第2話 おかしな先生

 時間はつねにおなじスピードで進んでいるんだろうか? 

 ぼくは、はやくなったり、おそくなったり、ゆらゆらと変化しているんじゃないかと思っている。なぜって? ぼく自身がそれを体験したからだ。

 あの人生最悪な誕生日から六年がたった。

 当時のことはあまりおぼえていない。

 あの事件から、数年は一瞬ですぎさった。ほんとうに一瞬だ。十回や二十回しか寝ていないのではないか、と思わずにはいられないくらい。あるじきから、時間のすすむ針が急におそくなった。いや、もとに戻ったというべきなのだろう。それからの記憶は、はっきりとしている。

 ある日、ぼくは、当時のことを、養護施設の美川さんに聞いてみた。

 美川先生は、ぼくが暮らしている養護施設の職員さん。おだやかで、マイペースなおばさんだ。一番の特徴は、やっぱり、はちきれんばかりのお腹だろう。ぼくが事件についてたずねたとき、美川さんはおどろいた顔をして、ぼくの頭をやさしくなでながら、ゆっくりとはなしてくれた。

 あの日、ぼくは、警察に保護されて、事情聴取受けたらしい。鬼だ、鬼がみんなを殺した、などと訳のわからないことをわめいて、警察官をこまらせてしまったのだという。

 鬼だなんて笑ってしまうだろ? 

 でも、そのときは本気でそう思っていたんだ。猟奇的殺人鬼に、まのまえで大切な家族を殺されたせいで、ぼくの頭もおかしくなってしまったってわけ。でも、つらい記憶を無意識に変容させてしまうことは、けっこうよくあることらしい。とくに子供にはおおいんだって。精神病院にしばらく入院して、薬を飲んだり、カウンセリングを受けたりして、なんとか正気にもどった。いまでは、あのおぞましい鬼たちの記憶は、ぼくのストレスが作りだした幻だと理解している。

 そして、「まほろば養護施設」にひきとられて、新しい生活をはじめたのだ。

 あれから六年。

 今日は十三歳の誕生日。

 ぼくは、教室から窓の外をぼーっとながめていた。夏服に身をつつんだ生徒たちが、ぞくぞくと校門をぬけて、校舎にはいっていく。

 今日も平和だ。

 

 タッタッタッ、パシン!

 

 かろやかな足音が近づいてきて、背中にするどい痛みがはしった。


「いてっ! おいタクミ、やめろよな」


 ぼくは、ふりかえりながらいった。


「おはよ。あっついね」


 丸メガネをかけた背の低い少年が、教科書で顔をあおぎながら、うしろの席にすわった。

 朝日拓也。

 ぼくの親友であり、家族のような存在。三年前まで、施設で一緒にくらしていた。タクミが養子にもらわれてからは、別々にくらすようになったけれど、いまでも家族だと思っている。あの事件から立ちなおれたのも、こいつのおかげだ。ルームメイトだったタクミは、カチカチに凍りついていたぼくの心を少しずつとかしてくれた。友達想いの最高にいいやつ。おっちょこちょいで、かなりビビりだけど、そんなのはあいきょうってなもんだ。


「はいよ」


 タクミが、ふくれあがったビニール袋をおしつけてくる。たくさんのおかしの箱がすけて見える。ぜんぶ、ぼくの好きなおかしだ。

 誕生日プレゼント。

 ぼくは、眉をひそめながらいった。


「いらないって言ってるだろ」

「あげるってきめてんの」


 タクミは、へたくそなウインクでこたえた。

 それをはねのけ、こほん、とせきばらいをしてから、


「タクミ、学校におかしなんて持ってきたらダメだろう。校則違反だぞ!」


 と、生徒指導の先生のまねをしてやった。

 タクミは、きょとんとしてから、ゲラゲラ笑いだす。


「おいおい、どの口がいってるのさ。おかし持ってるくらい、トウヤにとっては挨拶みたいなもんだろう?」

「まぁね」


 顔を見あわせてニヤッと笑いあった。

 ぼくらは、問題児、だと思う。

 モットーは『一日一悪』。

 入学してから三か月、校長室によびだされたのは八回。去年退学した先輩で、夏休みまでに七回よびだされたというもさがいたようだけれど、ぼくらが記録をぬりかえてやった。愛する後輩たちのために、十回をめざしているところだ。

 もちろん、人が傷つくような悪さはしない。みんなが楽しめるような悪さをするのが、最高にクールってなもんだ。女子生徒にセクハラをする先生のかつらを、校庭で燃やしたときには、学校中の生徒が教室からはくしゅを送ってくれた。ちなみに、職員室からも、ちいさなはくしゅが聞こえてきた。


「今日はどんな悪さするか決めてるの?」


 タクミがきいてくる。


「決めてないな。うーん。体育があるし、本田の着替えでもかくしてやろうか。パンツのまま教室からでてきたところを写真にとって、校舎にはりつけてやろうぜ」


 本田というのは、クラスのいじめっ子だ。体が大きいからといって、さからえないクラスメイトたちを、げびた笑い声をあげながら、けっとばしている——ぼくの大っ嫌いなタイプ。


