第26話 玉藻ふたたび 

 この名前に八郎は意表を突かれた。


(清盛殿に、しかも義朝兄者だと!)


 二人が姿を見せるより先に、新たに大勢の武者たちが母屋の左右から現れ、八郎と時葉を取り囲んだ。公家侍とは明らかに違う平家と義朝の屈強な郎党である。戦慣れしているらしく、その動きは統制がとれている。

 予想外の事態に、さすがの八郎も戸惑った。


(ううむ、困ったぞ。こ奴らを全て斬り捨てることもできようが、まさかそういう訳にもいくまい。大切な家人であろうからな。さて、どうすべきか)


 そして屋敷の奥から当の二人が現れた。

 八郎が久しぶりに見た清盛は、いかめしい鎧こそ着込んではいるものの、殆ど以前と変わらぬ闊達とした姿であった。

 しかし義朝は違った。

 源氏館で対峙した時の溢れるような覇気が全くなくなってしまっている。顔は生気を失い、焦点の定まらぬ目で時葉を見やっては、屋敷の奥に視線を送り、そしてまた時葉を見据える。苛々として落ち着かぬその様子は明らかに異常に思われた。

 信西は再び叫んだ。


「召し捕れ。いや、殺して構わん。皆で掛かり、なます切りにしてしまうのじゃ」


 だが、武者たちは動かない。当然だ。彼らの主は清盛であり義朝なのであるから、二人のめいなき限りは戦闘行動に入ることは許されぬ。

 これに信西は苛つき焦った。


「ええい、清盛、義朝! 二人とも、疾く武者どもに命を下さぬか!」


 清盛は内心では憤慨する。

 信西の物言いは、まるで臣下に対するそれではないか。本院にすり寄って小才を誇示するばかりの愚物が、なにを偉そうに。我らは貴様ごときに膝を屈するいわれはないぞ。

 しかし、そんな不快を易々と表に出すような清盛ではない。


「はてさて、たっての依頼なので来てみれば、なんと娘ひとりの奪い合いですか。そんなことに我が家の大切な郎党を使う訳にはいきませんな」


 飄々として信西を揶揄する口調である。そして八郎を見やる。


(ふむ、これがあの童か。思った以上に逞しく育ったものよ)


 感慨にふけること僅かの間。にっこりと笑い、さも親し気に声を掛けた。


「久しぶりじゃのう、八郎君。わしのことを覚えておられるか」


 これに八郎も笑みを浮かべ、応じた。


「ああ、清盛殿。覚えておりますとも。あれはもう七・八年も前になりますか」

「そうじゃ、大輪田泊で会ったのじゃ。立派になったのう」

「清盛殿も御壮健そうでなにより。少しもお老けになられぬようで」

「ははは。嬉しいことを言ってくれる。やはりあの時、無理矢理にでも息子にしておくべきであったかな」


 およそ場にそぐわぬ会話である。まるで、思わぬ再開に喜ぶ旧知の友人が交わす挨拶ではないか。これに信西は驚き呆れ、あんぐりと口を開ける。

 しかし、八郎と話しながらも、清盛は実は心中で算をめぐらせていたのだ。

 公家侍とはいえ、これだけの数をたったひとりで片付けるなど、尋常の力量ではない。しかも、斬り伏せられて血を流しているのは抜刀した者ばかり。他は太刀の峰で叩かれ、あるいは拳撃をあびて倒れ伏しているだけのことであろう。

 それでいて本人は息も切らしておらぬとは。この余裕は並大抵の若武者のものではないぞ。そんな相手に我が家人をけしかければどうなるか。信西入道などのために、そのような利もない危険が冒せるものか。


 そんな清盛の一連の口ぶりと態度に八郎は安堵する。


(できればこの二人とは争いたくない)


 傍らにいる時葉に告げた。


「逃げるぞ」

「何じゃと」

「逃げるのだと言っておる」

「なぜじゃ。武士は敵に背中を見せぬものではないのか」

「俺は義朝兄者や清盛殿とは戦いたくないのだ。あの二人は、いずれ新たな世を作るために必要な、源氏と平家の惣領だからな。その郎党も無駄に傷つけたくはない」

「そうか。八郎がそう言うなら分かった。逃げようぞ!」


 ところが、大きく頷きつつ発した時葉の最後の言葉に、これまで無言であった義朝が思わぬ反応を見せた。いきなりくわっと目を見開いて郎党たちに命じたのだ。


「捕らえよ! その娘を捕らえるのだ。八郎は、そうだ、構わぬ。斬れ」


 義朝の郎党たちは困惑した。

 彼らの中には八郎を見知っている者も多い。かねて命じられていた通りに取り囲んではみたものの、主の弟君を討ち果たして本当に良いのか。平家の武者たちも動く気配はなし、今の主の常ならぬ様子もどういうことか。


