堀川源氏館

第7話 傅役(もりやく)・重季

 源氏館に引き取られた八郎には、新たに傅役もりやくが付くことになった。

 為義が選んだのは須藤九郎重季しげすえ

 まだ二十代なかばと若いが、父祖の代から源家に仕えている心利いた郎党である。

 顎髭をたくわえた、歳に似合わぬいかつい風貌で、背丈はそれほどでもないが筋骨逞しい。


 八郎は初めこの男が嫌いであった。

 母を奪われ傅役を与えられたからではない。

 そもそも母も嫌いであった。

 母自身が八郎にそのように、世の全てを憎むように教えたのだ。

 この世には善なるものは一つもない。

 人の好意や仏の慈悲などを信じるのは迷妄の最たるものである。

 正しく、そして楽しく生きんと欲するならば、あらゆる者は自分の奴婢か、さもなくば敵であると考えよ。

 なぜそう教えたのかは分からないが、八郎はただ、そういうものだと思い込まされて育った。

 館に移ってからも何かといえばすぐに逆上して、物を壊し、人に叫び散らす。

 そのうえ子供とは思えぬ傲岸さで、年長の兄弟姉妹にも口もきかぬ有様であった。


 重季は誠実かつ利発な男である。

 玉藻の昇殿の件も、口にはしないが心得ている。

 八郎が周囲の物や人に当たるのを暫くは放任して、熱心に身の回りの世話をやいていたが、ある時、その気質をある程度見定めたと判断したらしい。


「全く若君は、てんで弱虫でございますな」


 いかめしい顔をほころばせ、からからと笑った。

 八郎は子供にも分かり易い「弱虫」の言葉に過剰に反応し、むきになる。

 粗暴とか我儘とか言われたことは今までにも多々あるが、自身の弱さを指摘されたのは初めてだ。

 勝気さを露わにして、いきなり怒鳴った。


「何だと!」


 これに重季は落ち着いて答える。


「そうでありましょう。乱暴も狼藉も時と場合によっては結構。ただし、それなりの理由がなくてはならぬ。八郎様のは心弱き子供の、ただの鬱憤晴らしじゃ」

「鬱憤を晴らしてなぜ悪い。俺は周りのもの全てに腹が立つのだ」

「はてさて、源氏の若君がそのようなことでは、郎党は誰もついて来ませんぞ。いずれは人の上に立つべき者の言葉とは思えませんな。情けない」


 情けないなどという言とは裏腹に、重季はまた笑った。

 挑発じみた態度に八郎は激昂する。


「源氏など知ったことか。俺はただの八郎じゃ!」


 甲高い声で言い捨て、重季に殴りかかったが、重季はそれを座ったまま軽く上体を反らして避ける。

 更には腕を掴んで捻じりあげ、うつ伏せに押し倒して抑えつけた。

 年齢の割に身体は大きいものの、八郎はまだ四歳である。

 口惜しさと痛みに耐えながらうめいた。


「き、貴様、何をする」

「おやおや。性根が惰弱なだけかと思えば、喧嘩の方も不得手なようですな」

あるじの子に対して、この所業は何事ぞ」

「源氏とは関係のない、ただの八郎様が、今度は『主の子』でございますか。都合のおよろしいことで」

「か、重ね重ね無礼な」

「無礼とは片腹痛い。たとえ郎党であろうと、主が無体に及べば当然にり返しますものを」


 そして重季は、さも今にして思いついたかのように、


「そうじゃ。鬱を払うにも身体を鍛えるのにも、武芸の稽古に励むのが一番」


 八郎を放して立ち上がり、微笑みながら言った。

 それは、悪意を微塵も感じさせぬ優しい笑みであった。


「さあ、強くなりたければ、早々に始めましょうぞ」


 八郎はこの声をうつ伏せのまま聞いた。

 そして心に誓う。

 くそ傅役め。このままでは捨て置かんぞ。

 いずれ倍にして返し、その鼻をあかしてくれる。


 そして八郎の鍛錬が始まった。


 いったん稽古に励みだすや、八郎の没頭ぶり、上達の速さは目を見張るものがあった。

 童にはまだ不似合いな長い木剣を持って渾身の力で重季に打ちかかり、あしらわれ、果ては打ち据えられても何度でもまた挑む。

 毎日、陽が昇るころから夕刻まで、食事の時間も惜しむほど飽きることがない。


 重季は心中で納得する。

 やはり尋常の若君ではない。

 これでこそ鍛え甲斐、仕え甲斐があるというものだ。


 生まれ持った資質もあろうか、八郎の剣は日に日に鋭さを増していく。

 数か月の後、永治が康治と改元される頃には、もう重季も下手な手加減などできず、少し油断すると木剣が鋭く鼻先をかすめ、肩口を襲い、危うく怪我をしそうになる。


(頃は良し)


 次に重季が取り出したのは弓であった。

 以前に八郎が射たような子供用の弓ではなく、特別にあつらえた、短いながらも頑強な半弓である。

 並みの大人では扱いかねるこの強弓を、八郎はこの幾月の撃剣によって鍛え上げた膂力で精一杯に引いてみせた。

 初めは覚束おぼつかなかった矢筋も、数日のうちには確かになり、的に当たり始める。

 そしてついに正中を射抜いた時、八郎は躍り上がって歓喜した。


「見たか!」


 額に汗をかき、誇らしげに叫ぶ。

 重季は大きく頷いた。

 左腕が右よりも長いことから、八郎には特に弓の天稟があると見て取ったのだが、まさしくその通り。

 嬉し気に放つ矢は、一射ごとに速度と正確さを増し、次々と的を射抜いていく。

 だが、陽も暮れ、稽古が終わった時、重季はまたも八郎をからかうように言った。


「太刀筋よりは少しはましだが、まだまだですな。その拙い技が疾くものの役に立つように、いっそう精進なさいませ」


 思惑通り八郎は憤慨し、翌朝からの鍛錬は更に熱の入ったものとなる。


 この年の夏は稽古のうちに過ぎた。

 強い陽光と、京独特のじめじめとした暑さをものともせず、重季めがけて木剣を打ち込み、的をめがけて矢を放つ、その鋭さは既に一端いっぱしの武者の手前を超えている。

 この頃になると八郎にも、子供ながらに重季の真意が分かってきた。


(この傅役は俺を発奮させようとして、わざとからかい、悪しざまに罵ってみせているのではないか?)


 確かに言葉はぞんざいで態度は不遜であるが、武芸の教えぶりは真剣味に満ちている。

 何よりも、自身が急激に強くなっているように思えるのがその証拠だ。

 一心に武に励んでいるせいか、心も軽く、以前のような鬱屈を感じることが少なくなっているようだ。


 相変わらず他の者に対してはろくに口も利かないが、重季にだけは少しずつ心を許すようになる。

 そして秋に入ったある日、八郎の木剣の一撃が、ついに重季の胴をとらえた。


「うっ」


 重季は思わず小さな呻き声を発してうずくまった。

 八郎は喜ぶよりも先に驚き、重季の顔を覗き込んだ。


「大丈夫か?」


 身中から湧き出る嬉しさに、重季は八郎を抱きしめた。

 八郎は驚き、戸惑う。


「な、何をする。稽古の途中ぞ」


 重季は声が聞こえないかのように、もがく八郎をなおも抱きしめていたが、やっと腕を放して莞爾と笑い、初めて褒めた。


「ようも御頑張りになられました。見事でございます」


 そこに二人にとっては折悪く、為義が現れたのである。

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