人嫌いな魔術師が煤猫として生きざるを得なくなった訳と顛末。
午前零時
第1話 猫、令嬢剣士に連れていかれる
鬱蒼とした森を走る。
短い脚じゃ、こんなにも走りにくいのか……
恐らく、あと数刻で日が沈むことだろう。
ここは魔の森だ。留まっていれば、たちまち魔物に食い殺されてしまう。
どこか身を隠せる場所を探さなければ……
近くにあるのは……例の貴族の屋敷くらいか。
魔王崇拝者の嫌疑すらかかっている一族だ。賭けみたいなものだな。
方角は、南西。
距離はこの脚でもぎりぎりと言ったところか。
この体も悪い事ばかりではなかった。私の目ではきっと何も見えていないだろう。不幸中の幸いだ。まったく、嬉しくないが。
不思議と方角も分かるし、迷うこともないはずだ。
脚に力を入れて全力で駆ける。
身体の真ん中が痛いほど脈打ち、全身に血を巡らせていく。
爪を使って地を掴み、蹴る。飛ぶように駆ける。
獣道ですらない森の中を草木に幹枝をかいくぐりながら進むと、匂いを感じた。
実に『美味しそうな』匂いだった。
目を瞑り、鼻を鳴らす。すぐに、見当がついた。向こうの木の裏に何かある。
温かい。新しい。強く、大きい。
抜き足、差し足ゆっくりと、そこにある何かを窺う。
こんなことに気を取られている場合じゃない。だが、我慢ならなかった。
やはり、そうだった。魔物の死体だ。それも新しい。
恐ろしく牙を発達させた姿。名は知らないが、そこそこの魔物ではあったはず。
町に居た頃、酒の席で聞いたことがある。
その肉は大変美味であると。
自分の喉が鳴った気がした。
口を半開きにしながら、誘われるように近付いてしまう。
気付けば私は牙豚の肉を貪っていた。
鋭利な刃物で付けられたのだろう傷口から、皮下の肉に食いつき咀嚼する。
身体中に気力が巡る気分だ。
これは仕方がないことだ。
あのまま走っていたら、倒れて動けなくなっていたに違いない。
だから。
私はこの体より数倍もデカいこの肉塊を堪能することにした。
石があった。
そうか、これが魔石か。ただの牙よりは柔らかく、軟骨よりは固い。
処理されていないものを見るのは初めてだが。いけそうな気がする。
食べてみるか。これを……
私の耳がすごい勢いで近づいてくる何かに気付いた。
四本脚の何かがこちらに駆けてくる。
茂みの向こう側だ。
これは、まずいかもしれないな。
あれが魔物なら逃げきれる気がしない。
そうだというのに、私は魔石から口を離せないでいる。
首を振り回して魔石を牙豚から千切ろうとしても上手くいかない。
こんなことをしている間にも、足音は近付いてきている。
すぐにでも……
来た、熊の化け物だ。
口から煙を吐き続けている熊の魔物。
それがまっすぐこちらに近付いている。
あれも血の匂いに惹かれたのだろうか。
「ぶっさいくな猫ですわ」
どこからとなく小剣が飛来し、烽熊の首に突き立った。
呻きながら怯んでると、近付く影が白刃を一閃。
首から血が噴き出ると、烽熊の首が私の足元にまで転がって来た。
私は驚きのあまり、咥えていた魔石をやっと口から離せた。
恐る恐る、顔を上げてみる。
「んん。血で汚れてしまいましたわね。奇麗にしなくては」
上半身に鎧を纏い、下半身をドレスで包んでいる。冗談みたいな姿の女。
そいつは懐から取り出した紙で刀を拭くと腰に差し、歩いてくる。
「どうしましたの猫ちゃん。そんなにも御怯えになって……魔物なら既に退治致しましたわ。どうか、安心なさって」
一歩一歩。金具の音を立てながら近づくと。私に向かって手を伸ばしてきた。
逃げられない。ヘビに睨まれてたカエルの気分だ。
「まあ、御利口さん。どこから来ましたの貴方は?」
女の腕の中に抱かれ、私は震える事しかできない。
「御食事の途中でしたか……はい。どうぞ」
女は牙豚の肉に手を突っ込むと魔石を掴み、ぶちぶちと筋や管が切れる音を立てながら引きちぎった。
母が赤子に乳をやる様に、腕の中に閉じ込められた私は魔石を咥えさせられた。
「いい子ですわ。では行きましょうか」
女は左腕に私を抱き、右手に烽熊の頭を掴むと鼻歌を歌いながら歩き出した。
恐らく、私は誰かに害されることはないだろう……この女以外には。
私は例の貴族に妙齢の娘がいたという事実を思い出しながら、咥えた魔石で気を紛らわすことにしたのだった。
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