君とクロッカス



 恋人が珍しく早起きをして、身支度をしている。シャツにアイロンをかけ、いつ買ったのか、ベージュのオシャレなセーターを羽織っていた。お姉さんのアイロンを使って髪を巻いて、一体どこへ行くつもりなんだろう。今日は月曜日、登校日のはずだった。

 おしゃれに無頓着な恋人がおめかししたところで、劇的に垢抜けるはずもなく、陰キャがものすごく頑張っておしゃれをしました感が抜けなかったけれど、前髪を上げた私の恋人は、やっぱり、本当に格好が良かった。


「雰囲気変えてみたんだけど、どう?」


 にらめっこしていた鏡越しに、私に問いかける。すごく格好いいよ、という私の声は、うわずって、どこか震えていたように思う。そうか、私の言葉が、やっと届いたんだ。毎日毎日、ちゃんとしたら格好いいんだから、自信持って!とエールを送り続けていたから。

 私が恋人を変えられたという事実に心が震えた。



 新学期、桜色の並木道を生まれ変わったような恋人と歩く。こうして春を迎えるのは三回目だね、そういえば、散った花びらをキャッチできたら、願い事が叶うんだって。よし、学校に着くまでにキャッチできるか競争ね!

 私たちは久々に心を通わせて、舞い散る桜の花弁を追いかけた。しばらくして、恋人が嬉しそうにガッツポーズをした。開かれた左手には、柔らかな桃色の花弁が1枚あった。


「えー!すごいじゃん!」

「願い事叶うかなぁ」

「絶対叶うよ!何、お願いしたの?」

「ひみつー」

「えー、なに、気になるよ。教えてよ」


 とわからないふりをしながらも、彼の目が泳いだのを私は見逃さなかった。私からの問いは濁され、彼がふと校門のあたりに目をやって、


「あ、おはよう!」


といつになく大きな声を出して、私はびっくりする。彼自身もびっくりしたようで、急に恥ずかしそうに声を縮めて、おはよう、と言い直した。

 彼の視界から私は消えて、ボブの元気そうな女の子が「おはよう!」と色鮮やかに映った。桜の美しさに負けない、まばゆい姿に私も釘付けになる。

 この子か、と思った。最近私との時間を邪魔するのは。胸元の名札にある「木村」という苗字。通知に出てきた「キムチ」とかいう臭そうな漬物の女か、と思った。最近彼の思考に流れ込んで、彼がえっちなことを想像しているのは。

 彼が木村の元へ駆けていってしまう。私は「待って」と言えない。言っても、意味が無い。届かないから。私の言葉は、彼にはちっとも。

 彼がイメチェンしたのは、私の言葉が届いたからじゃない。木村。あの子が、私の恋人を変えたんだ。

 今朝、喜んでいた私が馬鹿みたいで笑える。私じゃないという事実は予想以上に重くのしかかり、あるはずのない心臓をぎゅっと絞っていく。


「え、なんか雰囲気変ったね?一瞬誰だかわからなかったよ」

「そうかな」

 

 遠くで照れ笑いする恋人は、一体誰なんだろう。あんな顔、見た事ない。今まで、一度も。

 水中に黒いインクが落とされて、ぶわぁって広がっていくみたいに、嫌な感情がどんどん溢れてくる。手の先から、足の先から、私という存在がどんどん透明になっていく気がした。

 結局私は、最後まで桜の花びらを掴めなかった。




「だから言ったのに。僕たちは、意思を持っちゃダメなんだって」

 

 振り返るときりぎりすが呆れた顔で立っていた。うるさい、と目をこする私に、きりぎりすは白いハンカチを差し出した。


「いらない、こんなの」

「わかってたことでしょ」

「触らないで」


 私はきりぎりすの手を振りはらった。


「僕たちの役目はもうすぐ終わるみたいだね」

「……嫌だな」

「その感情も、ニセモノだって、何度言ったらわかるの」

「じゃあ、きりぎりすがみさきちゃんを好きだったのは?それも、本物じゃ無いって、証明できる?」

「……」


 きりぎりすはじっと黙ってしまった。私たちに課された運命は残酷で、行き場の無い感情はどこへ向っても報われない。


「過去のことは全てが不確かだよ。けど、僕が今、君を大事に思って助言していることは紛れもないほんものの事実だと思う」

「うん。そうだね。けど、まだ、わかんないから。木村と上手くいくかわかんないし。場合によっては、まだ、一緒にいられるかもしれないし」

 

 なんて、あるはずもないことを言ってしまう。恋人になる直前の、あの独特の、お互いを愛おしく見つめる目は、私もよく覚えている。かつて恋人が私に向けた目だ。ああなったら最後、私の恋人は、私を放棄して、木村の恋人になってしまうかもしれない。


「意思を持った時点で僕たちは死んだも同然だ。そんなわかりきった痛みを長引かせる必要なんてない」


 そんなこと、言われなくてもわかっている。ずっと昔から、覚悟していたことだ。それが、こんな急に訪れるなんて知らなかった。いいや、私はどこかで気付いていた。怪しかったのは去年の六月の文化祭。階段で滑って床一面と恋人に紫のペンキをぶちまけた女が確か木村だった。ドジっ子キャラで定評のある、テニス部の女の子。隣のクラスで私の恋人とは何の関わりも無かったのに、それを機に持ち前の気さくさで恋人に絡んでくるようになった女。

 放課後、図書館に入り浸る恋人に、おつかれ!と声を掛けに来た女。私との時間を邪魔しに来た女。木村、きむら、キムチ。なんて、憎たらしい。

 私は、どこか安心していたのだ。だって恋人は、ずっときりぎりすとの性行為を見て満足してくれていたから。てっきり、私だけを見てくれているんだって。そう、思いたかっただけだよね。本当はずっと前から気付いていた。私を思い出す速度も頻度も、徐々に減っていたこと。男の人って、優先順位が下がると、わかりやすいらしいね。放って置いても大丈夫って思われたのかな。誰とでもヤる尻軽女は、ただの目の保養じゃ、本命にはなれないか。そうだよね。

 馬鹿なフリをするのは、もうほんっとうに疲れた。

 きりぎりすはすすり泣く私をそっと抱きしめた。

 温もりが身に染みて痛かった。







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