第9話 江口の翁

 年が明け、八郎の傷も癒えた。

 しかしここで困った事態が生じた。

 再開した武芸の稽古をかいま見ては、為義が良い顔をしないのである。

 さすがに「やめい!」とはっきりは言わぬものの、稽古に励んでいるのを見かけると、あからさまに不機嫌な表情を浮かべる。

 やむなく素振りと型の教授にとどめて兵法の講義を主にするが、八郎の気力体力には、やはりそれだけでは足りない。

 日を追うにつれて不満の気持ちが顔に現れるようになった。


(これではまずい。折角うまく行きかけた全てが台無しだ)


 考えあぐねて重季は一日いちじつ、河内にある自領を見せて差し上げると称し、八郎を洛外に連れ出した。

 愛馬の背に八郎も共に乗せ、向かうのは実は江口の長者の元である。

 かつて為義の供をして江口に行ったこともあり、長者とは見知った仲である。

 また、かの翁が玉藻の屋敷を何度か訪れ、八郎をことに可愛がっていたとも聞いている。

 重季にしてみれば、源氏館の誰にも相談する訳にもいかず、この際、僅かな望みにでもすがりたい気持であった。


 途中、乗馬の訓練も兼ねて八郎だけを馬に乗せ、重季はその手綱を引く。

 まだ風は冷たいが、陽光は眩しい。

 都の外に出るのは八郎には初めての経験である。

 野も山も川も、見るもの全てが新鮮だ。

 目を見開き、頬を硬直させて様々なものに見入っている。

 重季は馬上のその姿を見上げ、


(この若君には、窮屈な館の内よりも、明るく広い大地の方が遥かによく似合う)


