第3話 出会い

 ヒヤリとした水がしっとりと肌になじむ。気持ちよくて懐かしい感覚だ。

 俺は白い光に包まれて、人間だった形が水のように溶けて本来の姿へと戻っていく。

 体は薄緑がかった淡い金色。お腹は絹のような光沢があり白くてつるつるしている。胸鰭や背鰭も光に透ける金色で、唯一口が――親指を二つ縦に並べたように分厚い。


 俺の姿は、ぷるんとした桃色の大きな唇を持つとなった。

 元々は仙人や神々が住まう【九仙郷きゅうせんごう】という世界にいたんだけど、人間に興味があって地上に降りてきてしまった。

 けれど俺はまだ未熟で人間に化けるのがへただ。魚の姿で地べたにひっくり返っていた所を、鳳庵ほうあん師匠に救われて今に至る。


 

 『命水めいすい』の泉は、地下を通じて各地に湧く別の『命水』と繋がっている。神魚である俺はそれを利用して、遥か遠く離れた西陵せいりょうの『命水』へ移動することができる。


 『命水』の中を泳いで半刻がすぎたかな。

 前方の視界が明るくなってきた。

 おや? えっ? 水が……水が、ない?


「うええっっぷ!」


 なんだなんだ。西陵の『命水』の泉が枯れかけてる!

 水がほとんどなくなって、お湿り程度になった泉の底で俺は腹ばいになった。


「ごほっ……なんだ……ここの空気……」


 カラッカラに乾いた風が吹いていて、それを吸い込むと胸がきゅうっと痛くなった。


「やべ……皮膚が乾いてきた。息苦し……」


 そういえば西陵って、水城と違って緑が乏しい土地なんだ。

 草木が何故か育たなくて岩と砂しかないらしい。


「えっ、さかな……?」


 その時、誰かが俺の体をそっと持ち上げた。

 大きな翡翠色の瞳。肩甲骨を覆うぐらいの長さの黒髪の少年。

 そして何よりも感じる――命数筆めいすうふで翠星すいせい』の気配。筆を作った師匠の生気の気配が、眼の前の少年から確かに感じられる。


「お前、月桂だな!」


 俺は意識を集中させて、少年の手のひらから飛び出した。

 ぱっと白い光に包まれた俺は、瞬く間に人間の姿で立ち上がる。


「さか、魚が人になった!?」

「そうだよ! 俺は涛淳たおちゅん。お前は月桂だな!」

「お魚さんがどうして私の名前を知っているんだ?」

「魚、さかなってうるさいなあ。俺は今人間だろ? 見ろよこの美しい銀色の髪。九仙郷きゅうせんごうの御池と同じ、澄み切った深い瑠璃色の瞳。そして魅惑のつややかな桃唇ももくちびる。どう見ても美少年だろうが」


「うっ……よくわからないけど。九仙郷――仙界の眷属というのは理解した。そのお魚――涛淳たおちゅんさん、何しにこんな所にきたの? ここは『九黒クコク』の気が濃くて、長くとどまると生気を吸われて命を縮めるよ」


 俺はがしっと月桂の肩を両手で掴んだ。

 やっと見つけたんだ。絶対に逃さねぇ。


「筆を返してもらいに来たんだ。お前の母、風凛ふうりんが五年前に『翠星すいせい』って筆を、鳳月庵ほうげつあんから借りてるんだ。貸出期限が過ぎたから、筆と貸し賃を払ってもらおうか」

「……」


 月桂が不意に黙り込んでうつむいた。

 緑の瞳にみるみる涙が滲んできて、小さな拳が溢れてきたそれを拭っている。


「おい、どうしたんだ」


 月桂はうつむいたまま囁くように呟いた。


「母さんは……死んじゃった」

「なんだって?」

「私は、間に合わなかった……グスッ……後一週間早く、西陵にたどり着ければよかったのに。母さん、西陵に緑をもたらしたいって言ってて……でも体を壊してずっと臥せってたんだ」