「いいね、おもしろそう!」


 タクミは、気前よく返事したかと思うと、なにやら考えこんだ。


「いや、でも、それは来週にしようよ。じつは、おれ、とっておきのネタをつかんだんだ」

「とっておきのネタ?」


 耳かして、とジェスチャーで合図する。


「鈴木先生のことなんだけどさ」


 ぼそぼそと耳打ちする。


「鈴木先生?」


 鈴木先生。

 ぼくらの担任。ぼくらとおなじく今年ふにんしてきた。高身長でイケメン。そのうえ、授業のあいまの小話までおもしろいときたもんだ。女子たちは、こぞって鈴木先生に熱をあげてしまっている。ちょっと気にいらないけど、完璧な先生だとみとめざるをえない。問題児のぼくらにも目をかけてくれ、タクミとは携帯番号とメールアドレスを交換している(もちろん、やらかしたときにすぐ連絡が取れるように、だ。ぼくは携帯をもってない)。


「きいておどろくなよ……なんと、鈴木先生がさ、学校であいびきしてるらしいんだよ! しかも相手は誰だと思う? 保健室のマドンナ——愛先生だってさ!」


 愛先生。

 つやのある黒髪をこしまでのばした保険医の先生。女子高生にしか見えないけれど、れっきとした二十代の女性だそう——ぼくは信じてない。先月ふにんしてきたときには、美人すぎる保健室の先生、と学校新聞で特集をくまれたほどだ。年齢がちかいこともあって、生徒からは、愛先生や愛ちゃんと呼ばれている。


「ほんとかよ?」


 ぼくは、いぶかしげな視線をむけた。

 タクミは、なんでもおおげさに言うくせがある。一のことを二どころか、十や二十にもしてひろめる。女子の一部からは、「人間拡声器」とよばれてる。


「ほんとだってば。放課後、毎日のように鈴木先生が保健室にかよいつめてるんだ。目撃者だって大勢いるんだぞ。それにさ、おかしいと思ってたんだよ。鈴木先生が愛先生を見るねっとりとした目つき。けだものが獲物を見つめてるみたいなんだ」

「へー」

「へーってなんだよ!」

「だって興味ないしな。ふたりとも結婚してないだろ? だったら先生たちが恋愛したっていいじゃんか。ちょっとくらい学校で仲を深めたって問題ないだろ?」

「問題おおありだよ! 愛先生をねらうなんてゆるせない!」


 ああ、そういうことか。

 タクミもほかの男子生徒とおなじく、愛先生に心うばわれている。『あいファンクラブ』の会長をしているくらいだ。愛先生が学校にきてから、おなかが痛いと言って、週に三回は保健室にいりびたっている。愛先生をうばわれたくない、というわけだ。


「それにさ。もし鈴木先生の弱みをにぎることができれば、これからめんどうな説教を受けなくてすむだろ?」

「……たしかに。それはありだな」


 鈴木先生の説教は長い。とにかく長いのだ。校長先生の三倍は時間をもっていかれる。

 ぼくは少し考えて、にやりとした。


「よし、きまりだ」

「ああ」

「「鈴木先生のあいびき現場をおさえるぞ!」」


 ぼくらは肩をくんで、声をはりあげた。


「なにバカなこといってるのよ」


 となりから、あきれ声がとんできた。

 髪を肩口にそろえた凛々しい少女。

 一宮真白。

 ぼくらのクラスメイト。入学当初、マシロは、うきよ離れしているというか、常識がないというか、とにかくクラスになじめていなかった。誰とも話さず、おびえたようにうつむいている少女だったのだ。ぼくらがセクハラ先生から助け、週末も一緒に遊ぶほど仲良くなった。それからのマシロの変わりようはすごいもので、あれよあれよというまに、しっかり者で明るい、クラスの人気者になってしまった。


「おれたちの計画をぬすみ聞きしたな」


 タクミがつっかかる。


「バカ話が聞こえただけ。鈴木先生があいびきなんてしてるわけないでしょ」

「絶対してるね!」

「愛先生にふりむいてもらえないからって、鈴木先生に当たるのはよくないと思うけど?」


 マシロがからかうと、タクミはプッツンしてしまった。


「なんだって! トウヤきいたか? これだよ。ちょっと顔がいいからって、鈴木先生を聖人君主かなにかだと思ってるのさ。おれにはわかるね。鈴木先生は信用できない。化けの皮はいでやる!」


 タクミは、話は終わりとばかりに、顔をふせてねる姿勢をとった。

 タクミのおこりっぷりに、マシロはじゃっかん引いてしまっている。


「悪いね。鈴木先生は恋のライバルなのさ」

「勝負にならないと思うけど」


 マシロは、冷ややかな視線を、タクミの後頭部にぶつけた。


「そういえばさ、トウヤ、誕生日なんだよね?」

「まあね」


 マシロは、整とんされた通学かばんから教科書をごっそりとりだし、なかをごそごそとあさった。そして、小箱をとりだして、つきだし、


「これ、あげる」


 と、前髪で顔をかくしながらいった。

これは、はずかしがっているときにする癖だ。


「……ああ、うん、ありがとう」


 うけとって開けてみると、皮のひもに、いびつなかたちの石がついた、奇妙な首かざりがはいっていた。たぶん手作りなんだと思う。うん。あまりセンスがいいとはいえないよな。


「なにこれ?」

「お守り。別につけなくていいから」


 マシロは、そっぽをむいて、そっけなくいう。


「いいや、ありがたく使わせてもらうよ」


 首かざりを首にかけた。

 ぼくは、誕生日がきらいだ。あの事件のことを思い出してしまうから。それこそ、誕生日には、体に不調がでて、寝こむことのほうが多いかもしれない。今年は、なにごともなくて、ラッキーだった。

 だから、誕生日プレゼントをもらうのも苦手なのだ。けれど、マシロは、ぼくの過去を知らないし、ぼくのためだけにプレゼントを用意してくれた。だったら、感謝の気持ちをもって受け取るべきだろう。

 それに、もう、あの事件のことをうじうじと引きずるのは、やめようと思っている。タクミや美川さんは、毎年、プレゼントを用意して盛大なパーティーをしてくれる。きっと、誕生日を楽しい思い出にぬりかえようとしてくれているんだ。

 きっと、みんなだって、ぼくが誕生日を楽しくすごすことを望んでくれるはずだ。

 今年の誕生日は楽しい日にしよう。

 人生最高の誕生日にしてみせよう!




