10

「かかっ、まさか。土も人間も、自然の欠片。土の意志に逆らうのは、人間の意志。占いのに従うかどうかは、おぬしの意志にかかっておるのじゃ」

「えと……じゃあ」と淋。

「残念じゃが、わしから教えられるものはない。土は、この子に名前など授けておらんのじゃ」


 もしこの老人の言葉を信じるなら、本来ならこの子は今頃、名前もないまま、この世を去っていたことになる。しかしだからといって名前を授けていないなんて、節約にもほどがある。どんだけケチりたいんだ?


 何も占ってもらえなくても料金は取るらしかった。占い師からすれば正確に占ったんだから文句も言えない。その後、興奮して未来の旦那様を占ってくれとねだる淋を引きずり出して帰路に就いた。


「名前、どうすればいいんだろう」


 占いもせず人に名前をつけるのは禁忌である。人の名前は偉大なる土から与えられる神聖なものなので、人間ごときが勝手に決めてはならない、ことになっている。


「仮名でつけるしかないか」

「えっ⁈ そ、そんな……それはあんまりだよ……」


 そう。君はそんな子だった。何が習わしだ。何が禁忌だ。すぐ死ぬからって文字一つすら与えなかったつちくれより君の方が偉大なる存在だ。


 土の意志に逆らうのは、人間の意志。


「字は君が選べ。君の子供だから」

「でも、そんなことしていいの? お土様に怒られたら……」

「土が自らの権利を放棄したんだ。罰は当たるまい」


 淋は少し考え、納得したように言った。


「……じゃあ、あんたも一字選んでいいよ。ま、少しは役に立ったんだから」


 別にいいけど。僕はしばらく考えを巡らせた。


「じゃ、順調の順で」

「お。いいね、順」


 従順の順が浮かんだ。どうせなら淋の負担にならない、大人しく従順な子に育って欲しい。


「ふふ。なんかさ、あんたのことだから、もっとひねくれた字にするかと思った」


 頭に疑問符が浮かぶ。


「淋。僕は、ひねくれていない」

「え? ぷっ、はははは! あ、あはは!」



 次の休日。淋は何時間も字典に取り組んでいた。


「生まれてすぐあんな大変な思いをしたんだから、これからは平穏な人生を送ってほしいよね」

「一生分の大変さを使いきった感じだ」


 りんを口の中に放る。あれは本当に大変だった。


「あ! これ、いいかも」


 そして淋はまるで詩でも詠むように、穏やかな声でささやいた。


「風が止んで、波が静まる」


 瞼の裏に湖が広がる。澄み渡った青空の下。風は静かにぎ、水面は鏡のように太陽を映している。


 これが君が切り取った、自然の欠片。


「凪ぐ。なるほど」

「えっ⁈ へ、へー……順はユキとも読めるから、合わせてゆき。どう?」


 在りし日の君の笑顔が浮かぶ。その時も君は、こんな風に悩んでくれていたんだろうか。長年の時を経てもなお、君の眩しさは少しもせていない。


「女の子だっけ」

「そうだよ。つーかそれ、今聞くの……? え、マジで……?」

「まあ、いいんじゃない」

「はぁ……。よし。じゃ、決まりね」



 こうしてこの日、赤子の名前は順凪になった。


 土よ、お前が仕事をしないから僕たちが代わりにやってあげたんだぞ。ありがたいだろ。だから。


 隠世の止まない雨の下。僕は偉大なる土に、どうか、順凪が名前通りの人生を送れるようにと祈った。 

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時雨の境 キド @kido6626

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