清盛と義朝
第10話 清盛と出会う
翌朝早く、翁の手配してくれた舟に乗り淀川を下る。
八郎は舟は初めてである。さすがに最初は少々怖がるかと思われたが、実際に乗せてみると、そんな心配は無用であることが分かった。
両岸の景色や川面を飛ぶ鳥に目を奪われ、あれは何かこれは何かと盛んに重季に、重季が答えられないと今度は船頭に問いかける。あげくは身を乗り出して水の中を覗き込み、魚の泳ぐ様など見て飽きることがない。
水に対する恐怖より、好奇心の方が遥かに勝っているのであろう。
「面白い」
八郎は思わず口に出して喜んだ。
昨夜の歓待も結構なものであったが、やはり子供である。酒を飲むでもなし、集められた女たちの遊芸の趣が分かるでもなし、贅を尽くした料理の数々を味わって楽しんではいたものの、今朝の喜びぶりはまた格別である。
琵琶湖の水は、天智帝が築かれた大津の都の辺りから瀬田川として南西に流れ出で、京を流れる鴨川と合流しては宇治川と呼ばれ、摂津に入っては
古代からの経済の大動脈である。
流れを下るにしたがって次第に川幅は広くなり、岸を行く人の通りも増え、やがて大河と呼ぶにふさわしい姿になった頃、目指す渡辺津が迫る。
川岸に築かれた幾つもの桟橋には、忙しく立ち働く人々の姿があった。
八郎は
「あれは何をしておるのじゃ」
「西国から海を渡って港に着いた荷を、京に運ぶために川舟に乗せ換えておるのです」
「同じ舟ではいかぬのか」
「海と川では広さも深さも全く違います。海がどれ程のものか、御覧になったら若君もきっと驚かれましょう」
船を桟橋のひとつに着け、船頭は海船の手配に走る。
そして重季に導かれ、八郎は初めて難波の海を見た。
(これは!)
今までに見たどんな景色とも違う。明るく青く、どこまでも続いている。
言葉を失い、しばし見惚れた。
重季はその様子に満足する。
(やはり長者殿の仰る通り、若君に海を見せて差し上げて良かった)
頃合いを図って話しかけた。
「やはり海はいいですな。眺めているだけで気持ちが雄大になる」
その言葉に八郎は我に返り、問うた。
「いったいこれは、どこまで続いておるのじゃ」
「さあ、それは分りかねますが、確かなのは鎮西、
「なんと、唐天竺の先にも国があるのか」
「当然でございましょう。
「砂漠とは何じゃ」
「伝え聞くところでは砂の海でございます」
八郎は絶句する。この世にはそんな所があるのか。
果てしない大海原を渡れば唐土、その先には草原や砂の海と、更には名前も知れぬ多くの国々。その広大さを心に思い描けば、自分が暮らしている源氏館の内は勿論、京や畿内などほんのちっぽけな、取るに足らない狭苦しい領域ではないか。
(大陸へ、できればその彼方の国々へも行ってみたい)
八郎の夢は大きく膨らむ。
渡辺津はこの当時、瀬戸内の海と京を結ぶ最重要の港であった。西国や、遠くは宋から運ばれてきた荷は、ここを起点として京や奈良、その周辺に運ばれる。
また、武家源氏の祖として名高い頼光の四天王が筆頭・渡辺綱の治めた土地であり、源家にも縁が深い。綱の子孫は滝口の武士として清涼殿を守護し、あるいは海運を
江口の賑わいも相当のものであったが、ここはまた、港町独特の喧騒と活気が溢れんばかり。
荷車が盛んに行き交い、油断すると敷かれてしまいそうだ。
道行く人の中には明らかに宋風の装いの者がおり、取引をしているらしい商人たちの会話にも、聞きなれぬ異国の言葉が混じっている。商う品々を知らせる旗や幟に書かれている語の多くも唐土の文字。
あちこちで響く嬌声、歓声。
潮と魚のにおいに加え、食欲をそそる香りが漂ってくるのは、出店で供している煮物、焼物、汁の類か。
しかも、売り買いに用いるのは主に銅銭らしい。異国との貿易によって宋銭が大量に入ってくるのだろう。
全てが八郎には驚きであった。
先程までの船頭が掛け合ってくれた海船に乗り、大輪田泊へと向かう。