「月桂」


 月桂の涙が止まらない。拭っても拭ってもそれは溢れ出てくる。

 俺は黙ったまま月桂の着物を掴む力を緩めて、そっと頭を抱えこんだ。


「思い出したぜ。西陵は……生気を吸い取る『九黒クコク』の気がなぜか濃くて、大地は干からびて岩石砂漠になったんだよな。月桂、お前はこんな大地に緑を蘇らせたいと思っていたのか?」


 肩を貸してやったら気持ちが落ち着いたのか、月桂の頭が小さく縦に頷いた。


「母さんが……それを望んでいたんだ。緑の力を司る『四緑シリョク』の色命数士しきめいすうしとして、大地を蘇らせる方法を探していたけど……この地は母さんの命まで吸い取ってしまった。見て、涛淳たおちゅんさん」


 月桂が俺から体を放して懐に手を入れた。

 そこには淡緑色に光る一本の命数筆が握られていた。


「うお! それは『翠星』だな! よかった~筆が見つからなかったら、俺は一生店に戻れない所だったぜ」


「そ、そうなの。それは申し訳ない。これは母さんのお気に入りの『命数筆』だったんだ」


「そうかそうか。じゃ、返してくれ」

「あ、返すけどちょっと見て。この地の呪われた様を……」


 俺は月桂から筆を取り上げようと思ったが、彼が色命数術しきめいすうじゅつを使い出したので手を引っ込めた。月桂は着物の袖から一枚の短冊を取り出し、右手に持った筆に意識を集中させていた。


 『翠星』がきらきらと輝きを増している。

 月桂が体内にある生気を筆先に集めているからだ。


「我願う。【一つ】日輪降り注ぎ、【三つ】水脈合わさりて――」


 月桂が手にした命数筆――『翠星』の筆先を、手にした短冊へ押し付け数字の一と三を書いていく。数字の【一】は黄色の光。【三】は青い光を放ちながら、それらはぐるぐると回って重なった。


「【四つ】大地に萌ゆる緑とならん!」


 黄色と青色の数字は重なって、ぱっと鮮やかな緑色に輝いた。

 そこには数字の【四】が浮かび上がっていた。


 これが『色命数術』。眼の前で見るのは初めてだけど。

 月桂はえいやとばかりに短冊を足元へ投げつけた。


 ぱあっと真昼の太陽が雲間から射したような光と共に、地面の黒い石ころの合間から、小さな草が芽吹いている。

 それらはみるみる成長して茂みとなり、そして一本のかつらの木が生えて、俺の背よりも高く真っ直ぐに伸びていく。


「すごいなあ……」


 成長した木は枝先にいくつもの葉を茂らせていく。

 月桂はそれを微動だにせず見つめていた。

 なんて子供だ。

 植物が育たないという土地で、緑を生み出すことができるなんて。

 まあそれを可能にしているのは、師匠の作った命数筆『翠星』の性能もあるんだろうけど。


「すげえよ月桂!」


 月桂もまた自分が生み出した大木を見上げていた。が、不意にその体がぐらりと前に傾いだ。


「おい、大丈夫か?」


 地面に倒れる前にその体を捕まえる。

 顔が真っ青だ。命数筆をぐっと握りしめている手も冷たくて震えている。

 閉じられたまぶたがぴくりと動いて、月桂が薄っすらと目を開けた。


「あ、涛淳さん……」

「無理するなよ。お前がすごい『四緑』の使い手っていうのは、ちゃんと見せてもらったからさ」

「ううん。そんなことない。私の力なんて……ほら……」


 俺に体を支えられながら、月桂が右手を前に伸ばした。


「なっ!」


 眼の前に広がっていた草原はいつの間にか茶色くなっていて、それも黒く染まってしわしわになり、乾いた風に吹かれて散り散りになっていた。あの桂の大樹も、新緑色に輝いていた葉がすべて枯れて地に落ちて、残った幹は老木と化していく……。


「何度やっても枯れてしまう。西陵の大地が命を吸い取ってしまうんです。その原因を突き止めない限り……緑をもたらすことなんてできない。私が色命数術で生み出しても、全く意味がないんです。それに気づいたから、もう伽藍がらんで修行する気力が……なくなってしまった」


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