先生は、より猫背を丸めると深く息を吐いた。空は黒い雲を連れて雨を降らせている。

「本当に……旦那様なのですか?」

 僕の知るあの人は立派な方だ。仁に生きるような筋の通った男である。寡黙で必要以上には語らず、けれど暖かな心持ちの方だ。先生の言う人と同じには思えない。問うても、先生は口角を上げただけであった。それが答えなのだ。

「僕は、生まれながらに色の判別がつかない。君たちの言う白と黒で構成されているらしい。そして、あの日から弱視となった。一応見えているが輪郭がぶれてしまうことがあるのだよ」

「……恨んでいないのですか」

「好いた女を取られたごときで恨んでいたら、身が持たない。お前みたいな子どもを預けられたことの方が余程恨んでやりたいよ」

「僕はそんなことが言いたいのではありません! 直接でないとはいえ、その目は」

 原因が何かは分からない。偶然でも必然でも、その日、その出来事によって、先生の世界の一部は奪われたのだ。恨んで当然だと思うのに、彼は笑っていた。今まで見た中で一番穏やかであった。

「言葉の香りを一緒に楽しんだ女がいた。詩人であることを天職だと言った男がいた。彼らがいたから、僕は詩を書いて、この目を愛せた。この弱視もきっと同じだ。詩のために奪われ、与えられた才だ。全知全能は幸福ではない。見える物が曖昧な方が余程生きやすい。こんな世界では尚のこと」

 頭に乗せられた手は、僕の輪郭をなぞるように頬、耳、首、そして肩に落ちる。柔らかな声色は、泣いた子どもをあやすようだった。先生は、強く握られて皺だらけになって手紙を見た。

「彼、戦争に行くのだね」

「……そのようですね」

「おや。喚かれる覚悟をしていたのだけれど」

「事実、嘔吐しそうです。けれど、軍人に仕えているのならば覚悟しなくてはいけません」

 震える声に混ざった虚勢を必死に抑え込む。

「そうかい」

「僕は、……あの屋敷を守るべきでした」

「もう売ってしまっただろう」

「それでも! 僕は、帰りを待つべきでした」

 奥様の前で手を合わせる彼に、僕が問うべきだった。そして、是が非でも屋敷にいるべきだった。主人を一緒に待つべきだったのだ。たとえ、帰ることがなかったとしても。

「違う。お前がここにいることこそが彼の望んだ贖罪だ」

「僕が……?」

「お前は、息子のような存在だ。彼女と育てた子。厳格な父という姿を親友である僕に崩され、息子に恥を知られることは……何よりの苦しみだろうよ」

 幻滅したと一言で済ませてしまえればよかった。友人の想いに気づいていながら、何も言わず最も大切な女性を奪うのは主人とは思えない。気づけば、涙が零れていた。何に対して泣いているのか分からない。けれど、苦しくてならない。下を向いて声を殺すと、無骨な指で涙が拭われた。強く拭かれて肌が剥けそうなほどだった。痛くて顔を上げると先生は、眉を下げていて瞼を伏せた。目尻の皺が濡れているように見えて、息を呑む。

「露を集めておくれ」

「……どの花でしょうか」

「菊の花がいい」

 重陽の節句だからと庭師が植えた菊は、天からの雨を幸福そうに浴びている。

「菊の花に綿を被せて、朝露を集めておくれ。彼に返事を書こう。お前も出すといい」

「はい。……心して準備いたします」

 菊の露は、長寿の証だ。先に生まれて死んでいた人たちが、一日でも多く太陽を見られるようにと、一年に一度祈願をした。清らかな人の願いを纏った花。

「じきに雨は止む」

 空の雲は薄く遠くに流れていた。床に落ちた小瓶を手に収める。菊の願いを墨に込めて、手紙を書こう。きっと明日は、晴れるから。


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墨の香り、菊の露 涼風 弦音 @tsurune

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