川を下ってきたものとは比べ物にならぬ大きな船である。しかしこれでも、泊に停泊する他の巨船と比べればささやかなものだ。
八郎はまた思う。いつかはあのような巨船に乗って旅をしてみたいものだ、と。
難波の海を二刻あまりもかけて横切る。天気は上々、内海であり波も穏やかである。
大掛かりな修築が行われているだけあって、監督の武士や親方だけでもかなりの数。加えて無数の人夫が額に汗して働いている。
土を固める大きな胴突きの音、木槌で杭を打つ響き、もっこで土砂を運ぶ者たちの前後の拍子をとる掛け声、怒号、哄笑。
まだ出来上がっているのはほんの一部だが、船の上からも見えた全体の工事の規模は、これが完成すれば渡辺津にもまさる相当なものになるだろうと思われた。
ただの開削や堤防、桟橋造りではない。古くからの泊の前面に人工島を築いて、風浪に破壊されない安全な碇泊施設としようというのである。
その様子を見て、八郎が尋ねる。
「渡辺津が既にあるのに、なぜここにも泊を造るのだ」
「あれは摂津源氏の治める地ですから。平家の忠盛殿からすれば、宋との貿易を行うにあたって、みずからの自由になる港が欲しいのでしょうな」
昨夜、江口の長者殿が話してくれたところによれば、忠盛殿は鎮西にある知行地を通じて宋との貿易を始められたとか。それで得た舶来品の一部を院に進呈し、近臣として認められるようになったという。
ところが、これを越権行為として訴えたのが大宰府である。まあ、数百年ものあいだ対外交渉を一任されてきた大宰府からすれば、忠盛殿のしたことは面白くなかろう。
また、忠盛殿にしてみれば、院宣を得て大宰府の異議を抑えたものの、二度とそのようなことの起こらぬ自前の港を得たい。そこでこの大掛かりな工事に打って出たという訳か。
しかし、それにしても壮大なものだ。
重季が考えていると、八郎がまた問う。
「これだけの造作にかかる費用を、平家はいったいどこから工面しているのだ」
「長者殿の話では、領地である伊勢で産出する銀を大量に費やして、ということです」
「多大な財を費やしてもなお余りある、宋との貿易はそれ程の利益になるということか。やることが大きいのう。俺は大きな話は大好きじゃ」
心から楽しそうに笑った。
その時、辺りの空気を揺るがす程の大きな銅鑼の音が鳴り渡る。銅鑼は一度では終わらず、何度も連続して叩かれた。
何事かと思っていると、それまで一心不乱に働いていた人夫たちが、
「若殿じゃ!」
「無事に帰って来られたぞ!」
と、つい先ほど八郎たちの船が着いた桟橋へと走っていく。その向こうには泊に近づいてくる十数隻の船団が見えた。
八郎たちも何事かと、人夫や職人の集団に続く。
集団のひとりに重季が尋ねてみると、
「若殿が付近の海賊衆の討伐を終えて帰って来られたのじゃ」
という返事であった。
桟橋に迫る先頭の船の舳先に立っているのは、平家の嫡男である清盛。この時、二十六歳にして位は既に従四位上、肥後守に任じられていたが、船上に立つその姿はおよそ貴公子らしからぬ奇装、荒々しさ。
鎧は着込んでいない。身軽さが求められる船上での戦いに大仰な鎧は邪魔になるし、もしや海に落ちた際にはその重さが命取りになるからだ。
垢じみた直垂の上に女物とおぼしき派手な小袖を羽織り、髪は結わずにざんばらに垂らしたまま、黄金作りの太刀を腰には下げず、片手で肩に担いでいる。
この頃、平家は港造りと並行して、自らに従わぬ海賊の討伐を進めていた。宋との貿易をしようというのであれば、その経路である瀬戸内の海を制し、安全を確保しなくてはならない。今日も海賊を討ってからの帰還である。
(それにしても、この破天荒な
重季はさすがに心中で眉をひそめるが、周囲は平家に関わる者ばかりである。努めて顔に出さぬようにし、清盛一行が生き残りの海賊衆とおぼしき者たちを数珠繋ぎに引っ立て、意気揚々と船から降りてくる姿を見守った。
