第2話 猫、サラと呼ばれる

「なんていい子なのかしら」


 身の毛もよだつ不快感を感じながらも、それ以上の恐怖心で動けないでいた。

 女は私を水桶に入ったぬるま湯に浸からせ、手拭いで拭いていく。


「品のある灰色。磨けば磨くほど輝くようですわ」


 繊細とは言い難い手つきで体中を揉みくちゃにされ、湯をかけられる。

 私は気を抜けば伸びそうになる爪を、努めて引っ込める。

 あの烽熊の首を易々と落とした腕だ。

 少しでも女の気に障れば、私の身など紙屑のようにバラバラだ。


 私は手拭いで揉まれながら、周りの様子を見た。


 ここは屋敷の敷地内だろう。

 風呂場には採光の窓と暖炉もあり、裕福な貴族の邸宅と言ったところか。

 

「名前……名前はどうしようかしら」


 木の戸すらこの身体では開けられそうにない。

 どうすれば、この女から安全に逃げられるか……


「そうね……サラ。サラっていうのはいかがです。素敵な名前ではありませんこと」


 サラ?

 それが私の呼び名か?


「そう、そうですわ。サラ……気に入ってくれたのかしら」


 私は『私の名はゼラだ』という意味を込めて鳴いてみたが、通じてないようだ。

 女は私を手拭いで乾かしながら、『サラ』『サラ』と呼んでくる。

 幼子を相手にしているつもりか。不快なことこの上ない。


 もう、我慢ならん。

 私は爪はひっこめたまま後ろ足で手を蹴り付け、そのまま女の腕から飛び出た。


「サラ。元気になりましたのね」


 まだ少し濡れた身体を思いっきり揺らしてその水滴を弾く。

 私の長毛は思った以上に水を吸っていたのか、女にまで水がかかった。

 いい気味だ。今の今まで好きにしてくれた礼になるだろう。


「ふふ、ふふふ」


 前言撤回。

 この女。濡れて喜んでいる。


 気味の悪い笑顔を張り付けながら、血走った目でこちらを見てくる。

 身を悶えさせながら、何かを噛みしめている。


 怖い。


「……かわいい」

 

 何だって。


「ああ、もうっ。何だってそんなに……かわいらしいのかしら」


 女はこちらににじり寄って来ると、膝をついて身を横に倒す。

 私はこの女と目が合った。


 嫌な予感がする。


 私は一足飛びで後ずさった。

 ついさっき私が居た所で女の腕が振るわれ、女は前のめりに転ぶ。

 驚きのあまり、威嚇の声が漏れそうだ。


「つれないですわ。サラ……」


 馬鹿力と俊敏さ……紅騎士崩れは面倒だ。

 件の『悪党貴族』のご令嬢か。若いなりに薫陶が行き届いている。

 調べる必要がある。

 私をこんなに身体にした奴らの一味であるかどうかを。


 距離を保ちながら窓を見る。

 今ならあそこから抜け出せそうだ。


「いけませんわッ」


 私が一歩目を踏み出そうとしたその時。女は手拭いを広げながら近づき、半歩で私の足元まで躍り出ると真新しい手拭いで私を包み込んだ。


「わたくし花嫁修業なら済ましていましてよ」


 あっという間だった。いつの間にか私はおくるみに包まれていた。

 何という早業……これが、紅騎士。


「湯冷めしてはいけませんわ。温かくして御食事にいたしましょう」


 私は胸に抱かれて運ばれる。身動きも取れそうにない。

 部屋を出て、廊下を渡り、階段で地下室にまで降りた。

 ここは作業部屋か倉庫だろうか。樽が並び、隅のフックには獣がつるされている。


 「さあ、御覧になって。わたくし手ずから仕留めた牙豚ディノボアですわ。あれを使って御馳走を作って差し上げますので、お待ちくださいね。」


 そういうと女は地下室から上階に戻り、私を抱いたまま廊下を歩いて行く。

 よく見ると屋敷の掃除は行き届いていないようで、そこらが埃と蜘蛛の巣でまみれている。


 どれほど歩いたのか。この体では距離の感覚も把握しづらい。

 女は重そうな扉を片腕で軽々と開けると貴族の私室然とした部屋に入れられた。


「腕によりをかけて調理致しますわ」


 私は一人……いや、一匹で残された。

 窓は無く、ランプの灯があっても薄暗い。


 部屋には所狭しと人形と剥製が置かれ、物置と見まごう状態だ。

 上等そうなベッドとテーブルのお陰で、何とかここが寝室だと分かる。

 

 あれは……テーブルの上に鳥籠がある。


 だが、中に居たのは鳥ではなかった。

 妖精だ。私も生きた妖精を見るのは初めてだ。


 大きさは手のひらに乗るくらいか。翼は……片側に傷がある。

 上下する胸がこの妖精の生存を証明し、こめかみのあたりに角が……


 目元に動きがあった。目がゆっくりと開かれ、寝惚けた様に身体を起こす。

 覚醒状態に至ったのか、瞳が見開かれ、顔は引きつっている。


「い、いやぁッ⁉来ないで」


 小さな身体でつんざくほどの声が出るものだ。

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