 六時間目は体育の授業だった。

 ぼくは、小学生のころは、体育の時間が好きだった。体を動かすのはとても得意だし、机にかじりついて、えんぴつを走らせるのは性にあわない。けど、中学になってからは、体育にくらべれば、数学や化学でさえ天国のように感じる。

 入学してからというもの、体育では持久走しかさせてもらえないのだ。

 体育の斉藤先生は、人生でもっとも大切なことは体力だ、と言っていた。ピンチのとき、苦しいとき、体力さえあればどうにかなる、のだそうだ。

 いまもスキンヘッドのこわもてで、グラウンドのはしからにらみを利かしている。

 ぼくは、おこられない程度に手をぬいて、へろへろのタクミと並走している。


「はぁ、はぁ、あのはげおやじ。いつかとっちめてやるからな」


 タクミがわき腹をおさえながら、体をくの字にまげている。百歳のおばあちゃんみたいでこっけいだ。斉藤先生をにらみつけているけど、焦点はまったくさだまっていない。


「どうせ、本人の前じゃ、ビビッてなにもいえないんだろ」


 斉藤先生は、ぼくらが逆らえないゆいいつの先生である。入学当初、ちょっかいを出したときには、竹刀をもって小一時間追いまわされた。


「それよりタクミ、もう女子にすら周回おくれにされそうだぞ」

「はぁ、はぁ、ぐえ、いいんだよ。速く走ることに意味なんてないだろう? みえをはったってしかたないじゃないか。はぁ、ぐぇ、人生もっと大切なことがあるとおもうんだよ」


 つぶれたカエルのような声がのどからもれる。


「例えば、愛先生にかっこいい姿をみせるとか?」

「ん、まぁ、それは、かなり、大事な、ことだね」

「じゃあ、がんばって走ったほうがいいんじゃないか。女子にぬかれるところなんて、見られたくないだろ?」

「え?」


 タクミが校舎一階の保健室のほうをむいた。窓のそばにたって、こちらを見ているきれいな女性が目にはいる。


「くっ」


 タクミのスピードが上がった。なんて現金なやつだ。


「みえをはったって仕方ないんじゃなかったっけ?」

「はぁ、はぁ、男には、みえを、はらなきゃ、いけないときが、あるんだよ」


 タクミは、必死のぎょうそうで走っている。でも、無情にも、うしろの女子集団との距離はつまっていき、ついに先頭のマシロに追いつかれた。


「めずらしくまじめに走ってるんだ」


 マシロは、スピードをおとして横にならんで、タクミを見ていった。汗ひとつかいていないし、息も切れているようすはない。


「トウヤはあいかわらずね」

「ひどいじゃないか。こんなに必死に走ってるのに」

「どうだか?」

「マシロこそ、ずいぶん余裕そうじゃないか。ひょっとして手をぬいてるんじゃないの?」

「そんなわけないでしょう」


 マシロはすっと顔をそむけて、ごまかすようにスピードを上げた。本当に手をぬいているのだろうか。だとしたら、すごい体力だな。


「ま、まてっ」


 タクミは最後の力をふりしぼってマシロを追う。運わるく、グラウンドの校舎がわだ。愛先生の目の前で、かっこ悪いところを見せるわけにはいかないというわけだ。

 マシロを追いこしたところでタクミの体がぐらつき、マシロにぶつかる。


「うわ」


そして、ふたりでひっくり返った。


「おい、大丈夫かよ」

「ごめん!」


 タクミがすぐに起き上がってあわてる。


「大丈夫よ。あいたた」


 マシロのひざが大きくすりむけ、けっこうな量の赤い血が流れていた。


「保健室に行こう」


 ぼくとタクミは、マシロを両がわから支えて、保健室にむかった。

 



「愛先生!」


 声をかけると、ベッドのしきりのむこうから、愛先生が顔をだした。

 背筋をピンとのばし、きびきびと歩みよってくる。その立ちふるまいは、修練をつんだ武道家みたいだ。ぼくは、保険医さんというと、やさしくて、おだやかなイメージをもっている。げんに、小学校のころはそうだった。けど、愛先生はちがう。つめたくて、かたい印象をうける。タクミに言わせると、そこがたまらない、らしい。


「見ていましたよ。こちらに座ってください」


 マシロを丸イスにすわらせると、愛先生はきびきびと手当ての準備をしだした。薬品棚から、消毒液やガーゼをとりだしていく。

 タクミはメガネをくいともちあげ、先生のきれいな黒髪を目で追っていた。マシロにあしをふみつけられ、ぐわ、とうずくまる。

 ぼくが保健室にきたのは二回目だ。前回は愛先生がふにんするまえだった。そのときよりも、きれいにととのえられていて、ほこり一つみあたらない。きれい好きなのかな? デスクのとなりには、竹刀袋が二本たてかけられてあった。うちに剣道部はない。