大輪田泊は平家の治める地。そこで若殿の帰還を前に仏頂面などしていればどうなるか。万が一にも見咎められて騒動になるのは避けたい。ましてや、その末に源氏の者と知れれば更に面倒なことになるだろう。
源氏と平家は暫く微妙な関係にある。ならばここは只の通りすがり、見物人として素知らぬ顔でやり過ごすべし。
ところが清盛は、同年配ということもあり、北面の武士として院の警護をしていた頃から重季の顔を見知っていた。
「須藤殿ではないか」
自らの家と源氏の確執など一体全体どこ吹く風、桟橋から続く道脇の群衆の中に重季の顔を見つけ、気安げに話しかけてくる。
重季もやむを得ず、それに答えた。
「はい。清盛様もお元気そうで。一層の御活躍、聞き及んでおります」
「いやいや、官位は頂いたが、どうも殿上勤めは性に合わんでな。それでこのように海賊退治などに励んでおるわい」
辺りを憚らぬ大声で放言し、破顔する。
そして重季の隣に立つ八郎に気づき、問うた。
「もしかして、そなたのお子か」
重季は慌てて頭を振り否定した。
「滅相もない。為義様の若君、八郎様でございます。今日は大輪田泊を見せて差し上げようと思いまして」
「ほう」
興味をそそられたか、清盛は膝を曲げて姿勢を低くし、八郎の顔をまじまじと覗き込んだ。
大抵の者なら視線の鋭さに耐えられず顔をそむけるか、さもなければ、「無礼な!」などと怒り出すところであろう。しかし八郎は目を逸らすこともなく視線を受け止め、そして突然に満面の笑みを浮かべた。
相手の開けっ広げな真摯さが可笑しくもあり、嬉しくもあったのだ。
清盛は目を丸くして驚き喜んだ。
「なんと! 良きお子じゃ。八郎殿よ、お幾つになられるか」
「五歳じゃ」
「これは驚いた。わしの長男の一つ下、二男と同い年ではないか。それにしては背も高く、逞しいのう。目鼻立ちもしっかりして賢そうじゃし、胆力も十分と見た」
ここで天を仰いで考えること僅かの間、
「よし!」
の声と共に、さも楽し気に言い放った。
「どうじゃ、八郎殿、わしの子にならんか」
顔はにこやかだが目は極めて真剣である。
思いがけぬ成り行きに重季は狼狽する。
「御冗談を! 八郎様は源家の将来を支える大切なお子ですぞ」
「いやいや、決して冗談などではないのじゃが。わしは本気ぞ」
「滅相もない。どうかお戯れはもう御勘弁くださいませ」
「だから戯れなどではない。わしは本心からこの子が気に入ったのじゃ。是非とも貰い受けたい。八郎ということは男だけでも八番目じゃろう。それ程の子沢山なら、一人ぐらい何とかならぬか」
「ですから、八男とはいっても源家にとってかけがえのないお子であると……」
重季はますます慌てふためく。
源氏と平家の間で養子縁組など、ふつうに考えれば論外であろう。しかしながら、清盛の気性であれば、実際に談判に及びかねないとも思えるのだ。
両家の間で話がこじれ、原因となった八郎の立場がますます難しいものになるといったことが起りはしないか。あるいは、為義の八郎に対する日頃の扱いを考えるに、事はどう転ぶやら。もしも為義が承知すれば、源家は折角の掌中の珠を失うことになる。
その深刻な表情を、清盛も今は言葉を発せずじっと見つめる。
どれ程の時間であったろう。おそらくは数呼吸の間、だが重季にとっては数刻にも感じられるいたたまれぬ時が過ぎる。
清盛は溜息をつき深くうなだれた。
がっくりとその肩を落とし、しみじみと残念そうに、
「そうか。やはり駄目よのう。残念じゃ。わしは本当にこの八郎君とやらが気に入ったのだが、まあ仕方がない。諦めよう」
と言い残して立ち上がる。後は闊達に笑いながら歩き去った。
船の舳先に立つ颯爽とした姿から最後の笑い声まで、一連のことは吹き抜ける風のようであった。
そして、この時の清盛の姿と話しぶりは八郎の記憶にいつまでも鮮やかに残った。
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