第3話 懸想
僧房を出た時は既に暗くなっていた。
本堂の前に帰ると、もう人影は殆どなく、幔幕も取り払われている。和尚の言う通り屍は片付けられ、血糊も洗い流されてしまったのであろう。
そこに声がかかった。
「源為義様ですな。お待ち申し上げておりました」
先刻仲裁に入ってくれた小柄な老人である。にこやかに近付いてきて会釈し、身分と名を名乗った。
「手前、江口の色街を
為義はこの偶然に驚いた。
おお、この翁が儂が会おうとしていた長者であったか。
しかし、考えてみればさもあらん。評判の白拍子が法会の日に舞おうというので、長者自らが差配に出張ってきたという訳じゃな。それがあのような始末になり、気の毒なことよ。
この男らしくもなく気が引けたか、頭を下げる老人に対し辞を低くして返答する。
「礼など無用じゃ。こちらこそ折角の舞台を台無しにし、申し訳なかった。それ故、僧房で酷く待たされたあげく、和尚にゆるゆると
「はいなあ。あまり出て来られないので、きっと面倒事になっておると
「手を回すとは」
「まあ、はっきり言うのは
老人は笑う。
これで為義は得心した。
そうか。寺としてはどうしたものか処置に困っていたところ、この翁が裏で銭を積んでくれたので口封じも叶い、盛大な葬式も出せるという訳か。
それをあの生臭坊主め、自分の裁量のように恩着せがましく言を弄しおって。
全く、坊主というもの、油断も隙もならんわい。
苦笑を浮かべていると老人が訊いた。
「それで、詮議はどのような按配で」
「詮議と呼ぶべきものは無かったな。そなたのお蔭よ。それを和尚は自らの度量の如く誇っておったがな。喰えぬ奴じゃ」
「では、全て穏便に収まったのですな」
「
「それは宜しゅうございました。ではこちらへ」
掌を上に指で行先を示し、案内しようとする。
為義は戸惑った。何処へ行こうというのか。
「救って頂いた御礼がしたいと、貴方様がいらっしゃるのを心待ちにしております」
「誰がじゃ」
「もちろん
「玉藻とは」
「御存じではなかったのですか。あの白拍子の名前ですわ」
「ほう」
意外であった。
余計な事と言い捨てたのではなかったか。それがここにきて殊勝にも礼とは。
この時、半天を覆うかのように巨大な稲妻が光った。すぐに雷鳴が轟く。
「春雷ですな。近うございます」
「玉藻というのは、そなたの付けた名か」
「いいえ。元々の名で」
「ほう、典雅なものだな。まさか堂上の出ではあるまいに」
「あの娘の出自については誰も知らないのです」
ある日、長剣ひとつを
さすがに面食らったが、その真剣味と顔立ちに興が湧き、招き入れて話してみると意外にも、古来の和歌にも今様の謡いにも造詣が深い。試しに舞わせてみれば、どこで習ったか、異風ながらも見る者の目を捉えて離さぬ華がある。
そこで望み通り白拍子に仕立て、早々に評判となったが、出自については娘は決して語らないのだという。
「おお、これはいけませんな。お急ぎを」
小雨がぱらついてきた。老人は小走りに駆け出し、為義もそれに続く。
招かれたのは参道を出てすぐの所にある、老人の別宅であった。
「お寺様の御用を承ることも再々なので、いっそこちらにも住まいを構えさせて頂いております」
年に数度の法会の際のみならず、それ以上に度々ということらしい。
寺と色街の顔役が昵懇とは奇妙に聞こえるが、この当時ではままあることだ。
為義は察した。この翁、好々爺のように装ってはいるが、実はなかなかの曲者のようだな。
濡れた衣服を軽く
宴の準備が整えられ、薄紫の
「ようこそいらっしゃいました」
顔を上げる。かの白拍子、玉藻であった。
その姿は
幾重にも重ね着した着物の彩は鮮やかにして、灯りに照らされた彫りの深い顔が、えもいわれぬ陰影を見せる。
揃えた指はあくまで細く長く、爪は心を刺すかのように鋭利に美しい。
艶然と微笑まれた時、為義は殆ど茫然とし、そして思った。
(俺は、この女に入れあげることになりそうだ)
それから為義の江口通いが始まった。
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