「愛先生は剣道するんですか?」

「……ええ、たしなむ程度ですが」


 ぼくは、剣道一家だったこともあって、けっこうくわしい。


「へー、段位とかって——」

「すごいなあ! かっこいいです! いやー、あこがれちゃうなあ!」


 タクミが横からわりこんで、先生をほめそやす。よいしょしようとしているのがバレバレだ。先生はそれをみて、くすりと笑った。笑うと印象がガラッと変わる人だな。


「おおきく切れてしまっていますね。一宮さん、少ししみますよ」

「はい」


 先生がマシロの前にかがむ。ひざからでた血が靴下まで赤くそめてしまっている。


「ごめんな」


 タクミがほおをかいて、申し訳なさそうに頭をさげた。


「こんど、駅前のパフェおごってね」


 マシロはやわらかくほほえむ。


「げ、あれ高いじゃんか。ミニでもいい?」

「ジャンボでお願い」


 ふたりが笑いあい、なごやかな空気がひらがる。

 ふと先生に目をむけると、先生は、マシロの傷口をじーっと見ていた。

 ぼくは、先生の表情をみて、背筋がぞっとした。

 うすく笑っている。くちびるを舌でなめ、こみ上げてくるよろこびを我慢するように笑っている。まるで、獲物をみつけた肉食獣みたいだ。そして、それは、七年前に母さんを食った、あのジルーとおなじ笑いだった。


「せ、せんせい?」


 先生は、すっと表情をけし、何事もなかったかのように消毒をつづけた。


「朝日くんは、けがは大丈夫ですか? はでに転んでいましたけれど」

「ちょっとすりむいただけですよ。でも、ぜんぜんへっちゃらです」


 タクミは顔を赤くして、手をぶんぶんふった。


「きちんと消毒しておかないといけませんよ。ちいさなキズ口からばいきんがはいって、あしやうでを切断したケースだってあるんですからね」

「そんな、おおげさな。怖いこといわないでくださいよ」


 今度は顔を青くする。信号がかわったみたい。


「でも、そうだな。やっぱり消毒だけはしてもらおうかな。いちおう、念のためね。ははは」

「こわくなったんだ」


 マシロがぼそりとつぶやく。

 ちがうから、とまた顔を赤くするタクミをみて、愛先生がくすくす笑った。その笑顔は化粧品の広告にでてくるモデルさんのように上品だった。

 でも、ぼくは、あの、先生の鬼のような表情をわすれることができなかったんだ。



 放課後。

 ぼくは、保健室のベッドの下で息をひそめていた。

 鈴木先生と愛先生のあいびき現場をおさえるためだ。

 帰りのホームルームがおわると、タクミが保健室から愛先生をつれだし、そのすきに、ぼくがしのびこんだ。ベッドの下を選んだのは、ほかにかくれる場所がなかったからだ。すでに愛先生はもどってきている。ぼくは、タクミの携帯電話の録画画面を準備し、鈴木先生がくるのを待ちかまえている。

 正直、こんなことしたくない。

 きのうまでなら、いや、つい一時間前までなら、このスリルあふれる冒険に、こおどりしながらとびこむことができた。けれど、さっきの愛先生をみてから、かかわらないほうがいい、と思わずにはいられなくなった。どうしてか尻ごみしてしまうのだ。

 結局、タクミに押しきられて、こんなことになってしまっているのだけれど。ぼくは、音をたてずにため息をついた。

 さっきから、キーボードをたたく音と、ペンをはしらせる音が交互に聞こえてきている。愛先生は、デスクにすわって書き物をしているらしい。

 なんだか、若い女の人の部屋にかくれているのって、変態みたいだよな。

 そんなことを思っていると、ノックの音がひびいた。


「どうぞ」


 愛先生が返事をすると、ガラガラとドアが開き、


「失礼します」


 と、低くて、のぶとい声がはいってきた。

 鈴木先生だ!

 高級そうな茶色の革ぐつが愛先生のデスクに歩みよる。

 まさか、本当にくるなんて! 正直、半信半疑だった。いや、むしろ、タクミが大げさにいっているだけで、あいびきなんてありえないと思っていた。

 これはだいスクープだ! 

 胸がどきどきしはじめた。

 ぼくは、いそいで録画をはじめる。

 ぴろん、と開始音が鳴ってしまった。ヒヤッとしたけれど、校庭でさけんでいる野球部のおかげで、聞かれずにすんだみたいだ。

 ふたりの会話をききのがすまい、と耳をそばだてる。


「愛先生、毎日すみません」

「いえ、かまいませんよ」

「そういえば、さきほど一宮がお世話になったみたいですね。大事ありませんでしたか?」

「ええ、ただのすり傷でしたよ。とくに問題はありません」

「それはよかった。では、今日もよろしくお願いします」


 鈴木先生がなにかの書類をわたしているようだ。

 そして、しばらく無言が続いた。


「あいかわらず、鈴木先生は、よく生徒のことを見られているんですね。玉木くんが学校に通えるようになってもう二週間ですか。ええ、この調子なら大丈夫でしょう。鈴木先生もいそがしいでしょうから、毎日報告していただかなくていいんですよ」

「これも生徒のためですからね。でも、そうですね、これからは週に一度にしましょうか。一時はどうなるかと思いましたけど、愛先生には助けられてばかりですね。ありがとうございます」