 と、しみじみと感じた。


 江口の街に入り、勝手知ったる道を辿って長者の館を見つける。

 急な訪問にもかかわらず、八郎を見るなり老人は相好を崩した。


「おお、これはこれは、八郎ぎみ、よく来て下さった。大きゅうなられましたなあ」


 館は内部が幾つにも区切られた異風の造り。

 和風の館に、おそらくは異国の意匠を凝らし、その間取りを取り入れたものであろうか。

 通された居間に、その時代では京でも珍しい茶が出された。

 運んで来たのは年増ながら﨟󠄀ろうたけた美女。

 聞けば、歳はかなり離れているが、老人の妻女だという。

 茶も宋渡りであろう。香り高い、上質の茶である。

 この歓待ひとつをとっても老人の持つ富、そして何よりも、久しぶりに八郎に会った嬉しさが伝わるというものだ。


「お生まれになった時から大きなお子じゃったが、更に逞しゅうなられた。爺のことは覚えておいでか」

「無論じゃ。よく遊んで貰ったな。最後に会ったのは、確か一年と少し前だったか」

「おお、おお! 物言いもますます達者になられて」


 実の祖父さながらの喜びようである。

 妻女も隣でそれを見て笑っている。

 老人に聞かれるままに、重季は自分が傅役になって以来のこと、特に八郎が昨年から武芸や兵法に励んでいること、その上達ぶりを一通り語った。

 そして意を決して居ずまいを正し、


「実は、本日こちらにまかり越しましたのは、長者殿に御相談したい儀がありまして」


 ここで言葉を区切る。

 老人は重季の深刻な表情から察したか、


「ならば、ここからはちと面倒な大人の話ですな。八郎君には退屈じゃろうから、別室で遊んでおられると良い」


 と、いかにもさりげなく応じた。

 妻女も心得たもので、


「では、あちらに参りましょうか。何か、珍しい菓子でも用意させましょうほどに」


 八郎の手を引いて別室に去る。

 重季はそれを見届けて本題を切り出した。


「実は為義様と八郎君の仲についてでございます」


 為義が八郎を見るときの目、話すときの口ぶりが自分には奇妙に感じられる。

 八郎が為義に挑み、見事にその木剣を叩き折ってみせたが、為義はそれを褒めもせず、即座に八郎に足払いをかけて横転させ、その腕を踏み砕いた。

 それ以来、八郎が武芸に励んでいるところを見ると、露骨に不快な顔をするので、重季が八郎に稽古をつけるのもままならぬ状態である。


 全てを語り、最後に言い添えた。


「それがしには為義様のなさりようが、とても実のお子に対する父君のそれとは思えないのです」


 老人は黙って聞いていた。

 理由については大方の想像はつく。

 色街の顔役として長年務めていれば、男女の色恋沙汰については嫌というほど見聞きするものだ。

 つまり為義は、八郎が自分の子であるかどうか疑っているのであろう。

 やはり、玉藻と為義が出会ってから、八郎が生まれるまでの期間が短すぎた。

 そしてまた、八郎が利発で壮健なだけに、ただでさえ長いあいだ内紛の絶えぬ源家において、兄たちとの仲が将来どうなるか危惧しているのだ。

 伝え聞く経緯いきさつで玉藻が院の御側に上ったなら尚更だ。

 残していった子に対して憎しみや警戒心を抱くことはあっても、愛情を抱くことは望み得まい。

 しかし、それをこの誠実そうな傅役に言う訳にはいかない。

 為義が口にせずにいる心の秘密を、自分が憶測で語って良い筈はなく、ましてや、この傅役まで出生について疑念を抱くことがあれば、八郎はかけがえのない味方を失い、その立場はますます微妙なものになってしまうだろう。

 自分には為義と玉藻の間を取り持った責もある。

 八郎のことはぜひ何とかしてやりたい。


 そしてぽつりと、


「八郎様は良い傅役を得られた」


 と呟いた。

 重季はそれを聞いてか聞かずか、


「若君と父君の間を、どう取り成せばよいのか分からないのです。どうか長者殿の御知恵を!」


 と、がばと両手をつき、頭がゆかに付くまでに低く平伏した。

 老人は茶をすすりながら思案する。

 目を閉じて暫く考え、それからまた茶を一服。

 これを繰り返すこと数度にして、思案がまとまったか、ゆっくりと言った。


「八郎君をわざと、為義様や皆に侮られるようにお育てなさいませ」

「なんと仰る!」

「真の愚鈍に育てよと申しておるのではございません。手前が思うに、為義様は八郎君のことを恐れておられる。だから、表向きは柔弱に見えるように仕向けるのが肝要、上策と言っておるのです。そうすれば為義様の警戒も解けましょう」

「しかしそれは、若君が他の御兄弟に努めて親しく接せられ、それがしが何とかして主を説くことによって成るのでは。その方策をばお聞き致そうと、今日は参った次第で」


 老人は悲しそうに小さな溜息をついた。


「無理でしょうな。八郎君はそんな気質ではない。他に何の取り柄もなく、ただ年長というだけで己を見下す兄君たちに、自分からすり寄っていくなど、およそ考えられませぬな。また、為義様も猜疑心の強い方です。ひとたび疑い始めた相手を容易く信じることはないでしょう」

「そ、それは確かに」

「ですから、柔弱を装って相手を油断させるのです。どうせ八郎君は、いずれは源家などという小さな所に収まるお方ではない。そんな肩書や後ろ盾などなくとも、古今無双の武将に育つと器と手前には見える」


 これ以上ない絶賛の言葉であった。

 重季は喜びにうち震えながら、次の言葉を待つ。


「江口には名の通ったお武家様や公卿様もおいでになる。それらの方々を重々見知った手前が感じるのです。どうか信用して頂きますよう」

「ならばその具体をお聞きしたい。どのようにして皆を欺くのか」

「そうですな。書を読んで学ぶ分には為義様も異存があられぬようですし、館では兵法を始めとする学問の習得に時を費やし、武芸の鍛錬は目立たぬ程にとどめておくのが良いのでは。されば、いずれ周りは八郎殿を文弱の若君と見なすようになりましょう。一方で、物見遊山やら何やらの口実を設けて外出を専らにし、武芸の稽古は狭い館内ではなく、広々とした野や山で行うのです。八郎君ご本人も、そちらの方が余程お喜びになるような気が致しますが」


 重季は深く納得した。

 目の前の霧が晴れるような心地であった。

 老人は更に言った。


「そうと決まれば、今日は我が家にお泊りになり、明日は川を下って若君に難波なにわの海など見せて差し上げては如何かな。おお、そうじゃ。天気が良ければ、いっそ海に出ても楽しかろう。そうして大輪田泊まで行けば、あそこは平家の力の強い地。為義様の目も届くまい。それに忠盛殿はこの頃、宋との貿易にご熱心でのう。港造りに町は活気に溢れておる」


 ここまで楽し気に一気に続けたと思いきや、今度は一転して突然の小声で悪戯気に、


「乗って来られた馬は誰ぞに命じて堀川の館に返しておきましょうて。もちろん手前の名は伏せた上でな」


 と笑った。

 そして屋敷全体に響かんばかりの大きな音で手を叩き、酒席の用意を命じた。


「さあ、今日は八郎君をお迎えした宴じゃ。嬉しやのう!」

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