 彼らが躊躇してくれたことが八郎には幸いした。

 すかさず再び弓を構え、近くに生えている庭木の幹めがけて矢を放つ。

 高さ三十尺をも超えようかという葉を落とした大木である。その幹が音を立てて半分以上も砕け、木は大きく傾く。

 更には太刀を抜き払い、砕けた幹に片手ながら渾身の力を込めて振り下ろす。刃は哀れにも折れ、大木は地響きを立てて倒れた。


「八郎、何をしておるのだ。こんな時に」

「これを持っておれ」


 弓を時葉に手渡すと、倒れた大木を両腕で抱え込み振り回し、背後にいた武者たちを右に左に薙ぎ払う。


「さあ、怪我をしたくない者はそこをどけい!」


 そして進むこと十数歩、包囲の輪に穴が開いた。

 これを見て義朝は狼狽した。


「逃がすな! 娘を捕らえよ! 八郎は斬り捨てい」


 絶叫するが、もう遅い。投げ捨てられた大木は地に落ち、哀れにも五・六人の武士たちを下敷きにする。八郎は時葉の手を引いて走り、塀の際まで来るなり抱き上げた。


「な、何をする」

「しっかり口を閉じていないと舌を噛むぞ。弓を落とすなよ」


 時葉の身体を抱えたまま、そこにあった庭石を踏み台に跳ね、宙を飛ぶ。そして二人の姿は塀の向こうに消えた。

 信西も武者たちも、この顛末にただ呆れるばかり。

 義朝は憤怒の形相で郎党に命じた。


「何を呆けておるか。追え。追うのだ。決して逃がすでない!」


 そこに声がかかった。女の声である。


「もうよい!」


 玉藻であった。


「見苦しい。いい加減にせよ」


 義朝は痺れたように硬直する。その目は玉藻の顔に惹き付けられ、何かに憑かれたようにまた虚ろに変じた。


「つまりは八郎の命運が尽きてはいなかったということ。ならば、これからどんな舞を舞うのか、楽しみに見せて貰おうではないですか。追うには及ばぬ。それに」


 玉藻は信西を見据えて言葉を繋いだ。


「武装した多数の武者が八郎を追って通りを走るなど、京の人々の目にはどう映るか。面倒を増すばかり、恥の上塗りです。これ以上は、わたくしには関わりがない。各人が好きにすればよい」


 皆に宣言する、きっぱりとした口調である。


「さりとて、まさか源氏館を長男の義朝殿の軍勢で取り囲む訳にもいくまいが」


 これを聞いて信西入道は歯噛みした。まさに、それこそを考えていたからである。

 では、あの八郎とやらに与えられたこの恥辱を、どうやって晴らせばよいのだ。


「不満そうじゃな。だが、ここで拙速に騒動など起こさずとも、恥をすすぐなどは簡単なこと」


 玉藻は酷薄な笑みを浮かべ、ゆっくりと教唆する。


「信西殿の才覚次第じゃ」

「しかし、追手を差し向けずして、どうすれば」

「つい先程、侍女と申しておったではないか。その通りに言い張って検非違使庁に届け出ればよい。不埒者が屋敷に殴り込んで家人を傷つけ、殺し、あまつさえ侍女を攫って逃げたとな」

「検非違使庁といえば、あれの父親が奉仕する場ですぞ」

「為義殿は庁の別当ではない。死人や怪我人、砕かれた門、残された矢など、これだけの証拠があって一介の役人がどうしてもみ消すことができようか。厳罰に処すように、信西殿の権勢をもって強く別当に言い含めればよいだけのこと」

「しかし、そもそもの発端を調べられては」

「そんなことは、ここにいる皆が固く口を噤んでおれば、どうにでも隠し通せましょう。何なら為義殿の責任も問い、息子の狼藉の罪に連座させてもよい。為義なくしても、こちらには義朝殿がいる。向後に何の不都合もない」

「確かに」

「もしもそれが叶わずば、闇討ちするか毒を盛るという手もありましょう。あの子がどう凌ぐか面白いではないですか」


 手を打って喜ぶ信西入道であった。

 それを横目で見ながら、清盛は寒気のする思いを必死でこらえていた。


(恐ろしい女だ)


 噂に聞く「毒婦」どころではない。謀略を好み、責は他人に投げ、あまつさえ自らの息子を亡き者にして、昔の男も陥れようとは。一片の愛情も憐憫も感じられないではないか。


(とても人とは思えぬ。いったい何を狙っておるのだ)


 いっぽう信西は早速に検非違使庁に対する訴えの準備に入ったのである。

 その顔は今や愉悦に満ちていた。

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