「とんでもありません。生徒の健康を守るのが仕事ですから。体だけでなく心もです。わたしよりも、吉備くんや朝日くんに感謝しないといけないかもしれませんね」

「彼らがいるから、玉木も安心して学校に通えるのでしょう。……まあ、あいつらには手を焼かされることのほうがおおいですけどね」


 ふたりの笑い声がひびく。

 そのあとも、五分くらい雑談を続けていたけれど、ぼくは録画をとめてききながした。

 なんだ、やっぱり、あいびきじゃないじゃないか。

 また、タクミのさきばしりだ。

 おたがいに敬語だし、恋人という感じでもない。

 先生たちが話していたのは、クラスメイトの玉木のことだ。

 入学してすぐ、玉木は、本田にいじめられて不登校になった。やっと登校できるようになったのだけれど、本田がこりずにちょっかいを出していた。そこで、ぼくとタクミがいろんないたずらをして、本田をこらしめてやったというわけだ。

 まぁ、何事もなくてよかった。これでタクミもほっとするだろう。

 鈴木先生が保健室をあとにしたので、ぼくもどうやってぬけだそうか考える。

 すると、また、愛先生の声が聞こえた。ぼそぼそとこもっていて、何を言っているのかわからない。どうやら、声をおさえて電話をしているようだ。

 電話をぬすみぎきするのは、いい気分がしない。ベッドの下からはいでようする。


「……おに」


 心臓がどきりとした。

 鬼? 

 聞きまちがいか?


「…‥はい……鬼」


 いや、聞き間違いじゃない。こんどは、はっきりと聞き取れた。

 電話で鬼の話をすることなどあるか? 節分のイベント? それとも映画やマンガのはなし? たしかに、最近はやりのマンガに鬼が登場するものがあった。だけど、まじめな愛先生が仕事中に声をひそめてするだろうか? 

 ぼくは、先生の冷ややかな笑みを思い出して、ぞわっと全身に鳥肌がたった。

 目をつぶり、必死に耳に意識を集中させる。


「……人間を殺し……鬼……今日にでも……殺す……はい」


 先生が電話をきった。

 心臓がバクバクと頭に血をおくりはじめた。耳なりがして、体があつくなる。視界がくらくらする。緊張であせがながれる。口に手をあてる。息づかいすらも消してしまいたい。

 ああ。これはだめだ。きっと聞いてはいけないものを聞いてしまった。

 いや、待てよ。待ってくれよ。なにを怖がっているんだ。鬼なんていない。いるわけがないじゃないか。ベッドの下からでていって、鬼ってマンガの話でもしてるんですか、と聞いてしまえばいいじゃないか。

 なにも考えたくないのに、こんなのときにかぎって、頭がさえわたる。

 あの日を思い出す。

 ストレスによってかたちを変えた記憶。

 ほんとうに? ほんとうに鬼はいなかったのか? あの記憶はいつわりのものなのだろうか? そう思いこもうとしているだけのでは? ぼくの家族を殺したのは本物の鬼だったんじゃないのか? きっとそうだ。

 そして、愛先生も鬼の仲間なんだ!

 今年の誕生日もひどいものになりそうだ。



「トウヤ、どうだったのさ!」

 

 部活のかけ声がひびく教室でタクミは待っていた。かけよってくるタクミに携帯電話を返しながらいった。


「あいびきなんかじゃなかったよ。玉木のようすを報告して、なんかアドバイスをもらっていたみたいだ。メンタルケアのしかたでも教えてもらってたんじゃないか」

「玉木? そっか! やったぜ! まあ、愛先生が鈴木先生みたいな男になびくわけないってわかってたけどって、おい、どうしたんだよ?」

「なにが?」

「なにがじゃないだろ。顔真っ青だよ?」

「なんでもない」


 ぼくは決めていた。

 このあと、愛先生を尾行して、真実をつきとめてやる。先生は、「人間」「今日にでも」、「殺す」と言っていた。このあとすぐに動くってことだ。もし、愛先生が鬼の仲間か、もしくは鬼が人間に化けているのだとしたら、つかまえて警察につきだしてやる。ぼくの家族のように、人間をとって食おうとしているなら、絶対にゆるさない。どんな手を使ってでも止めてやる!

 かりに、ぜんぶぼくの勘違いだったとしてもかまわない。まぬけな中学生が美人な先生をストーキングしただけですむ。ちょっと時間をムダにするだけさ。

 けれど、タクミをまきこむわけにはいかない。タクミには、やっとできた家族がいる。タクミを大切におもっているお父さんとお母さんが、あたたかい家でまっているのだ。


「職員室に用事があるから、さきに帰っといてくれよ」

「用事って?」

「まあ、ちょっとね。じゃ、また明日な」


 かばんをかついで教室を出ようとしたとき、うしろから声がかかった。


「お、ふたりとも、ちょうどよかった。ちょっといいか?」


 鈴木先生が教室のドアによりかかっていた。

 天井にぶつかってしまいそうなほどの高身長。スポーツ選手のようなあつい胸板。あいもかわらず、えんじ色のスーツがよくにあっている。どこかで見たことがあるような気がする。ドラマの主演俳優か、それとも、父さんに少しにているのかもしれない。


