼ぶわけにもいくまい。

 うーむ。


「仕方がない。考えよう。だが、後になって文句を言うなよ」

「誓おう。決してそのようなことはせぬ。八郎のくれる名前なら、何であろうと有難く頂こうぞ」


 八郎は額に手を当てて、ほんの少し思案する。

 確か、あの頼長という男は、俺の父親と兄の名を合わせて「為朝」という名前をでっち上げおったな。まったく安易なやり方だが、名を付けるというのがそういうものなら、俺もそれに倣ってみるか。

 とりあえず命名し、後は鬼若自身に任せるべし。名の縁起が良いか悪いかなどは知ったことか。

 とんでもない名付け親もあったものだが、鬼若みずからの指名である。


「よし。では聞くが、お前の父上の名前は何という」

「弁昌じゃ」

「叡山で仏法を学んだというが、その時の師の名は」

「西塔におわす慶心」

「ならば、その二人の名を合わせて、弁慶というのはどうだ」

「なるほど、弁慶か」

「とりあえず考えた名だからな。気に入らぬなら断っていいぞ。自分で別の名前を考えるとよい」

「いや、気に入った。有難く頂こう。今日からわしは源八郎為朝の第一の臣、武蔵坊弁慶じゃ」

「ちょっと待て。その武蔵坊というのは、いったい何だ」

「武は武者の武、蔵は大蔵経の蔵から取ったのだ。経律論の三蔵をまとめた、尊い仏典の総集の名だぞ。どうだ、武蔵坊弁慶とは、勇ましくも知恵のありそうな名前であろうが」

「武蔵の国とでも関りがあるかと思ったが」

「そんなものは何もない。字を組み合わせ、良さそうな語呂を選んだだけよ」


 言いたい放題である。

 これに重季が黙っているはずはない。


「待て待てい! 名前はとにかく、第一の臣とはどういうことか。八郎様が幼い頃から仕えてきたのはこの儂じゃぞ」

「ああ、そうであったな。仕方がない。ならば一番目はお主でよいぞ。わしは第二の郎党で我慢してやろう」

「それだけではない。そもそも臣や郎党という自称も何事じゃ。八郎様はまだ、貴様と主従の契りを結ぶなどとは言っておられないではないか」

「まあ、細かいことは言うな。わしが八郎を自分の主に相応しいと認め、生涯仕えようと決めたのだ。だったらもう主従よ。いわば、押し掛け郎党じゃ」


 自分で「押し掛け」と言うのだから世話はない。

 鬼若あらため弁慶は、辺り一面に響き渡る大声でからからと笑った。


「ああ愉快じゃ。こんな清々すがすがしい気持ちになったのは、生涯において初めてぞ」


 そしてまた、青空を仰いで、とめどもなく哄笑する。

 周りの皆はただ呆れるばかり。

 こうして八郎に二人目の郎党ができたのである。


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