「なんですか?」


 ぼくは、はやく愛先生の監視に行きたくて、とげとげしくいってしまった。


「そんなにじゃけんにしなくてもいいだろ。そうか、さては、次のいたずらの作戦会議でもしてたんだな? ほどほどにしてくれよな?」

「ちがいますよ。おれたち改心したんです」


 タクミがにやりと笑った。

 鈴木先生は、出席簿でタクミの頭をパシンとたたく。


「その言葉、今週で三回目だぞ。……まぁ、お前たちのおかげで助かっている人もいっぱいいるんだけどな。ちょうど礼を言いたいと思ってたんだ。玉木のことありがとうな。お前らが仲良くしてくれるから、あいつも楽しく学校に来ることができてる」


 先生はさわやかに笑った。


「おれたち別になにもしてないですけど?」

「そうか、そうだな」 


 先生はまたタクミの頭をたたく。こんどはやさしくだ。


「先生」


 ぼくは、たずねてみることにする。


「先生は、愛先生とよく話をするんですよね?」


 タクミがぎょっとする。


「ん? ああ、まあな、最近は玉木のことでよく話しているな」

「おかしなところなかったですか?」

「おかしなところ?」

「たとえば、電話でみょうなことを話していたとか、人の血を見て笑っていたとか」

「血を見て笑う? なんだそれ? おかしなところなんてなかったぞ。生徒おもいのすばらしい先生だよな」

「そう、ですか」

「なんだ、気になることでもあるのか?」

「いえ、なんでもありません」


 先生は、わけしり顔でにやにやし、ぼくの肩をポンポンたたいた。


「ああ、そうか、そうか。トウヤも愛先生にほれたのか。まあ、わかるぞ。おれも、一度はああいうクールなタイプと付き合ってみたいな」

「なんだって!」


 タクミがあわて、メガネがずりおちる。


「せ、せんせい、愛先生のことねらってたりは?」

「それもありかもな」


 タクミが直立したまま、かたまる。


「冗談だよ。冗談。朝日のおもい人をうばったりしないさ」


 先生は声をあげてひと笑いすると、はやく帰れよ、と言って教室をあとにしようとした。


「先生!」


 鈴木先生がふりかえる。


「鬼っていると思いますか?」


 タクミが眉をひそめる。

 鈴木先生は少しだけ真顔でぼくをみつめ、そして答えた。


「いるわけないじゃないか」





 ぼくは、正門のそばにある自動販売機うらに身をひそめている。

 日はしずみかけ、あたりは暗くなりはじめた。部活をおえた生徒たちが、つぎつぎと校門を出ていき、だんだんと人通りが少なくなってきた。


「まさか、裏門からでていったってことはないよな」


 愛先生が保健室にいることを確認し、それからずっと正門を見はっている。三十分たっても姿をあらわさない。すこしずつ不安がふくらみはじめた。

 そのとき、愛先生が正門からでてきた。

 見なれたかっこうではない。黒髪をひとつしばりにして、黒いパンツスーツを着こなしている。はやあしで反対側にむかって歩いていった。

 ん? なんだあれ?

 先生は背中になにかを背負っている。あれは竹刀袋、か? 保健室でみた竹刀袋を二本とも背中にかけている。

 一瞬、学校にいくときの姉さんと兄さんの姿がうかんだ。けど、いまはそんなことを考えている場合ではない。先生の正体をつきとめてやる。

 ふーとゆっくり息をはく。


「よし!」


 ぱちん、と顔をたたいて気合をいれた。

 自動販売機うらをでようとして――。


「いつから愛先生のストーカーになったのさ。まさか、ほんとに惚れたなんてことはないよね。抜けがけしたらおこるからな」


 ドキリとしてふり返ると、タクミが頭のうしろで手を組んで、へらへらと笑っていた。


「なにしてんだよ!」

「いやいや、こっちのセリフ」

「帰れっていっただろ!」

「あんな顔でいわれても、心配になるだろう。『鬼』なんていいだしたのも、ずいぶん久しぶりだしさ。いったいどうしちゃったんだよ」

「いいから帰れってば!」

「やなこった」


 タクミはこうなると頑固なのだ。ぼくは途方にくれてしまった。


「おじさんとおばさんが心配するだろ」


 タクミは、ばつの悪そうな顔をする。

 タクミの家には遊びに行ったこともあるし、タクミの養親にもなんどが会った。かれらは、タクミのことを本当の子供のように想っている。そのうえ、ひどく心配性なのだ。施設でくらしているころは、門限なんてやぶるためにある、と思っていたタクミが、いまでは六時には必ず帰宅するようになっている。めんどうなジジババだ、なんてタクミは言っているけど、本当は大好きなのだ。

 やっとできたタクミの家族。タクミを危険にさらして、幸せをこわすわけにはいかない。こんどばかりは、いつものいたずらとちがう。命の危険があるかもしれない。


「もう六時すぎるぞ」

「……大丈夫。トウヤの誕生日パーティーがあるってメールしておいたから。で? なんでおれを遠ざけるのさ。保健室でなにかあったんだろ?」


 ああ、ちくしょう! ごうじょうなやつめ!

 愛先生が通りをまがって見えなくなった。

 もう、仕方がない!


「追いかけながら説明するから、聞き終わったら帰れよ」

「はいはい」


 タクミの勝ちほこった顔に腹がたったので、すねに一発けりを入れておいた。

先生のあとをつけながら、ぼくは、先生がマシロの傷を見て笑っていたことや、保健室でぬすみぎきした電話の内容についてはなした。タクミがよけいな質問をしてくるせいで、しばらく時間がかかってしまった。あたりはかなり暗い。見失ってしまわないよう、先生の三十メートルほどうしろを歩きながら、ひそひそと会話をする。


「うーん。なんか映画の話とかだったんじゃない?」

「仕事中に声をひそめて?」

「そりゃあ不自然だけどさ。でもさ、そもそも、七年前の鬼は記憶ちがいで、鬼なんていなかったって言ってたじゃんか」

「たしかにそう思ってた。解離性健忘だか、PTSDだか、強いストレスをうけたせいで記憶をゆがめてしまった、そう説明されてたんだよ。でもわからなくなった。いや、あれは本当にあったことなんじゃないかと思い始めてる」

「頭につのが生えた鬼がいたって?」

「そうだよ! 頭がおかしくなったと思うなら、そう思ってればいいだろ! 家族を殺されていかれたやつが、妄想に取りつかれて、先生のストーカーになったのかもな!」


 いらいらして、声をあらげてしまう。


「声が大きいって。そんな怒らないでよ。信じてないわけじゃないんだ。でもな、うーん」


 タクミは首をひねっている。

 愛先生は、ときどき立ち止まって携帯電話をみて、また歩きだす。


「ともかく、あとをつければわかる話だ。お前は帰れって」

「いや、やっぱついてく」

「おい!」

「もし危なくなったら、トウヤおいて逃げるから大丈夫だって」


 タクミはびしっと親指をたてる。

 嘘だ。

 タクミはビビりのくせに、ぼくをおいてひとりで逃げることはしない。そのせいで、不良高校生にボコボコにされたり、警察に何時間も説教されたり、ひどい目にあったことがたくさんある。そんなところが好きなんだけど、だからこそ今回は帰ってほしい。

 もう一度、言い返そうとしたとき、タクミがぼそっとつぶやいた。


「あれ、ここらへん来たことあるよな? ……ほら、マシロの家の近くだよ」

「え?」


 だしかに。暗くてわからなかったけど、見覚えのあるスーパーがある。マシロが体調不良で学校を休んだとき、タクミとおみまいにきた。なにか食べられるものを買っていこう、とこのスーパーにたちよった。

 嫌な予感がする。

 マシロを見ていた愛先生の笑みが頭にうかんだ。

 愛先生は、マシロの家があるとおりをまっすぐ歩いていく。

 たのむ、通りすぎてくれ!

 あと二十メートル。十メートル。五メートル。そして、立ち止まった。ぴったり、マシロの家の門のまえ。そして、門に手をかけ、なかにはいっていく。

暗くてよく見えないはずなのに、どういうわけか愛先生の顔がはっきりみえた。冷ややかな目。どうもうな笑み。ああ、最悪だ。

 体の力がぬけていくのを感じた。



 こっそりと門をぬけ、家にへいせつされた駐車スペースから、ようすをうかがった。カーテンがしめきってあって、なにも見えない。こもったはなし声が聞こえてくるけれど、なにを言っているのかわからない。

 白くとそうされた、三階だての一軒家。

 ぼくがすんでいた家とおなじ。

 七年前の記憶がフラッシュバックして、吐きけがこみあげてくる。


「どうしよう。体育のけがのことを親に伝えに来たのかなって大丈夫?」


 タクミがぼくの顔をのぞきこんだとき、家のなかから悲鳴が聞こえた。つづいて、ガラスがわれる音。走りまわる足音。また悲鳴。

 ああ、間違いない。七年前とおなじことが起きようとしている。


「いまのマシロだよね? え、まさか、本当に愛先生が鬼だってこと? そんなことってあるの? でも、なにかおきてるのは間違いないよね。ああ、もう、どうしよう?」


 タクミがパニックにおちいる。


「助けないと」


 ぼくが立ち上がると、タクミが制服のすそをひっぱった。


「ちょ、ちょっと、待ってよ。危険だって。誰か呼んでくる方がいいんじゃないかな」

「すぐに行かないと手おくれになる。マシロが殺されるんだぞ」


 争い合う音がひっきりなしにつづいている。


「ぼくは家族を殺された。つぎは友達を殺されるなんてまっぴらだ。もし、ぼくが出てこなかったら、すぐに警察に連絡してくれよ」


 ふーっと長い息をはいてから、走り出そうとしたけど、タクミはまだ手をはなさない。


「お、おれもいくよ」

「ふざけるな! なんども話しただろ。鬼は簡単に人を殺すんだ。人を殺して食うのがなによりの楽しみなんだ。先生が鬼なのか、鬼の仲間なのかはわからないけど、どっちにしろタクミなんかすぐに殺されるぞ」

「トウヤだっておなじじゃないか。お、おれだって友達をなくすのは嫌なんだよ」


 タクミは涙目になって、ぶんぶんと首をふる。


「なぁ、タクミ、お願いだから言うことを聞いてくれよ。ぼくにとってお前は――」

「ま、まって。音が、音がしなくなった」


 ハッとして耳をすますと、あたりは物音ひとつしなくなっていた。

 がちゃり。

 ぼくらは、おおあわてで、地面にふせる。

 でてきたのは愛先生だ。大きなキャリーバックを重そうに転がして、ゆっくりと歩いていく。ああ、そんな。うそだ。遅かったのか?

 先生が見えなくなると、ぼくは、マシロの家に飛びこんだ。

 リビングは、あらゆるものがひっくり返り、ひどい状態だった。でも、さいわいなことに、血は見られない。マシロの死体もない。


「なんだよ、これ」


 ついてきたタクミは、信じられないという顔でたちつくす。


「タクミは上をみてきてくれ!」


 ぼくがどなると、ああ、といってタクミは動きだした。

 ぼくは、一階にあるドアをひとつずつ開けはなって確認していく。トイレ。洗面所。物置。どこにも、マシロはいない。二階もおなじだった。タクミが三階につづく階段をおりてきて、首を横にふる。どこにもいない。ということは、考えられるのはひとつだけだ。


「キャリーバック、か」

「キャリーバックって?」

「先生が引きずってただろ。来るときにもってなかった。この家にあったものを持ち出したんだ。おそらく、なかには——」

「じゃあ、マシロはもう……」


 タクミがわなわなと唇をふるわせる。いいたいことはわかる。けれ、そんなことは考えない。


「へんなこというなよ! とにかく先生を追いかけるぞ!」


 七年前とはちがう。こんだこそ助けるんだ。でも、もし、先生がマシロを殺していたとしたら、そのときは——ぼくがあいつを殺してやる!


「タクミは警察に通報してくれ!」


 ぼくは、キッチンから包丁を取り出して、家をとびだした。

 先生が歩いていったほうへむかって全速力で走る。どこに行ったかなんてわからない。けど、重たいキャリーバッグを運んでいるなら、そう遠くには行ってないだろう。

 あてずっぽうで道を曲がりながら、とにかく足を前にすすめた。自転車に乗ったおばさんにぶつかり、どなられても気にしない。会社帰りのサラリーマンの間をぬって、とにかく走った。道ゆく人は、なんだなんだ、とこっちに視線を送ってくる。

 でも、そのなかに愛先生の姿はない。


「くそっ」


 悪態をついて、かどをまがると、目のまえに愛先生がいた。急ブレーキをかけて、いそいでマンションのかげにかくれる。

 気づかれたか?

 息をととのえてのぞきこむ。先生は携帯を見ていて、こちらを気にするそぶりはない。よかった。見つかってはいない。

しばらく、画面を操作していた先生だったが、ようやく歩きはじめた。


「はぁ、はぁ、先生は?」


 タクミが追いついてきた。


「すぐそこにいる。警察は?」

「とりあってくれなかったよ」

「なんで!」

「信じられないって。いたずらするなら、学校に連絡するってしかられた」

「なんて伝えたんだよ」

「そのまんまだよ。学校の先生がじつは鬼かもしれなくて、クラスメイトをキャリーバックにつめこんでさらいましたって」


 ぼくは頭をかかえた。

 そんな言い方では信じてもらえるわけないだろ。


「どうする?」


 タクミが不安そうに聞いてくる。


「よし。人通りのおおい道に出たらキャリーバッグをうばおう。人前ならへたに動けないはずだ。ここは人が少なすぎるから——」


 先生は道なりにある建物に入っていってしまった。


「ちくしょう!」


 先生がはいった建物。それは使われてない立体駐車場だった。立ち入り禁止の標識がおかれたまっ暗な入口。悪魔が大口をあけて待ちかまえているようだ。いや、待ちかまえているのは鬼か。吹きぬける風がゴーっと耳をならす。


「行くしか、ないか」

「ほんとに? いや、おれも行くけどさ。でも、やっぱり誰か呼ぶべきじゃないかな?」

「呼ぶってだろを? もういちど電話しても、どうせ警察は信じてくれないだろ? ほかに助けになってくれそうな人なんて——」


 そこでひらめいた。ひとりいるじゃないか。ぼくらの言うことでも信じてくれそうで、たよりになる大人で、それでいて、タクミが連絡先を交換している相手が。


「鈴木先生だ! まだ学校にいるのだとしたら、車で十五分もかからないはずだ。」

「え? 鈴木先生? うん。まあ。そうか」

 

 タクミは、あまり気のりしないといった感じで、鈴木先生に電話をかける。 

 しばらく声をおさえて話していたけれど、だんだん音量があがっていった。だから愛先生! さらわれたんだって! いや鬼だってば! という具合だ。あまりに大きな声でしゃべるもんだから、静かにしろ、と注意しようとしたところで、タクミがイライラしながら電話をきった。


「どうだった?」

「とりあえず、こっちに向かうって」

「十五分、か」


 ゆうちょうに待っている間にマシロが殺されるかもしれない。鈴木先生が来てから動いて、マシロのはらわたを食い散らかしている愛先生を見つけたんじゃだめだ。あんな辛い思いは二度としたくない。絶対にいやだ。

 ぼくは、入口の前に立った。タクミも横にたつ。


「ほんとに来るのか」

「親友を一人で行かせるわけないじゃないか」


 タクミのひきつった笑みを見て、ちょっとだけたのもしいと感じてしまった。無理やりにでも止めるべきだったのだけれど、そうはしなかった。それは怖かったからだ。ぼくも、これから起きるおそろしい悲劇に身をふるわせていたから。

 でも、たぶん、ここだったのだ。

 人生は決断の連続だ、とはよく言うけれど、ほんとうに人生を決めるような決断はそうおおくない。そのわりに、ふいにおとずれるものだ。ぼくの場合はたぶんここだった。

そして、ぼくは大きなミスをしてしまった。

 それは、取りかえしのつかない最悪のミス。

 ここははじまり。ほんとうの地獄の入口だった。


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『ヤクと悪魔の塔』

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鬼狩りトウヤ(子供がよめるように漢字少なめ) @kasaisatoshi

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